ザリガニの鳴くところ
題名:ザリガニの鳴くところ
原題:Where The Crawdads Sing (2018)
作者:ディーリア・オーエンス Delia Owens
訳者:友廣純
発行:早川書房 2020.03.15 初版 2020.04.25 4版
価格:¥1,900
野生の少年、オオカミ少年、ジャングルブック、といったイメージはこの本には全くわかなかった。野生の中で独りで生きる少女の物語でありながら。
人間世界と隣り合わせに生きることで、文明世界から差別と偏見で見られるといった、社会的側面を持つからだ。また彼女に文字や言葉を教える文明世界側の少年が、彼女を世界と繋げる絆となる点においても。
優しさと残酷さを併せ持つ、野生と文明の分岐点。明確な直線ではなく、水面で交じり合う絵の具のように刻々と色合いを変えてゆく。それがこの小説である。
1952年、アメリカ南部。ノースカロライナ州の海に面する湿地帯。たった独り、離散してゆく家族たちから取り残された少女。1969年、火の見櫓から墜落した死体が発見される。フーダニットのミステリ。二つの時代が併行して語られ、やがてそれらが合流する最終章。
何といっても家族から捨てられる少女の孤独が際立っている。そして彼女を救うのが湿地の生き物たちであること。自然そのものの中で独りの生き物として動物、鳥たちに交じり合う存在であること。その中で静かに成長する彼女の研ぎ澄まされた感性が素晴らしい。小説全体に謳歌する鳥や虫や植物たちなど生命への讃歌は、読者の感性に否応なく鳴り響く。
砂浜で貝を掘り集めて港で売りさばき、最低限の買い物を店で済ませて湿地の小屋に帰り、電気も水洗もない場所で暮らす幼き少女。ボートで行き来する海と沼。繰り返される野生の中の昼と夜。こんな小説があるのだ、と感性を揺すられるページの数々。出会いと別れが訪れる。心の震えと、絶望と、再生への希みと。
これらを書き記す作者は69歳女性、初めて小説を書いたという本業は動物学者なのである。フィールドワーク経験ゆえか、自然描写は半端ではない。昨秋ポケミスで出版されたジェイムズ・A・マクラフリン『
熊の皮』の作者も山育ちのネイチャーライターであり随所に自然に親しむ作者のカラーが滲み出ていたが、この手の原始回帰型ミステリは、今後、文明批判的側面を武器に、新型コロナ禍に脅かされる今日の文明に警鐘を鳴らしてゆくのかもしれない。
十年に一作の傑作、と言われる本書。嘘ではなかった。ぼく自身、この書は十年に一作あるか否かの傑作と認めたい。今年のミステリでの首位格は、既に本作で決定としたい。この少女を生きてほしいという作者の心の響きは必ず伝わってくる。少女カイアと、彼女を助ける人々の優しさがたまらない。家族は家族ではなく、他人が家族より愛の強い世界。差別と偏見に満ちた世相だからこそ、優しさは真実のものとして受け入れられる。
いくつかのシーンでは読者は涙を禁じ得ないだろう。心をひっつかまえに来る小説なのだ。これほど情動豊かな作品はそう滅多にあるものではない。心や情に飢えた人々に読んでいただきたい。様々な魅力に溢れた作品でありながら、ミステリとして法廷小説として読める終盤。そして結末の見事さ。新人作家とは思えない書きっぷりを、じっくりとご堪能あれ!
(2020.05.23)
最終更新:2020年05月23日 16:34