その手を離すのは、私
題名:その手を離すのは、私
原題:I Let You Go (2014)
作者:クレア・マッキントッシュ Clare Mackintosh
訳者:高橋尚子
発行:小学館文庫 2020.06.10 初版
価格:¥1,100
ミステリーというよりも、仕掛けの多い普通小説と考えてもよいのかもしれない。作者は元警官で、事件はひき逃げ事件。ひき逃げという犯罪をミステリーで取り上げているのを読むのは、ぼくとしては初めてである。だが犠牲者は幼い男の子で、母親はその手を離したことを悔いている。
二章に分けられた構成で、一章は過去から逃げている傷ついた女性の章と、捜査側である警察官の章とが交互に描かれている。どちらも事件を離れて家族や周りのキャラクターとの交流や軋轢、情感の流れの不安定さを描いて、ここだけ読んでゆくと優れた文芸小説を読んでいるような意外な愉しみに心が満たされる。
女性の側は、喪失感と過去への痛みで、心をいっぱいにして、ウェールズの海岸に辿り着く。コテージを借りて、海辺を散歩するうちに、砂に書いた文字を流木などで囲んで写真に撮ったところ、その写真が次第にネット販売で売れてゆく。心優しき村人たちに囲まれて、助けられて、孤独を癒されて、第二の人生が確実に歩まれる。
個人的には最近知った近所の人知れぬ海辺が、この本のイメージとぴったり。砂浜も崖も。波も、静かな海も。ぼくは個人的にこの小説のこの舞台が、読書中、とても親密な風景に感じられていた。
さてもう一方は刑事と同僚、刑事と家族の日常生活を描く。ひき逃げ事件は半年ほどで捜査終了との上からのお達しがあるが、見習い女刑事ケイトのこの事件へのこだわりと家族のための生活に重視したスムースな出世という選択肢の軋轢に悩む。二人の子供のことも心配である。妻と同僚、家庭と仕事というバランスが取りにくい不器用な主人公警察官の事件との関わりの中での現実感のある懊悩も読みごたえがある。
そして一章の最終章で、いきなりの驚きの転換点が読者に訪れる。今まで読んできた土台がざっくり滑り出すような、この不安定感は何なのか。
真相は二章で次第に解き明かされる。これまで登場しなかったある男の独白の章が加わり、視点は三人の間を交互に描き始めるのだ。この小説はひき逃げ事件のサスペンスの奥の、さらに見えにくい奥の深い犯罪の真相を徐々に露わにしてゆく。ひき逃げ事件にもしっかりと決着が付けられて、この物語の持つ仕掛けの巧妙さに、実は最後には驚き、呆れることになる。
読んでいて思い出したのは、レミギウシュ・ムルス作『
あの日に消えたエヴァ』。ポーランドのDVの多さと深刻さを世界に引きずり出した作品と言えるが、その時の痛みと同種の感覚を持ちながらこの本の後半を読み続けるのが辛く、解決を待ち望む手が思わぬページターナーたる同書のパワーを持続させていた気がする。
この作品の重厚さと念入りな仕掛けを成功させたのは何よりもストーリーテリングである。元警察官である女性作家のデビュー作品ということだが、元警察官時代の実際にあったひき逃げ事件の痛みをモチーフにして、警察の実にリアルな内情や職業と家庭を両立させるバランスの難しさなど、それらに感じられる妙なリアリティに納得させられる。最近の小学館文庫は強力な作品が多いように感じる。タフな発掘力に今後も期待したい。
(2020.08.16)
最終更新:2020年08月16日 14:49