苦悩する男
恥ずかしながら、ヴァランダー・シリーズを読むのは初である。終わってしまうシリーズの最後の一作と知れているところから手をつけるというのもどうだろうと思われたが、それもまた一興、と運を天に任せて読み始める。そもそもこのシリーズはドラマ化されたものをWOWOWで見ており、心惹かれる印象があった。いつか読まねばならないシリーズの一つとして常に宿題となっていたのだ。現在ではAMAZON PRIMEでの視聴もできるので、シリーズ全作の読書に取り組んだ後、ドラマで追体験してみるのもよいかと思う。この一作を読み終えた今、その思いはむしろ強まったと言える。
スウェーデンの得意とする北欧ミステリの底力を、マルティン・ベック10作で十分に味わったぼくが、その後、ヘニング・マンケルや『
ミレニアム』のスティーグ・ラーソンなどの王道を味わうことなく来てしまったのは何故だろう? いずれにせよ『
イタリアン・シューズ』という普通小説でこの作家の筆力に唸らされて以来、マンケルへの食指が改めて動き始めてしまった。それにしても創元推理文庫の翻訳の遅さは毎度のことながら驚嘆させられる。王道の作家でありながら未だにシリーズ完訳が成っていなかったとは。しかしそのおかげでこの作品を手に取っているのだ。深謝すべきかもしれない。
本作は、思いのほかスケールの大きな国際冒険小説を思わせる意味深なプロローグに始まる。しかし、その後の描写は、ヴァランダーという個人の行動、思考、体感、心理などを描くことに費やされる。ヴァランダーという刑事を、まるで普通小説の一個の人間のように読者は追跡することになる。家族のこと、過去とのこと、不穏な未来のこと、彼の体や心に起こっている奇妙なこと。微々たるように思えるが異常な、ことのほか重要と考えねばならないのかもしれない出来事などなど。
休職中のヴァランダーの娘婿の親の失踪という、極めてヴァランダーにとって近い事件が発生。通常の警察小説というより、私立探偵小説に近いものを感じさせる全体なのに、違和感さえ感じさせる冷戦時代のロシア潜水艦にまつわる謎。グローバルで歴史に関わるスケールを持つ大掛かりな事件と、今現在ヴァランダーが追跡する親類縁者の失踪事件は、どのような関わりを持つのか?
本作では、『イタリアン・シューズ』でも見せてくれた自然描写も、もう一つの魅力を見せる。島々や礁に満ちたフィヨルドを疾駆するボート。農場や大地を走り抜ける車。ヴァランダーはめくるめく多種多様な人々に出会う。それぞれの風土の差を、肌で感じる。出会いと対話と別れ。中には過去からやってきた女性との悲しき再会が語られる。心を抉られる時間。厳しくも美しい自然の中で。天と地のはざまで。
『いままでの人生に満足している。(中略)現在私の体は一日二時間だけ機能する。その二時間を私は執筆に当てている』とは、がんで余命いくばくもない自分を知ったヘニング・マンケル自身の言葉だが、本書のヴァランダーも、自らの体や心に起きている極めて不安な事象と闘いながら、真相に迫る日々を刻一刻と生き抜いてゆく。初老というには早すぎる60歳という刑事の年齢を64歳のぼくは複雑な想いで追跡する。
命。自然。心。家族。時間。そうした極めて重たい要素をぎっしりと詰め込んだシリーズ最後の高密度な作品の中、ミステリー的要素は少し重心から外れて見える。しかし、最もミステリアスに見えてくるものは、人間たちそれぞれの関わり方であり、彼らの距離感、信頼、不信、沈黙、
その他諸々の感情、ふるまい、表情等々である。
終わったところから、始まってしまったヴァランダーへの興味。ぼくは新たにヴァランダーの過去へとこのシリーズを遡行してみようと決意している。そうさせる何かがこの作品には十分に込められて見えたからだ。
(2020.09.25)
最終更新:2020年09月25日 23:00