沙林 偽りの王国




題名:沙林 偽りの王国
著者:帚木蓬生
発行:新潮社 2021.3.20 初版
価格:¥2,100




 一人の神経内科医の眼を通してオウム真理教による前代未聞な犯罪を、今この時代に、改めて展望するドキュメントである。地下鉄サリンを知らない人にも伝えたいという作家の想いが伝わる力作。

 敢えて帚木蓬生が、自分の医師として作家としての所見を、モデルとなる医師の研究(巻末の参考文献リストが圧巻!)に重ね合わせ、現代史に黒い爪痕を残したオウム真理教の様々な事件を纏めたものである。

 全体に記録としての執筆の意図か感じられるため、小説というエンターテインメント性からは遠のいたイメージで、かつ医学者・科学者としての分析が加えられたページは普通の小説読者としては腰が引ける。難解な記述は飛ばし読みしても構わないと思う。他に、当時の新聞報道や、裁判記録などにも触れる部分など、今、改めて全貌を多角的に振り返る興味が読者を駆り立てることで、意外に本作はスピーディに読み進んでしまう。

 およそ四半世紀前、日本ばかりか世界をも騒然とさせた地下鉄サリン事件。まるで全容の見えなかった松本サリンと併せて、あの事件は、当時を知る者の個人史にすら影を落とすようなショッキングな出来事であったと思う。未解決の国松警察庁長官狙撃事件を含め、ほとんどの教団関係者の死刑を急いでしまったことで、事件の一部が意図的に闇に葬られた疑いも強く残る。政治や日本の構図に現在も眠る闇、という地点にまで繋がる何ものかにすら、今、この時、このコロナ禍の時代にも、疑心を懐かざるを得なくなる。

 あの地下鉄サリン事件当日の朝、かく言うぼく自身も、身近にこの事件に接していた。当時ぼくは39歳。所属していた医療機器会社の最寄駅は、サリン被害者を出した本郷三丁目駅であった。そもそも本郷は、東大病院の御用達の医療機器会社でひしめく界隈なのである。

 地下鉄駅が騒然としているぞとの噂が朝から社内に流れる。仕事そっちのけで社員たちは会議室のTVを囲んで同時多発テロの臨時ニュースを眼にした途端、仕事どころではなくなった。本郷三丁目駅で下車して出勤した同僚の一人が、何だか朝から体調が悪いとその前からこぼしていたが、それはサリンの影響だったんじゃないのか? などの怖い会話が飛び交ったものだ。

 ぼく自身はその一年後40歳、北海道の責任者を任命され、家族とともに札幌に移動となったが、奇しくもサリンやVXガスなどの化学テロ対策用の除染テントや医療チーム用防護服などを輸入しての国内代理店としての営業仕事が新たに加わった。サッカー日韓W杯が近づく中、札幌では札幌ドームの建設が待たれる頃。当ドームではW杯用に化学テロ対策医療設備を我社より配備することになり、札幌市立病院や札幌市消防局の救急医療スタッフへの化学テロ発生時の機器シミュレーションのプレゼンや訓練なども行うことになった。その後数年は道内各所の医療施設等でこれらの活動が続き、一貫した新規事業のマーケティング活動で忙しくなった時期である。

 そんな風に人生で関わった重要な仕事をもたらしたものが、松本、および地下鉄サリン事件など、テロ集団オウム真理教の存在だったこともあり、本書は改めて当時を振り返る懐かしいが胸の痛む機会として、ついつい夢中になって読んでしまった次第である。

 地下鉄サリン事件を扱った本としては、村上春樹の『アンダーグラウンド』と『アフター・ダーク』が忘れ難い。二冊とも、事件に巻き込まれた多数の人たちのインタビューで構成された本だったが、今回の帚木蓬生作品は、あくまで医学者としての眼で全体を俯瞰し、総体的・歴史的にオウム真理教がやったことの全体像を見直す形で、本書を綴っている。この事件は、関わった人の数や時間だけでも相当なボリュームを持つゆえに、両作家にとってのどの作品も相当の集中力と準備時間を窺わせる苦心の作となっているように思う。

 村上春樹が人間のもたらした闇を、帚木蓬生は化学テロという歴史の汚点の解明者として、またどちらも最後には人間の命、という一点に焦点を絞っているからこそ、犠牲者たちの上に連ねられた文章の重みがあまりに痛々しく、そして凄まじい。この事件を知らない世代にも、語り継がれるべき「時代の記録」として、本書もまた重要な意味合いを、今後長年月に渡り、持してゆくことになるだろう。

(2021.5.5)
最終更新:2021年05月05日 11:49