印(サイン)
題名:印(サイン)
原題:Hardskafi(2007)
著者:アルナンデュル・インドリダソン
訳者:柳沢由美子
発行:創元推理社 2022.05.13 初版
価格:¥2,000
なぜこの作家に惹かれるのか、自分でもわからない。主役であるエーレンデュルは、特に憧れの対象にするようなスタイリッシュな主人公ではなく、むしろどこにでもいそうな地味な刑事である。シリーズ全体がどことなく物静かで、寂寥感に満ちている。そもそもがアイスランドを舞台にしていること自体がとても寂しい。
シリーズを通して、吹雪の山で置き去りにしてしまって以来行方のわからなくなった幼い弟のことに囚われている。どこか精神を病んでしまっているか病みそうなくらいにその記憶に取り憑かれている。とりわけ本作ではそれを強く感じさせられる。
死。あの世。臨死体験。あの世からのメッセージ。サイン。
それらが本書の主たるテーマだ。本書では事件と言う事件は起こらない。一人の女性が縊死をした。それは自殺として解決した。警察署は比較的事件に追われず、刑事たちの負担は現在はさほど多くない。だからこそエーレンデュルは、この時間を使って少女の縊死について、自殺と片付けられたにも関わらず深く調べることにこだわろうとする。自分の弟の行方に深くこだわり続けるように。
行方不明となった息子のことをエーレンデュルに相談するため定期的に訪問してくる老人がいる。今回は老人は癌で余命いくばくもないために最後の訪問だと言うが、エーレンデュルには過去の事件を今さら解決できるとは思えない。しかし、時間はある。老人の代わりにその時間を使ってみようと思う。
一方で車で出かけたきり、その車ごと行方がわからなくなっている少女という未解決事件がある。さらに縊死した女性の父親がボートから冷たい湖に落ちて急死したという過去の事件が冷たく横たわってそこにある。それは事故として解決済みな墓のように古い出来事だが、もしかしたら今回の縊死と何か関係があるかもしれない。
縊死した女性は、死んだ母からのサインを待っていたという。
一方で、冷水を使って心臓を止めた後にAEDを使って蘇生する、という危険な実験をやっていた男の存在がわかる。縊死した女性の夫だ。事件たちは時空を超えて、エーレンデュルの現在に集中してくる。
さらにエーレンデュルの娘の独特の個性のプレッシャー、別れた妻との再会シーンなどなど、主人公の私生活を揺する出来事も今回は印象的である。
というように地味ながら読み始めたら止まらない異様な面白さをもった作品である。文学的な叙述は他の娯楽作品の追随を許さないほど硬質で、イメージは豊穣だ。何度も気高い文学賞を受賞しているのもわかる。ちょっと心臓に負担がかかるほど重い読み応えながらも、他の追随を許さぬこの緊張を今回もまた楽しませてもらった。
シリーズ6作目である。今回は個性的な相棒の二人がほとんど登場しないのがちと寂しかった。彼らとの丁々発止もそれぞれの個性も魅力的なだけに、次作以降の邦訳への期待が深まるばかりだ。
(2022.06.07)
最終更新:2022年06月07日 18:08