長い別れ




題名:長い別れ
原題:The Long Good-bye (1952)
著者:レイモンド・チャンドラー Raymond Chandler
訳者:田口俊樹
発行:創元推理文庫 2022.4.28 初版
価格:¥1,100


 エドワード・ホッパーの<Nighthawks>をカバー。田口俊樹堂々の新訳で読むことのできるチャンドラーの最高傑作。ううむ、何という贅沢なのだろう。

 ぼくがこの作品を清水俊二訳で読んだのは、一体何十年前なのだろうか。マイPCにレビューが残っていないということは、冒険小説フォーラムでレビューを発表するようになる前だから、パソコン通信以前のアナログ時代だろう。ハードボイルド読者になったのは、きっと二十代。私的には登山全盛時代。山の中でニューヨークやロスの私立探偵の物語を読んでいた。例えば大雪山系クヮウンナイ川をザイルや草鞋で遡行しながら、夜にはテントの中、酒を飲みながらヘッドランプでミッキー・スピレインを読んでいたことは今でも覚えている。

 少なくともPCやパソコン通信に参加したのは30代だ。チャンドラーのフィリップ・マーローも、ハメットのサム・スペイドも、亜流と言われたスピレインのマイク・ハマーなど、全作読んでいるはずだが、ぼくの読書ノートにはほとんど読後文章の類いが残されていない。

 それなのに、心の中に彼ら個性的な私立探偵たちはぼくの人生を通じて生きているような気がする。とりわけマーローは、ハードボイルドというジャンルの代名詞として。マーローに語らせる一人称文体は、磨き上げられたその成果として歴史に刻まれて然るべき存在だろう。文体こそが、ハードボイルドなのだから。

 ぼくの世代では、ネオ・ハードボイルドと言う言葉もよく使われていた。その中で一番のめり込んだのは、ローレンス・ブロックのアル中探偵マット・スカダーだろう。そこでこちらが一方的に親しく感じてやまなかったのが、田口俊樹という翻訳家である。記録によれば、現在までに田口訳作品を66作読んでいる。そして今日家に届いた新作が奇しくも田口訳、今日から67作目にとりかかろうとしているわけだ。

 その田口俊樹という翻訳家が書いた『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年』の読書会は昨春、コロナ下によりZoomで行われた。それにより北海道の僻村からも参加することができたのは幸運だった。田口先生とPCを通して動画での会話もできて嬉しかった。

 そしてとうとうこの≪『長い別れ』新訳刊行記念トークイベント(全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ)≫にも、視聴者として無言参加。田口氏の柔らかく、楽しく、人間味たっぷりの翻訳裏話を聴くことができたのだ。感激ったら、ないよね。

 さて本作。4/28発行。ライブイベントは6/12であった。

 本来、一度読んだ本(清水俊二訳『長いお別れ』)を再読する時間はあまり取りたくない主義のぼくなので、本書についても翻訳者がたとえ村上春樹に変わっても(村上訳では『ロング・グッドバイ』)あまり関心がなかったのだが(ちなみに、村上訳作品は結構読んでいるのですよ)、田口先生のこのネットライブでの入れ込み度、そして本気度、この翻訳家がこの再々訳に取り組んだ経緯・意気込みなどをお聞きして俄然ふつふつと好奇心が湧いてきてしまったのだ。

 というわけで遅まきながら本書を取り寄せ、過去既読のストーリーに再度取り組んだのだ。なるほど、本作、チャンドラーの世界だが、いつもの田口訳の伝でやはりとても読みやすい。忘れていたディテールを追うにつれ、本書が少しも古びていない名作であるということもしみじみとわかる。

 半世紀以上前の作品なのに人間は、その頃も今も少しも変わらない。悲しく、愚かであり、情と非情をやむなく使い分けたり、損得勘定だけでは動けないくらいにものわかりが悪かったり、譲れないものを持ち合わせてしまっているために、自分自身が厄介ごとに巻き込まれたりする動物なのだ、そうでない軽々しい生き方は人間の屑みたいな存在になることを容認するか、人間であることをやめても構わないという後ろ向きの愚かな存在だ、云々。そんなことをぼくはマーローの言葉から勝手に読み解いているようだ。

 映画版も記憶に強く残る。大好きなエリオット・グールド主演、大好きなロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』で1970年代に物語を移し替えたものだが(既にこの時代すら古いのだが)、年代ばかりではなく原作から大幅に転換し、探偵像そのものも変更した自由度の高い映画なので、こちらはアルトマン作品という別物として楽しみたい。何と言ったって『M☆A☆S☆H』の監督なのだ。自由にさせておいた方がよい人である。

 閑話休題。本作だが、さすがに詳細は忘れても、ラストシーンは覚えている。当然ネタばれモードでの再読となるが、やはり清水訳と異なるのは、現代の人間が、70年前の作品を訳していることによるからだろう。語り口のこなれ方を感じる。それが本書の魅力だと言ってよいと思う。

 僕の子供時代は、映画館へ入ると大抵、洋画の字幕は清水俊二だった。自分が俊司なので、親しみやすい名前なのだ。だからそれなりに清水訳にも思い入れはある。字幕と小説は違うと思うけれど。

 しかし、2022年現在の言葉で、それもこれまでもスカダーのシリーズを訳してきた筋金入りのハードボイルド作品の翻訳家によるものとなると、文章の流れは流石にスムースで、頭に入りやすい。それが本書の最もよいところだし、若い世代にもこの古い作品を読んで頂きたいなと思う。この文章なら読めるんじゃないか。この私立探偵をカッコいいなあと思えるのではないか。

 そもそも何故いろいろな方がチャンドラーを訳したいと思うのか。それを考えると、チャンドラーの良さもわかる。一人称文体、そのものがフィリップ・マーローという人物なのだ。会話も文体ともに、へらず口とメタファーに満ちている。説明文に入り込まない一人称ならではの、世界への批判や挑戦とアイロニー。文体こそが命と言ってよい。それがハードボイルドであり、それがチャンドラーだろう。

 本書では、日本語化された新訳での作品をストレートに楽しむことができる。また70年という時間を経てなお錆びることのない、人間と人間の間に起こる発火現象、せめぎ合い、駆け引き、情の繋がり、孤高の志といったものを伺読み取ることができる。ハードボイルドの手本となるのが頷ける教本のような一作だ。未読の方にも既読の方にも、変わらないもの、人間の起こす悲喜劇、卑しい街に生きるからこそ、しがみつくべき手綱のような誇りを、最後には味わって頂ければと思う。

 傑作は決して錆びることがない。半世紀後の未来では半世紀後の言葉でまた誰かがこの作品を新しく訳すことになるのかもしれないが、それはまた別の話である。

(2022.8.31)
最終更新:2022年08月31日 16:53