夜のエレベーター




題名:夜のエレベーター
原題:Le Monte-Charge (1961)
著者:フレデリック・ダール Frédéric Dard
訳者:長島良三
発行:扶桑社ミステリー 2022.8.25 初版
価格:¥968


 これは不思議な本だ! というのが第一印象。読み始めると引きずり込まれてしまい、二時間ほどで読み終えてしまった。登場人物も少ないし、物語もさして複雑ではない。ただ、やたら謎めいて先が見えないだけだ。

 一人称文体による主人公の怪しげな帰宅で、物語は始まる。どうやら主人公の「ぼく」は、生前の母親が暮らしていたという実家に数年ぶりに戻ってきた孤らしい。「ぼく」は空っぽの家の中で、ひとしきり母親の想い出に浸って、それから、光に満ちた街へと足を踏み出す。謎だらけの「ぼく」は、ビアホールで子連れの見知らぬ女性と出会う。

 そして闇に引きずり込まれるようにして、「ぼく」は、映画館でその母子と隣り合った席に座り映画を観る。そして母子のアパルトマンへ誘われ、本書のタイトルともなっている<エレベーター>に乗る。子連れの女性は何者で、一体何をしようとしているのか? そもそも「ぼく」とは、どこから来た何者であるのか? いろいろな事実が語られぬままの不安定な状況は続き、物語は徐々にダークなサイドへと滑り落ちてゆく。

 作者フレデリック・ダールは、フランスの明るいシリーズで名を成した人気作家サン・アントニオの別名義。邦訳はハヤカワミステリなどで7作ほどにとどまるが、フランスでは何百冊という作者と同名のサン・アントニオ・シリーズがベストセラーであるそうだ。それに比してフレデリック・ダール名義で書かれた、数少ないまるで異なる味わいのサスペンスもまた出色の作品が眠っていたらしい。

 なぜこの古い作品(1961年フランスで刊行)が、今になって出版されたのか? 当然そうした興味深い疑問が生まれる。ましてや翻訳者だって、2013年に亡くなっている。何故だ?

 その疑問には、実は巻末解説が答えてくれていた。翻訳者は、生前、この作品を気に入って出版の宛てもないまま自主翻訳をしていたらしい。そして、その翻訳原稿が、実は最近になって発見されたということらしい。それだけでも珍しい貴重な出来事であるし、作品にとっても日本の読者にとっても幸運なことだと思う。

 本書を三分の一ほど読んだところで、「ぼく」の正体がわかり、そこで作品はいきなり別の色あいを帯びることになる。そして後半は、騙し絵に騙し絵を重ねたようなトリックが連続する。上へ下へのエレベーターの動きとともに、作中時間は強烈な犯罪の匂いに満ちてゆく。

 ダークである。ノワールである。ヒッチコック映画みたいに誰もがこの作品の語りに引き込まれてゆくに違いない。

 小編だが、実にぴりりと来る刺激的作品。これぞフレンチノワール。さあ、タイムマシンに乗ろう。是非とも1960年代初頭のダークサイドを覗いて頂きたい。さあ、「夜のエレベーター」に乗ろう。

(2022.09.01)
最終更新:2022年09月01日 16:57