闇の奥
古典を読まなくなって何年にもなる。十代、二十代の頃は、向学心も強かったためか古典ばかり読んでいたのに、今は新作の追っかけに四苦八苦してそれで済ませている自分がいる。でも古典は、今も時に気になる。未読の古典はずっと心の片隅で消化されることなく遺り、燻り続ける熾火である。
本作は多くの方とおそらく同様に映画『地獄の黙示録』を契機に知ることになったものだ。コンラッドという作家は冒険小説作家の起源みたいなものである。ぼくはパソコン通信時代<冒険小説フォーラム>に入りびたり、ついにはSYSOP(システム・オペレーターの略でフォーラム運営者を言う)にもなりゆき上なってしまったが、恥ずかしながら冒険小説の古典であるコンラッドの作品に目を通したのは今回が初めてだ。パソコン通信とそのフォーラムがなくなってしまったのは30年前くらいで、その後は情報交換手段はインターネットに移行。さらにパソコンからスマホへと多くのツールや
ソフトがアプリとなって移ってゆく。
そんな時の流れの早さの中で、今もなお生き残り続けるのがコンラッド的世界であると、ぼくはこの作品を読んで確信した。フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』を観ている方には、本書がその原作となっているということで馴染みやすいと思う。しかし本書は正直言ってお世辞にも馴染みやすくなどはないと思う。一世紀以上の時を隔てた物語なのだから。さらに進化に置き去られたような場所が舞台なのだから。
本書は、主人公のマーロウが川船で進んでゆく密林と、その最奥部に棲むという謎めいた男クルツ。一言でいえば語り手のマーロウのクルツとの出会いをクライマックスに描いた冒険物語なのだが、さらに驚くことは、コンラッド自身が、未開のコンゴを舞台にした川船行
その他の冒険を実際に果たしてきた人間であることだ。
作品の大分は、テムズ河口でマーロウが問わず語りに話し出す一人称により描かれる。作者自身がマーロウのモデルでもあり、それを聴く側の船乗りたちでもあるのだろう。そんな不思議な情景に本書はスタートする。コンラッド自身の過去や体験がこの物語を語っているようにも見えてならない。
紙の上に文字を書くだけではなく、実際に船で世界の辺境を巡る人物が、本書の作家でもある。そんな重層構造。しかも彼の生きた時代。彼がこの小説を書いたのは現在より122年前のことである。その時期においてさえ、コンゴという国の深奥部は、あまりにプリミティブであった。人喰いの習慣のある現地人、野生のままの生活の中に入ってゆく象牙収集会社、クルツのように個人で王国を築く者の存在。
あらゆる人間の原初的なものと、文化の進出を阻む野性、そして思うがままに持続してきた未開の文化。それらが作者の歴史観を根底から破壊してしまった。そんな痕跡が散見されるような表現で綴られる黙示録なのである。
段落替えの少ない圧倒的な語り口で綴られた何か月にもわたる遡行の旅と、その結末。未開の地で行使される暴力は避けられず、神の不在を感じる作者の体験。それらは、後世には『地獄の黙示録』という映画のエネルギーとなり多くの人々に目撃されることになる。ヴェトナム戦争の現代へ、アジアの密林に舞台を変えて。
本書は堂々、高見浩氏による新訳である。冒険小説という忘れかけていた言葉が蘇るような力作であるとともに、人間の感ずべき真の恐怖、その恐怖との闘いについて、言葉でしか綴ることのできないメッセージが否応なく感じられる本書。生き残ってきた古典の迫力と、語り口の強さと、描かれた題材の独自さを、改めてまざまざと感じさせる、確かな古典傑作である。
(2022.11.18)
最終更新:2022年11月18日 14:47