キネマの神様
題名:キネマの神様
著者:原田マハ
発行:文春文庫 2008/12 初版 2021/4/25 39刷
価格:¥680
良い映画は何度も観ても良い。良い映画は、原作小説で振り返ってみても良い。なので映画を観てストーリーを知っているとしても、映画を二度も三度も観なおすように、小説と言う形で映画やその原作となった物語という名の小径を、もう一度辿ってみてもいい。
そんな想いで、映画館で先に映画化された作品として観てしまった『キネマの神様』の原作小説を読み始める。最初は、沢田研二の名演を思い出しながら、映画と酒と博打が好きなダメオヤジを追いかける。彼のイメージは小説でも映画そのままだ。しかしストーリーは映画とはやがて袂を分かつ。
本作映画版は、映画らしくやはり相当にアレンジと再構成を積み上げた物語であった。原作小説にはない過去と、原作小説のほとんどを占める現在を去来する構成が映画であった。過去のシーンは美男美女の演技によりしっかりと山田洋二監督らしくリリシズム溢れる淡い回想として表現されていた。そして現在のくたびれた老人である主人公と、小林稔侍演じる映画館経営者である親友の背中に表される永い年輪はとても印象的だった。
映画は素晴らしかった。でも原作小説とは完全に別物なのであった。この原作を手に取ってそのことを改めて知った。もっとも原作を先に読んで映画という順番が正なのだ。ぼくは原田マハさんの未だ未だ最近のファンなので、映画は先に観てそれなりに山田洋二節に感動させられてしまった。それよりも何よりも沢田研二の落魄の演技が凄まじかった。だからぼくは本書を読む中で彼の演技はそのまま想像の世界でも活かすことができた。沢田研二につくづく感謝。
さて本書はタイトルの通りキネマを主題とした映画好きのための小説である。映画と言っても家庭で観るDVDやネットフリックスの類いのものではなく、劇場で観るものにこだわる。劇場と言ってもシネコンではなく古い名作映画専門の名画座である。
ああ、あの映画館たち。名画座での時間は。ぼくの人生の必要不可欠な給水所であった、映画無しでは生きて行けなかった十代、二十代。などと、この作品の中に入りたくてうずうずしてくる。それがこの『キネマの神様』という作品の最大の魅力だ。
映画の話を映画でなく文章で綴る、という技を使うのに、原田マハという作家は映画評論の応酬というアクロバティックな手法を用いてみせた。作中で戦わされる日米の評論の応酬こそがこの作品の真価であり、その部分は小説史(あるいは映画評論史)に残る大変な優れものであると思う。ましてやそこで語られる映画が自分にとって大切な記憶に繋がる作品群であるなら余計に。
読者の涙腺をくすぐるのが元々巧い作家ではあるが、映画を使われるとさらにやばい。通勤電車の中で読んでいると、さらにさらにやばいのである。映画そのものの強烈な記憶が被ってくる。『ニューシネマ・パラダイス』の段では、エンニオ・モリコーネの音楽まで耳の中で鳴り響いてしまう。やめてくれ! と心の中で叫びながら電車の中で本を閉じる自分がいるのだった。ううう。
さて本書の主人公は映画好きの父親だと思うが、語り手は娘の方である。彼女は高額年収を獲得するキャリアウーマンだったがひょんなことから会社をスポイルアウトされ、小さな映画雑誌の記者として第二の人生を歩き始める。独身の四十代。
原田マハの多くの作品と同じく、本書は基本的にこの女性の仕事小説である。
映画のように美しい情景や、懐かしい少年時代の想い出は映像としてはもちろん文章としても出てこない。飯田橋界隈の小さな町を舞台に、映画とそれを扱うマスコミの中の物語である。もう一つの主人公は、今にも潰れそうな小さな映画館<テアトル銀幕>だろう。映画版では古い映写機に寄り添う小林稔侍がいい味を出していたっけ。今ではなかなか見つけることのできなくなった名画座文化が、今では心が痛くなるほど懐かしい。
片桐はいりのあとがきが素晴らしい。元映画館のもぎり嬢であり、『もぎりを今夜も有難う』という映画愛溢れる本を出しているそうである。これも読みたい!
さて片桐はいりは、あとがきの中で驚くべき事実に触れている。何と、原田マハももぎり嬢をやっていたのだそうである。しかもあろうことに池袋文芸坐で! ううう。ぼくの二十年くらいの映画歴は池袋文芸坐で育まれたものなのだ。ぼくは原田マハの6歳年上だから、ぼくはきっと若かりしマハさんにおそらく何度も入場券をもぎってもらっていたのだと思う。
この事実を知って、さらにこの作品はぼくの心に入り込んできてしまった。キネマの神様! 何という作品だろうか。
(2022.12.21)
最終更新:2022年12月21日 18:30