愚者の街





題名:愚者の街 上/下
原題:The Fools In Town Are On Our Side (1970)
著者:ロス・トーマス Ross Thomas
訳者:松本剛史
発行:新潮文庫 2023.6.1 初版
価格:上/¥710 下/¥750

 ロス・トーマス新訳! そう聞いただけで小躍りしたくなるほど嬉しい。ロス・トーマスは、実はぼくのミステリー読書史の中では間違いなく五指に入る作家である。しかしもう長いこと新訳を読む機会がなく、歴史の一部として化石化してしまった名前でもあった。最近、新潮文庫での旧作をサルベージして邦訳してくれる<海外名作発掘>シリーズを有難く読ませて頂いているのだが、まさかロス・トーマスを、それも初期時代の大作を読めるとは予想だにしていなかった。

 生きててよかった! そう思えるようなあの懐かしきロス・トマ節が、活字となってページに並んでいる。ぼくの手の中で。それだけでもう十分である。歓びの時間をぼくは確実に与えられている。なので時間をかけてゆっくり読む。先に進めるのがもったいないくらいだった。あのロストマ文体が活き活きとした個性的な人間たちを浮き彫りにしてゆく。登場人物たちの絶妙過ぎる会話。心臓が高鳴る。

 中国? 日本? 主人公の名はルシファー・C・ダイ。何という破天荒な名前だろうか。それにもわけがある。凄まじい運命に象られた過去の描写と、現在の彼が請け負う任務とが、時代の枠を往来しつつ目の前に現れる。ロストマ版ストロボによる、まるでイルージョンの如き作品世界にのめり込んでゆく自分がいる。まさにロス・トーマスを読むという、個性的で印象深い時間を今、ぼくは何十年ぶりに体験している。そう思っただけで血が沸騰する。興奮のさなかにぼくはいる。

 ルシファー・C・ダイ。繰り返すが、何という名前であろうか? 悪魔と死? しかしそれが似つかわしい人生を主人公は振り返る。さらに物語はダイの目線で現在をも語ってゆく。ダイは、不可能とも思われる任務を負うのだ。腐敗した町の真実を泥の底から一つ残らず浚い出して、金や血の亡者どもを一掃すること。すなわち街をひとつ滅ぼすこと。魑魅魍魎のような権力者と、形骸化した警察組織によって腐敗した街を。金と支配と警察による圧力と暴力とを。滅ぼすこと。まさにタイトルの『愚者の街』が、当たり前のように生き残っている南部の田舎町を。

 スケールの大きなプロットもたまらないが、何よりもロス・トーマスの語り(即ちルシファー・C・ダイという主人公による騙り)が凄い。一人称でありながら、冷たく突き放したような文体。皮肉でブラックでユーモアに満ちたセリフの応酬。語られぬ言葉と語られる言葉とのバランスが紡ぎ出す小説世界のイリュージョン。他のどんな作家にも書けないであろう圧倒的な作家による策略が全編の行間に満ちており、脇役たちの圧倒的個性が、さらにダイを取り巻く世界を罪深く掻きまわす。

 どの人物も安定の上に居座ることがなく、運命の歯車の異様な軋に圧倒され、思わぬかたちの滅びへと全体が引きずり込まれてゆく。人間という不可知な構成物による、あまりに奇妙で不可思議、かつ不確かな悪夢生成装置。それが本書だ。ロストマの力学だ。作家の黒い哄笑なのである。

 極めて独自な読書体験をこの作品、この本作で、是非味わって頂きたい。新たにこの作家の作品を読みたくなった方にとっては、不幸ながら既存の作品は極めて手に入り難いと思う。本作がロス・トーマス諸作の再版の機会の一助となることを心底願いたい。

(2023.07.17)
最終更新:2023年07月17日 12:38