野生の棕櫚




題名:野生の棕櫚
原題:Wild Palms (1937)
著者:ウィリアム・フォークナー William Faulkner
訳者:加島祥三
発行:中公文庫 2023.11.25 初版
価格:¥1,300

 1976年の夏、ぼくはフォークナーを三冊、続けざまに読んでいる。『サンクチュアリ』(1931年作品)『八月の光』(1932年作品)『フォークナー短編集』(1950年)。『響きと怒り』(1929年)も読んでいる気がするのだが、記録にはないので間違いかもしれない。いずれにせよ当時、ぐいぐい引っ張られたことを覚えているのと、何とも暴力的な世界だとの印象が残る。強烈な暴力の印象が。『サンクチュアリ』は二十歳のぼくにとってとても衝撃的で、しかも魅力的であった。それから半世紀近くが過ぎようとしている今、フォークナーの『野生の棕櫚』(1939年)が文庫化され目の前に出現。フォークナー作品で受けた衝撃は覚えているから、ただ事ではなかった。

 そしてページを開いて呆気にとられる。この一冊の中には二つの小説作品が存在している。確かに本の帯には<二重小説>との特大文字が光る。目次を見ると『野生の棕櫚』の各章の合間には別の作品『オールドマン』が挟まれている。なので、二つの全く異なる作品を同時に読んでゆくという形式なのだ。いわゆる1930年代に書かれた極めて前衛的な構成の作品なのである。破壊的要素も強い印象のあるフォークナーだが、本書ではここまでやっていたのだ。

 しかもフォークナーは、この作品を別々に書いたのではなく、『野生の棕櫚』を一章書くと、『オールドマン』の一章を連続して書き、また『野生の棕櫚』に戻るという書き方に徹したらしい。二つの小説を別々に書いたのではなく、二つの小説をセットとして意識して書いたのだ。

 と、同じ構成の作品が何か身近になかったかと考えると一つだけ思い当たった。村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』である。アメリカ文学に詳しい村上春樹のことだからフォークナーへのオマージュは既にあったのかもしれない。

 さて『野生の棕櫚』は、いくつかの夏用貸し別荘の建つ湖畔だが、季節外れになると誰もいなくなる医師夫妻のもとに、とある男女が辿り着くところから始まる。別荘の一つを仮住まいとして住み着いた夫婦は何やら訳ありの空気が見られる。第二章からは彼らの放浪の出発地点からのことが過去に遡って語られ始める。

 一方『オールドマン』は、大雨洪水災害に見舞われるミシシッピ川の堤防の修復に駆り出される囚人たちの光景から物語がスタートする。未曽有の災害と言われる大洪水は、もう何度もミシシッピ川を襲ったことがあるらしいが、今回のそれはまた桁外れの様相だ。第一章では獄中にある囚人たちに看守から、堤防の補強に駆り出されるところまでが描かれる。その後、囚人たちのグループも看守たちを含め作業中にバラバラになってしまう。生死を賭けた自然の猛威との闘いがその後描かれてゆく。

 若い不倫男女のあてどない逃避行と、飢餓感、餓えたような愛と性、救いどころのないロードノベルのような『野生の棕櫚』。

 一方、流され翻弄される囚人が、被災した妊婦を助け、ともにミシシッピ川を下るエネルギッシュなストーリー。

 作者は、あまりに救いのないギリシャ悲劇のような一つの物語を、もう一つの災害中でありながら救いに満ちた物語と交互に語ることで、バランスをとるという考えでこの一冊を書き上げたらしい。なのでそれぞれを別々にではなく、交互にストーリーを書きながら二つで一つの世界として構築してきたものだと言う。

 文章は、とても長く、長ったらしく、段落替えが極度に少ないが、その文体とて考えられ考え抜かれたものなのか、フォークナーという独特の作品用文体なのか。ともかく描写能力は際立っているし、心の流れもどんどん文章化されてゆくように思う。前衛さと、文章のディープさと、フォークナー文学を支える原初的な野生。自分は小説家ではないと豪語しつつノーベル文学賞までかっさらった天才の物語作風は、やはり強烈そのものであった。半世紀前に受けた衝撃からこの方、いささかも緩ぎないものだったのである。

(2024.10.03)
最終更新:2024年10月03日 12:52