遥かな夏に




題名:遥かな夏に
著者:佐々木譲
発行:新潮社 2025/01/15 初版  
価格:¥2,000



 佐々木譲としては、相当に異色な作品ではないだろうか。例えば佐々木譲を初読でこの作品に触れた方は、この作家の特徴をほとんど掴むことができないのではないだろうか? そう思えるくらいに、娯楽小説という観点から離れた、情緒的要素の高い、渋すぎる印象に驚いた一作である。

 佐々木譲はどのような作家ですか? と聴かれたときに、この作家をよく知るあなたはどう答えるだろうか? 佐々木譲と言えば代表作は何ですか? と聴かれたときに、ほぼすべての彼の作品を読んでいるあなたは何を選ぶだろうか? 初期の頃の作風を好まれる方は『エトロフ発緊急電』は鉄板であろう。北海道の警察小説シリーズが好きだという方は、『うたう警官(「笑う警官」改題)』かな? ちなみに改題前の原題『笑う警官』を読んだのだが、マルティン・ベックのあまりにも有名なシリーズでの『笑う警官』(映画化作品は『マシンガン・パニック』)を作者が意図したことは間違いないと思う。

 それにしても、その佐々木譲と同一人物とは思えない書きっぷりの一冊が本書『遥かな夏に』である。何小説? と聴かれれば、佐々木譲得意の冒険小説でもハードボイルドでもミステリーでもない。いや、結局、事件ではないものの、自分のルーツを辿れない女性からの依頼で、二世代前のベルリン国際映画祭の記憶を掘り起こそうとする老映画人の物語である限り、広義でのミステリーにはなっているのかな? と思える。

 それにしても本書をいくら読み進めても、どこにもぼくの知っているはずの佐々木譲らしさは読み取れなかった。もともとシリーズ作品も独立作品もこなす器用な作家だから、この作家の印象を観念で固めることは不可能に近いとはいえ、本作は飛び切り、この本を著者名なしで読んだとしても佐々木譲に辿り着く読者はほぼいないのではないだろうか。

 そう思えるくらいに佐々木譲の作風という概念を覆す作品であるし、またそれを納得させるのもこれまでの佐々木譲という作家の姿勢でもあったろう。そう、本書は冒険小説もミステリーでもない。いや、広義のミステリーには定義されても良いのだろうか。1976年ベルリン国際映画祭に参加した映画チームやその関係者のなかで、幻のヒロインとも言える女性が、誰と恋をして秘密裏に娘を産んだのか? その孫娘でもある女性が、当時ベルリン映画祭に参加してその想い出を今も抱きしめて放さない老人を訪ねてきたことから本書は始まる。

 主人公はその老人であるが、かつてのベルリン映画祭の華やかさと、映画を作るというそのファナティク(情熱的)な時間を蘇らせる物語として、時間というフィルターを超えて語られる人間ドラマである。依頼人の娘にとっては自分の正体を知る旅であり、依頼された老人にとってはあの時代を見るレンズをさらに真実に向かわせる物語でもある。

 スケールの大きな国際冒険小説や、熱い警察小説の書き手である佐々木譲が、自身の年齢に応じて、自分に近い主人公を設定し、映画という魅力的な題材を武器にして、今の時代にあまりにも懐かしい過去への情熱を語り尽くした良質なミステリーであると同時に、幻のようだが確かであった異国での愛、映画というあまりに魅力的な題材を駆使して紡ぎあげたベテランならではの味わい深い作品であった。読後感を味わえるような作品と言ってよいだろう。

(2025.04.11)
最終更新:2025年04月11日 22:41