無垢なる町
題名:無垢なる町
原題:Holy City (2024)
著者:ヘンリー・ワイズ Henry Wise
訳者:吉野弘人
発行:ハヤカワ文庫HM 2026.4.25 初版
価格:¥2,100
これは、果たしてミステリーなのか? と首をひねる人もいるだろう。舞台はリッチモンド近郊の田舎町。殺人事件によって物語は始まる。しかし犯人はすぐに検挙される。保安官補を主人公としたドラマは、村社会という言葉がしっくり来るような互いに知った顔だらけ。そんな濃厚スープのような田舎ならではの人間模様のうちにスタートする。
一つの殺人事件が起こる。一人の容疑者がすぐに浮かび上がり、単純な物事のように描写されるが、それは物語のほんの端緒に過ぎなかった。むしろ本編はそこからスタートする。というわけで通常のミステリーの形を成していない。犯人が誰かである前に、この村はどうなっているのか? どういう村で、どのような歴史や生活観のうちに人々は生きているのか?
殺人直後に捕縛された容疑者がどうもはまらない。正当な図式を求めて真の殺人者を探す保安官補ウィル・シームスが、上司である保安官による容疑者逮捕へのプロセスに疑問を持ち、容疑者家族が別に捜査を依頼したリッチモンドの女性私立探偵ベニコ・ワッツと手を組んで事件を洗い直す。
リッチモンド近郊の片田舎の土地で、誰もがお互いを知っているような人間社会の中を殺人事件の真相を求めて動き出すのだが、関係する人間模様は三世代ほども遡って、さながら複雑な迷宮のようだ。田舎ならではの関係の粘っこさが事件を難物に仕立て上げる。
視点は主人公である保安官補一人に集中せず、様々な関係者にも充てられ、いくつものドラマが同時並行的に進んでゆく。どちらかと言えば捜査を司る主人公に焦点を当てず、群像小説様の語り口を採用した作者の狙いが見えてくる。
当初の犯人像が如何にいい加減なものであるかを痛感させられながら、読者としては物語の方向性が見えにくくなるばかりで、複雑な人間は混迷をもたらす。しかし、それが本書の目指す方向であり語り口であることを徐々に誰もが理解できるだろう。
作品全体を見渡してみると、初動捜査を厄介にしたのはミルズ保安官。彼の初動捜査での判断ミスや傲慢な性格による権力乱用が仇となり事件は混迷を増すのだが、物語後半では捜査の正当な軸となるのは、ウィル・シームズ保安官補。さらに別ルートである関係者から依頼を受け捜査に加わる女性私立探偵ベニコ・ワッツとも協力して、ミルズがもたらした混迷を洗い流しつつ、真実を掻き出そうと苦闘する。
多くの隠された人間模様やその破綻が、明るみに曝され、新たな暴力や破壊が発生することで複雑さを増したストーリーだが、この混沌をこそ、この作家は描き出したかったのだろう。そしていくつもの人間模様という泥沼を超えて、真実を引きずり出す主人公を、据えたかったのだろう。彼や彼に協力する村人たちの決断や選択を。
読後に振り返ると、本作は単なる娯楽小説とは見えない。作者はこの物語の中で活性化したり滅びたりするそれぞれの人間たちの選択や、それぞれの距離感を浮き彫りにしたかったのだろう。特定の主人公ではなく、この地域に生きる何世代かの何人もの人間模様の流れのようなものを丁寧に浮き彫りにしたかったのだろう。
読み終えてみると、ミステリーというよりは、人間たちの情念を紡ぐ群像ドラマであった。タイトルにもまた思い入れが感じられるのだが、粘っこ過ぎ、繊細かつ複雑である人間関係と対比したようなタイトルであるように思う。もっともその辺りを切り出した、というのが作者の狙いなのだろう。娯楽小説でありつつ、芯の通った純文学的一面も見せる力作であると思う。
(2026.7.28)
最終更新:2026年07月28日 14:52