ねじまき鳥クロニクル 第三部 鳥刺し男編



題名:ねじまき鳥クロニクル 第三部 鳥刺し男編
作者:村上春樹
発行:新潮社 1995.8.25 初版
価格:\2,200(本体\2,136)

 第一部と第二部が一年半前、しかし第三部はこのように時間と空間の距離を置いて出版されたというのはどういう意味なのかと疑念を持ちつつ、手に取ってみると、なるほど、これは大きく別れた第二の物語なのだ。前二作に較べて厚みがあり、この第三部は独立したそれなりの構成に組み上げられていたりする。

 いつもいつも俳句か何かを詠んでいるかのように死のイメージが抛り出されるような語り口で表わされ、それを散文という地図片手に読者は辿って行く。村上春樹ワールドは読み心地のよい言葉のダンジョンを辿るイメージの冒険小説なのだと思う。

 そうじゃなきゃ、ぼくは純文学なんていまさら手にしないだろう。小説はその核に謎と追跡を孕んでいるからこそ、いつも冒険である。この作品中、失踪したクミコは、かつての名作『羊たちの冒険』のネズミのように、存在自体が謎と化している。失踪者と死者との違いは、境を失い、存在者でありかつて失踪者や死者と言葉や心を交わしていた「僕」は、涸れた井戸にもぐりこむ。

 この小説はタイトルが表わしている通り、これまであまり村上春樹が踏み込まなかった時間的概念への一つのアプローチであると思う。時間的概念なんて村上ワールドに必要かと言われると困ってしまうのだけど、現実社会に時間が歴史という名の記憶を重ねてゆく以上、小説家として一般化された歴史を、彼なりに消化してみたお欲求があったのかもしれない。あるいは歴史という名のいくつもの複雑な死を言葉で絡み取る作業に、作家として取り組むべき価値を見出したのかもしれない。

 村上春樹の本を読んで、いつも思うのは、こういう面白く読みやすい小説は、だれしも一度ならず自分の形でまとめ、考察し、整理してみたいものを、少しわかりやすく、あるいはメタファーを駆使して表現してみたいのじゃないか、ということである。そして多くの人は書くという行為で、ある瞬間のことがらや、人生の謎の数々を歴史の中に、墓碑の如く配置しようと思うのだ、きっと。

(1995.09.27)
最終更新:2025年03月23日 08:37