雪月夜






題名:雪月夜
作者:馳星周
発行:双葉社 2000.10.5 初版
価格:\1,900

  馳星周のストーリーテリングの醍醐味が溢れる作品でありながら、作品の基調を成す人間という素材において相変わらず救いがない。つまりせっかくのロシア-日本の国境地帯である根室という半島を舞台にしていながら、そこで紡ぎ出されるのがやり切れぬ憎悪、救い得ぬ滅びでしかない。

 馳星周はあるテレビ番組の取材で国境地帯としての根室を訪れ、新宿歌舞伎町に通じる異国との接点、その距離のなさに驚いていた。放映されたのは二年くらい前だったろうか? 根室の漁業、地場産業レベルでの国交という現状を見聞する馳には紛れもない作家の表情が浮かんでいたように思う。格好の題材を得て好奇心をあらわにする作家の鋭い表情をぼくは未だに覚えている。

 だからこそ、結果的にはいつもの滅びのストーリーを補佐する意味でしか根室を使わなかったことはなかなかに残念なことなのだ。船戸ばりのストーリーテリングのセンスを持っているのに、一方で馳の方の物語にだけいつも救いがないのは、船戸の物語では必ずその存在が浮き上がるその地の後継者たちが世界からいなくなることだと思う。誰一人残さず物語が消滅して終息してゆくことなのだと。

 未来に向かうべきなにものかが必ず世界にはあって欲しいと思う。子どもがいて、若者がいて、同じ罪を繰り返す時間の流れがあって、その大きな時間軸の奔流にドラマは解け込んでゆくものだと思う。だからこそ馳の小説のように自己完結的にドラマの輪が閉じてしまい、読者と繋がるべき未来への地平が全く提示されぬままに終わるというのは読んでいてやはりつらい。カタルシス不在にもほどがあると思うのだ。

 類いまれな表現者としての才能を、せっかくの題材に生かしたいのなら、さらに詰めて欲しい時代の流れへのシンクロという課題が存在するだろうし、そうした地点に立つ意志がないのなら、現代風の旨味のある題材を読者への餌のように使うべきではないだろう。その場合は、ひたすら孤立した街のアウトローたちを描くというジム・トンプスンの作法を選択すればいいのだと思うのだが。

 はて、ぼくと作者とどちらが欲張りなのだろうか?

(2001.01.05)
最終更新:2007年06月17日 19:02