「あだ、ててっ、ムチャすんなよ」
「大丈夫だよ。わたしが通れたんだからトールが通れないわけないじゃない」
「じゃないー」
「うっさいなっ。どうせ俺はイコラより背ぇ小せえよっ」
壁の下に開けられた穴にようやく半身を通した姿で、トールは思わず怒鳴り声を上げていた。イコラの言葉は相変わらず悪気なしに人の気にしているところを突いてくる。姉を真似ようとするニコラまでが疎ましい。なによりも腹立たしいのは、そんな二人に律儀につきあっている自分自身だ。
心の中で悪態を吐き散らしながらも、トールは姉妹の手に引かれ、ブローン家の物置小屋への侵入を果たしていた。入口は厳重な鍵で封じられているのだが、右側の壁に置かれた石の裏には、子供の通れる小さな穴が開いていた。小屋の主であるゴードンもいずれ気づくだろうが、埋めたところで無駄だろう。ブローン家の姉妹ならばこの程度の穴など半刻もかけずに開けてしまう。
それに毎度ひっぱりだされる我が身の不幸を嘆きながら、トールは薄暗い室内を見回した。
「で、どれだよ、その
『パンドラ』の箱ってのは?」
「あれだよあれ。うん、間違いない」
「まちがいなーい」
樽に箱に農具に工具。乱雑に物が積まれた小屋の奥を、イコラとニコラは指差していた。壁際の棚には手前より雑多な、よりわけのわからない物が並んでいる。複雑な形の木枠に飾られている半分しかない湖の絵や、羽が四枚あるコウモリの剥製。数十枚の歯車が組み合わさった使い方の全くわからないカラクリに、表紙も中身も鉄板で作られた本、などなど。
まったく理解できない品々と、微妙に盛り上がる姉妹を完璧に無視し、トールは棚の真ん中へと目を向けた。手前の熊っぽい木彫りの人形を横にどけ、邪魔な巻物を脇に置く。
追いついてきた二人の目も、黒い小さな箱にへと向けられていた。
「ホントかよ。木箱だぜ、これ」
「本当だよ。だって、昨日お父さんが自慢げに言ってたもん」
「もーん」
「ゴードンさんが、ねぇ……」
ゴードンは村長の息子でイコラ達の父である。古きを良しとする村の体質を嫌い、新しいものを積極的にとりこもうと取り組んでいる真面目な人だ。行事にしても祭にしても率先して指揮をとり行動する様には、トールも素直に尊敬を向けている。
だが、珍しいものを前にするとその威厳も吹き飛んでしまうのだ。イコラを訪ねて家に行き、得体の知れない毛玉の自慢を延々と聞かされたのはつい先日のことである。
その父親が昨夜、絶対の自信をもって姉妹にウンチクを垂れたのだという。この世の全てが詰まっていると言われても、トールには欠片ほどのやる気もでてこない。
不審が顔に出ていたのか、イコラが目を鋭くしていた。
「あー、信じてないな?」
「だってよ……買ったのだって、あの行商人からだろ? 信じろって方が無理あるぜ」
「なんで? フラッタはいい人だよ。お父さんもマルコルさんも、お爺ちゃんだって信用してキノコとか他のものとかも任せてるじゃない」
「じゃない?」
「どうだか……」
ニコラの疑問は姉の言葉が理解できなかったからだろうが、トールの疑いは
行商人本人に向けられたものだった。
フラッタ・モルクスがいつ頃から村に出入りするようになっていたか、トールは正しく覚えていない。なにか村の窮地を救ったことがあるということを父親に聞いた覚えがあるのだが、その詳細は村長に聞いても教えてはもらえなかった。隠されていること自体が怪しい。行商人の狐めいた眼差しを、彼は今でも信じていない。
最近、イコラが妙になつきだしてからは特にだ。
「もう。なんでそんなにフラッタのこと目の仇にするの?」
「するのー」
「……別に。それより、本当に開けるのか、コレ?」
トールは自身でもよくわからない感情を誤魔化すように、元の目的にへと視線を向け直した。
木製の小箱は薄い闇の中にあり、一際の黒さで存在を主張している。聞いていた名と雰囲気に手を伸ばすことはためらわれ、まずは目だけで調べていた。
形は細長い直方体で大きさはレンガほど。見える五面にはそれぞれ異なる絵が、無学なトールにもはっきりとわかる精緻さで刻まれていた。
それは、他者の痛みを忘れた飢餓。人の怠慢が生みだした疫病。理由のない怨みから始まった戦争。退廃した
『快楽主義者』の処刑。
天板にだけは一転して、抽象的な光が刻まれていた。いや、本当に光なのかはわからなかった。なにしろ、箱は闇よりも深い黒なのだから。
思わず身を引くトールを気にもせず、イコラは弾む声を返していた。
「もちろん。あれだけ開けるなって言われちゃあ、開けないわけにはいかないでしょ」
「でしょー」
わかってはいたことだが、無駄な好奇心の強さも相変わらずだった。村長の孫という自覚はあるらしいが、イコラは基本的に自らの欲求に忠実だ。そんなところは父であるゴードンによく似ている。周囲を惹きつけるところも、迷惑のかけ方もそっくりだ。彼女の好奇心に巻きこまれて何度痛い目にあったことだろう。イコラの引きずりだした冬眠中の大蛇に締め上げられた記憶と痛みは、トールの肋骨にしっかりと残っている。
知らず向けていた平めた眼差しに、挑発的な笑みが返された。
「なに、もしかして怖いの?」
「な?」
「なーんだ、なさけない。女の子のわたしや、ニコラでも平気なのに。そっか、トールは怖いのか」
「こわいのかー」
「ふ、ふざけんなっ。なんだこんなモン。どうってことねぇよっ……」
掌を上げて首を振るという姉妹のわかりやすい呆れの仕草に、トールは落ちこんだ気勢を無理やり上げさせられていた。毎度のことだとわかっていても、それで引き下がっては男が廃る。
勢いよく箱に手を伸ばし、触れ、そして、
それ以上動かすことはできなかった。
鍵がかかっているわけではない。わずかに触れた感触から、蓋が乗っているだけだとはすぐに知れた。
だが、重い。物としてではなく、心が重く感じさせているのだろう。開けようとすればどうしても目に入る二面の絵、飢餓と疫病の真に迫る様が、トールの息を詰まらせてくる。周囲の闇がまとわりつき、震える腕は
『かたつむり』のような早さでしか動かない。
それでも、蓋はゆっくりと持ち上がっていった。紙の薄さほどずつではあるが、少しずつ、確かに、着実に。
呼吸は自然と荒くなり、視界はさらに狭くなる。汗は掌や額のみならず、伸びきった背にまでも流れ落ちていた。閉ざされた小屋の中、ありえない風に背筋が凍る。
隣に控えたイコラからも似たような緊張が感じられた。直接触れてはおらずとも、漂う悪寒はわかるのだろう。
自然と浮かぶ中止の想いを、しかし、残る一人は抱かなかったらしい。
「うー、おそーい。はやくー、あーけーろー」
「うおわっ!?」
「あ」
いつまでも動かないトールの背を、ニコラが勢いよく押していた。
つんのめる体と腕の動きに合わせ、箱が棚から逃げていく。
床に当たったそれは当然、蓋と箱とに分かれて落ちた。
「なあっ?」
「ニコっ」
「おお?」
響く軽い音より早く、イコラがニコラを抱きしゃがむ。
トールは頭の中を真っ白にしながら、それでも二人を背に庇っていた。
転がる小箱の動きに合わせ、二度三度と音が鳴る。
それは狭い小屋に鈍く響き、小さな木霊を響かせた。
だが、それも束の間だけ。