2008.05.28 01:53
ミカヅキX
『熊狩る刻』
熊狩る刻は災いの刻 ただ狩り人の命をもって贖うべし
ニコラは、森の中を歩いていた。
後に尋ねられた時には森の奥に入り込んだ理由を思い出すことはできなかったが、下生えを踏みしめるその足取りは、目的を持っているようであった。
やがて彼女は、お宝を見つけた。
黄金色のそれは、甘い蜂蜜であった。
幼女の目の前に、砕かれた大きな蜂の巣がある。
しかも、それを守るべき蜂はどこにもいない。
誰が蜂の巣を落としたのか、それはニコラの脳裏には浮かばなかった。
幼女はその場に座り込んで、したたる蜜に小さな手を伸ばした。
珍しく小さな黒犬のロードライが殺気立っている。
それ以前に、アラックは嫌な空気を感じていた。
いつものとおり、三匹をつれた気楽な狩りのはずであった。
しかし、森の中に足を踏み入れたとたん、アラックは異変を感じた。
鳥の声が少ない。
森に、何か起こっている。
老いて尚研ぎ澄まされた狩人の魂が、警戒を命じる。
何があってもアラックの命令以外には従わない、凛としたアルインも足取りが重そうである。
見掛け倒しのツヴァイゼルにいたっては、早くも家に帰りたそうである。
いつもなら無理をせず、早々に森を立ち去るアラックであったが、今日はそうしなかった。
何かがアラックを呼んでいるのだ。
その何かは、狩人の勘ではなく、村で長い年月を経て培った絆だったかもしれない。
森の木々を掻き分け進む。
道中で見た、大木に穿たれた傷跡が、アラックの心を乱していた。
それは、熊が己の縄張りを示すために刻んだ爪跡であった。
その位置から、巨大な熊が、この森に入り込んでいることが分かる。
何も起こらなければいい。
何か起こる前に手を打たなければならない。
それが、この老狩人の望みであり誓いであった。
従えた三匹に、緊張が走る。
何かの臭いを嗅ぎ取ったのだ。
アラックは、肩に乗ったロードライ以外の二匹に指で指示を出す。
風の流れを読みながら、慎重に進む。
従う二匹の緊張感が、ひしひしとアラックに伝わる。
とりわけ巨大な老木の枝をかき分けた時、それはいた。
アラックの想像を上回る、巨大な、顎と胸元にふさふさとした毛を持つオオヒゲ熊であった。
その巨大熊は、森の王者の風格さえ漂わせている。
胸元の長い毛の鮮やかな赤色が血を思わせることから凶悪な人食い熊と怖れられているが、元来は木の実などを主食にする大人しい生き物である。
しかし、いまアラックが覗き見ている固体は、明らかに眼に狂気を宿している。
何度も狩りの中でアラックが見た、子を守る親や傷ついた者が見せる、危険な輝きである。
「なんてこった・・・」
アラックの声が、半ば絶望に支配された呻き声を漏らした。
今、アラックの赤茶色の瞳が映し出しているのは、悪魔のようなオオヒゲ熊ではなく、その足元にいる少女の姿であった。
「ニコラ・・・、何故あんなところに・・・」
巨大な死神に対して、無邪気に少女は小さな両腕を差し出している。
ツヴァイゼルの凶相に慣れた彼女には、オオヒゲ熊の魁偉な姿も危険の対象ではないのであろう。
あるいは、小さな子供だけが持ちうる純真な瞳に映る世界には、何一つ危険なものは無いのかもしれない。
アラックは、一瞬のショックから立ち直り、すぐに行動を開始した。
まず、ツヴァイゼルに指示を出す。
しり込みするツヴァイゼルであったが、アラックの厳しい目つきと、大好きなニコラの姿に、意を決したかのように森の中に姿を消した。
アルインは、常変わることなく、アラックの身を護る為に傍を離れない。
いつのまにかロードライの姿が消えていたが、アラックは気にしなかった。
オオヒゲ熊の動きに注意を払いながら、アラックは腰の袋から、小さな金属製の瓶を取り出した。
さらに、ロバートに無理を言って作ってもらった、特別製の鋼鉄の鏃を付けた矢を一本取り出す。
眼は眼前の光景からそらさず、瓶の中に鏃を突っ込む。
慎重に、そっと取り出した矢の先は、鋼鉄の輝きを失い、漆黒に染まっていた。
黒矢、である。
アラックが、その矢を弓につがえた時、アルインが小さく唸った。
その合図を受け、アラックは大きく踏み出し、その姿をオオヒゲ熊の前にさらけ出した。
「ウララー!!」
刻の声のように森に轟いたアラックの叫びに、オオヒゲ熊は目の前の小さな生き物を忘れ、闖入者に意識を向ける。
その隙を狙って、ツヴァイゼルが森の中から飛び出し、オオヒゲ熊に飛び掛る。
しかし、ツヴァイゼルの狙いはもちろん巨大な敵を倒す事ではなく、小さな親友を助け出す事であった。
ツヴァイゼルは、ニコラを傷つけないように咥えると、一目散にアラック目掛けて逃げ出した。
オオヒゲ熊が、ツヴァイゼルに気付いたときには、既にアラックの足元に辿り着いていた。
「ツヴァイ、よくやった」
アラックは、今にも倒れそうなくらい怯えているツヴァイゼルを見ることも無く、労いの言葉をかけてやった。
オオヒゲ熊は、怒髪天を突く勢いで、怒りの雄たけびを上げた。
その咆哮に、やっとニコラの恐怖に火が付いたのか、少女は大声で泣き出した。
自分の恐怖も忘れて、ツヴァイゼルは少女を慰めようと、巨大な下でニコラのふくよかな頬を舐め挙げる。
アルインが、本格的に威嚇の唸り声を上げて、臨戦態勢に入る。
アラックの指示一つで、自分よりも遥か巨大な敵に臆せず飛び込むであろう。
アラックは、弓矢をキリキリと引き絞った。
今アラックの手の中で、射られる時を待っているのは、黒矢である。
アラックの一族が、代々受け継いできた強力な毒矢であった。
その矢を受けた生物は、一呼吸もせずに死に至る。
その矢で死んだ生き物には、虫さえもたかることがないといわれる、猛毒であった。
それは、門外不出の秘薬であり、狩人の最後の武器であり、快楽主義で狩りをする事を禁じた一族の最大の禁忌であった。
アラック自身、生涯で二度しか使ったことが無かった。
黒矢さえあれば、いかに巨大なオオヒゲ熊であろうと、死神の前に無防備に立っているに等しい。
しかし、アラックはためらっている。
このまま、オオヒゲ熊が引いてくれる事を願っている。
ニコラは、ツヴァイに託せば、無事に村まで送り届けるであろう。
森の王たるオオヒゲ熊にくらべ、自分の命に大した価値があるとも思えなかった。
アラックの一族の伝承によれば、熊は森の王であり、狩人の上位に位置する存在であった。
それを狩る事は、神殺しに等しい、黒矢以上のタブーであった。
一族を離れて久しいアラックにとって、その禁忌は大きな拘束力を持っているわけではなかったが、それでも安易に熊を射殺す決断はできなかった。
そんなアラックの想いを知ってか知らずか、オオヒゲ熊は、ゆっくりとアラックに向かって動き出した。
陽の光が、木々を透かし、エメラルドの輝きとなって地上に舞い降りてきた。
決死の状況を忘れるほどに、その姿は神々しかった。
いつの間にか、オオヒゲ熊とアラックの間に、人影が現れたのだ。
「エレン?」
アラックが呟いたとおり、銀髪のその美しい立ち姿は、エレン・バルテンであった。
謎の多いこの狩人の美女は、森の中でこそ輝きを増す。
エレンは、そよ風のように、やわらかな動きで、オオヒゲ熊に近づく。
その姿に、本来感じるはずの危機感を覚えず、それでもアラックは弓の狙いを保ち続けた。
ニコラはいつの間にか泣き止み、アルインも緊張を解いている。
神秘的な一瞬が森の中を包み込み、そして不可思議な一時は去っていった。
オオヒゲ熊の眼には森の王の落ち着いた輝きを取り戻し、アラックたちに背を向け、木々の間に消えていった。
いつの間にか、ロードライが肩に乗っていることに気付いたアラックは、掲げていた弓をそっと下ろした。
アラックは、しなやかな動きで近づいてくるエレンに訝しげな視線を向けた。
エレンは、もの問いたげなアラックを優しく無視して、ぽかんと口を開けているニコラにそっと手を伸ばした。
「あの人に、パンドラにあったのね」
エレンの声は、その姿に相応しく、どこか神々しかった。
その美しさは、ツヴァイゼルにも分かるのだろうか、彼も呆けたような顔で、エレンを見つめている。
「でも、もう大丈夫。風が影を吹き飛ばしてくれたわ」
ニコラには、なんのことか分からなかったらしく、しばらくポカンとエレンの美貌を見上げていたが、やがてにっこりと笑みを浮かべた。
「トールのお姉ちゃん、クマたんとおともだち?」
「ええ。そうよ」
エレンも、にっこりと微笑を返す。
「ごほん」
アラックが遠慮げに咳をする。
「あー。何と言うか・・・」
エレンは、首を微かに傾け、アラックの言葉を待っている。
「つまりだ、ああいう危ない真似はしない方がいい」
アラックには聞きたいことが山ほどあったが、元来口下手の彼に上手く聞きだせるはずも無く、常識的な意見でお茶を濁すことにした。
「子供が真似しちゃこまる」
エレンは小さく笑い声を上げ、ごめんなさいと素直に謝った。
「冗談じゃないぞ、エレン。もう少しでわしは、無益な殺生をするところだったんじゃぞ」
「そうね。よく耐えてくださいましたわ。もしあなたが・・・」
「なんじゃ?」
「いえ。この世に、”もし”は無いわ。あなたは矢を納め、ニコラは今も笑っている。それでいいじゃないですか?」
「いや。再びこのような事がおこるのじゃとしたら、わしは見過ごすわけにはいかん」
何か知っていそうなエレンの物言いに、アラックはそれを無視できなかった。
今回の件が偶然の事故ではないのならば、なんとしてもその禍根を断たねばならない。
「私には、未来を口にするだけの力はないわ。私が語れるものは、事実だけ。そしてそれは常に過去に属するもの」
「何を言っておる?」
「だから私が言えるのは、一つだけ。アラック、あなたのとった行動は正しかったわ」
そう言って、エレンはにっこり笑った。
「ニコラおなかへった!」
突然の少女の叫びに、アラックの気勢がそがれた。
アラックには、エレンの言いたい事が何となく分かった。
人は、人の分をわきまえて、一歩ずつ歩くしかないのだ。
「ねー。アラックじーちゃん、ヴァイにのっていい?」
屈みこんでニコラに向けた顔は、ふくよかな好々爺のものであった。
「ヴァイがいいと言うならば、乗せてもらいなさい」
「ヴァイはいやっていわないもん!ねー」
「がう」
大きな赤毛のツヴァイゼルは返事の代わりに、かたつむりの這ったかのように涙の跡が残っているニコラの頬をペロリと舐め挙げた。
※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米
また長くなってしまいました
水上 える
エレンがどんどん人外に……
もう謎多き村にしちゃっていいんじゃないですか( ̄∀ ̄
アラックさんかっこいいなあ。05/28 02:54
モモと
最初の方の熊に関する逸話みたく書いてるものがかっこいいです。
ああいう部分は頭から絞り出すのが大変そうだなあ05/28 20:48
野良(--)
さっさと撃っちゃえばいいのに、と思ったけど、なるほど、冒頭の詩を有効に使っているな。
05/28 22:26
最終更新:2009年10月19日 03:00