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英雄譚:abendrot(夕)

2006.02.02 00:19

abendrot

 それは、ある街で起こった些細な出来事。

      ▽

 夜の酒場に必ずいる者たちがそこにいた。仕事終わりに酒をあおる者、仕事もせずに酒をあおる者、酒を運んでくる女性に悪戯するごろつき、慣れているのか笑顔さえ浮かべながらそれを軽くあしらう女性、一晩限りの客を待つ者、それと知りながら――いや、知っているからこそ声をかける者、その隣で肩を寄せ合い頬を寄せ合う男女。その他、「よくあるもの」がこの酒場には揃っていた。このような酒場はどの街でもありふれたものだ。この街だけでもあと二、三軒は見られる光景だろう。大きすぎず、小さすぎない。だから、絵に書いたようなものしかない。全てがその場に馴染んでいる。
 そんな酒場に、もう一人、場に馴染んだ者がいた。
 黒の軽鎧に身を包み長い剣を自分のすぐ横に立てかけて、酒の入ったグラスを手にしている人物。
 年齢は二十代半ばくらいだろう。整った顔立ちと鍛えられた体躯。青い目は酒気に濁ることもなく、しかしどこか疲れた色を浮かべながら自らの手元を見つめている。そんな男がカウンターの端で一人酒を飲んでいた。注意して見ていれば彼が一ヶ月前からしばしばこの店を訪れ同じ場所で飲んでいることに気がついただろうが、酒気と熱気と馬鹿な会話に満ちたその空間でそんなことに気がつく者はいない。
 彼は今夜も一人で酒を飲んでいた。


 コツ、コツ、コツ……
 その足音は始めは客の声にかき消されていたが、彼らがその主に気がつくと徐々に客の声は消えていった。まるで足音に声が吸い込まれていくかのように。その静まる声と同様に店内の明りも数を減らし、足音の主の足元にある淡い光だけが残った。
「レーテだ……」
 ため息のような声が客から漏れた。青いドレスを静かに揺らしながらカウンターとは反対側にある小さなステージに上がる女性、この店一の歌姫レーテ。この時間にここに来る客はみんな彼女が目当てだった。
 ステージに立った彼女は一度深く頭を下げ、そして音もなくそれを戻す。その動きについていくように、彼女の長い黒髪が流れた。
 何歳なのだろうか、年齢を感じさせないその雰囲気は、他の誰よりもこの場に馴染んでいるように見えた。もっとも、この雰囲気を作り上げたのは彼女なのだから、当然と言えば当然のことだ。

   思い出を語りましょう
   暖炉の明りの前で
   思い出を語りましょう
   温かなワインを飲みながら

 静寂が支配する酒場にレーテの声が響いた。水のように静かに流れていく声のあとに、リュートと鍵盤楽器の音が続く。それらの伴奏者は彼の死角にいたのでよく見えないが、別に興味があるわけではないのでどうでも良かった。彼を惹くのは伴奏者ではなく歌姫の方なのだ。
 不思議なことに、彼女の歌が始まると彼は今までしていたこと全てをやめて彼女の歌に聞き入ってしまう。理由は分からない。
(違うな。理由なんてないのさ。歌を聞くのに理由なんてない)
 催眠をかけられたときにも似た感覚を覚えるが、それはあながち間違いではないのかもしれない。現に、彼女の歌の前では他の客も彼同様グラスを口に運ぶことをやめているのだから。
 彼は手に持ったグラスをカウンターに置き、彼女の歌の不思議な響きに心を任せた。
 彼女の声は水のように澄んでいるが、アルコールのように人を酔わせる力があるようだった。だからこそ普通のアルコールが必要なくなるのだろう。

   私は歌っていた 私は舞っていた
   貴方のもとで
   私はそこにいた
   貴方のもとに 貴方の瞳の中に

   貴方は戦っていた 貴方は傷ついていった
   私の前で
   貴方はそこにいた
   私の前に 私の瞳の中に

   だけど


   私は貴方の瞳しか知らなかった

(英雄譚第四章……)
 彼女がその曲からステージを始めるのはいつものことだ。その何百年も前の戦争を生きた英雄の話は、誰もが知る御伽噺の一つ。この曲は、ある歌姫の英雄への恋が歌われている英雄譚第四章の終曲であり、歌姫なら誰でも歌える定番の一曲だった。
 しかし、この歌を「語り」という形ではじめているその部分は彼女のオリジナルの詩であった。そして、客はいつもその部分に首をかしげる。
 何が思い出なのか、誰の思い出なのか。
 何故、彼女はその歌詞に涙を流すのか。
 何も分からないまま、客達は今日もレーテの流す涙を見て息を呑んでいた。その視線を一身に受け、それでも彼女は静かに歌い続ける。
「勘定を」
 彼はそんな歌姫を避けるかのように、一曲目の途中でカウンターにいるマスターに声をかけた。
「レーテの涙は、お嫌いですか」
 いつも同じところで帰ってしまう彼に苦笑しながらマスターはコインを受け取る。
 長身痩躯のその男は四十歳の誕生日をもうすぐ迎えるらしいが、どこか悟りきったようなその顔つきのせいで年齢以上に老けて見えた。
「またどうぞ。リッターさん」
 マスターだけが彼と言葉を交わし、彼の名を知っている男だった。


 月のない夜には妖精が世界を照らす。
 よくある昔話も、現実には勝てないようだ。夜月がなければ闇を照らしてくれるものなどない。そうでなければ、月がある意味などどこにもないのだから。
 ジル・リッターは、静かな闇夜に佇んでいた。小高い丘は遠くの山脈といくつかの森――林なのかもしれないが、ここからでは見分けはつかない――を背負う街を見下ろすのに絶好の高さだった。月のない夜は、街がまるで月の代わりであるかのように辺りを照らしている。脆弱な光は闇を怖がる子供のように、深い夜から逃げていた。勿論、そんな弱い光がこんな所まで照らすことなどできない。彼は何もない闇夜に佇み、街を見下ろしていた。
 昼間にここから街を見下ろすと、街の向こう側に街道が左右に分かれて伸びているのを見ることができるが、彼の背後には街道も道もなかった。そこにあるのは十年前の戦争の産物、「属さない土地」である。そこはもう住む人もなく、延々と続く草原には今も戦死した兵士たちの骸が転がっていると人は言う。
 しかしそれはあくまでも噂でしかなかった。確かにここから見えるのは延々と続く草原であることに違いはない。だがその草原を「属さない土地」と呼ぶには語弊があるのだ。
 「壁」、それはこう呼ばれている。「属さない土地」を囲う、決して壊せず決して越えられず決して見ることの叶わない「壁」。それが、今見えているこの風景の正体だった。風景と言っても実際はとてつもなく高い壁に風景画が描かれているだけなのだが、その精密さ故にあたかも草原が続いているかのような錯覚を覚える。だからこそそれは見えない「壁」と言われている。
 そして、その向こうにあるものこそが本当の「属さない土地」なのだ。だから、誰も「属さない土地」を見たことがない。
 目に見えない場所と目に見える虚構。
 その二つは終戦間近に突然国境をまたぐ形でそこに現れ、それ以来そこにあり続けている。誰もそれがいつ現れたのか知らないし、前述の通り中を見た者も勿論いない。国土のことに対しては目の色を変える国でさえ、適当な調査をしただけでそれ以上「属さない土地」に対して何の対策もとっていない。両国共に公式には「調査中」と言っているが、年々その調査費も落ちていると言われている。どうせそのうち風化させる気なのだろう。その動きと同じく、今では「属さない土地」に興味を持つ者もほとんどいなくなってしまった。「属さない土地」は触れることができないし、その必要もない。最近ではそれが当たり前になりつつあった。
 彼を除いては。
 戦前、国境をまたぐ「属さない土地」には二つの村があった。ジルの故郷はそのうちの一方なのだが、彼が村を離れている間に本格的な戦争が始まり、終戦を向かえる間近に「壁」が現れ、以来生まれ故郷には戻れないでいる。
 村を出てからもう十二年。彼はずっと二つの国を彷徨い続けていた。
 自分から出た村に未練などなかった。唯一の家族だった父親は軍隊に行ったきり戻らなかったし、村には他に親戚もいない。あのままあの村にいてもたいしたものを得ることもなかっただろう。確かに、未練はない。今も村に帰りたいとは思っていない。
 では、彼は何に固執するのだろうか。彼が壁の向こうに思いを馳せるようになってもう三年近く経つが、その間に得た情報はほとんどない。この先も何も得ることはないのかもしれない。放浪しているうちに彼が知ったことといえば、彼の父親がそれなりに実績をあげた軍人になっていた、ということくらいだ。勿論、それが「属さない土地」と関係があるとは思えない。
 三年間が無駄に過ぎたと言われるかもしれない。それでも彼は「属さない土地」を求める。
 それは、何故か。
(さあ、どうしてだろうな)
 誰に答えるわけでもなく、彼はそう呟いて思考をとめた。
 この街に来て一ヶ月、「属さない土地」の方から吹き続ける風は、彼を拒み続けている。だからいつもジルはそれに背を向け、街を見下ろすのだ。
 野営地に選んだ丘の上で風にあたっていると、ほんの少しだけまわっていたアルコールも全て奪い去られてしまった。勿論、たった数杯のアルコールがこの寒い夜を拭い去ってくれることなど期待していなかった。それどころか余計に冴え渡ってしまい、夜の寒さと闇の深さを全身に刻み付けられてしまう。だが、こうなることが分かっていたにもかかわらず、今夜も彼はあの店へ立ち寄った。
 眼下の街の光を見ながら、彼はついさっきまで自分がいた店を探した。しかし街全体が見渡せるとはいえ、所詮街からそれほど離れていないここからでは一件の店を見つけるのは不可能だった。
 あの明りの中で、あの歌姫はまだ涙を流しているのだろうか。
 街の明りが消え始めた頃、彼は火を消した焚火の方へと足を向けた。


 夜とはまた違った活気が昼の通りにはあふれていた。路商の屋台が通りの両端を埋め尽くし、声が空間を埋め尽くす。どこまで行っても同じ光景が続き、どこまで行っても同じ光景には巡りあえない。人は皆それぞれの目的のために動き、それが交錯する所ではたまに喧騒も起こっているようだった。
 アインス王国の国境街グレンツェン。国境沿いにある街の中では、この王国で二番目の大きさを誇っている。そのため、この街では国境警備兵の制服をよく見かける。ただ、彼らの姿が街に完全に溶け込んでいるように見えるのは、昨今の両国関係が異常な速さで改善されつつあるからだろう。「国境警備兵は軍人でなくとも務まる」そんな侮蔑も、この街に来てみれば納得できることだ。
 夜の酒場でするのと同じ内容の話をここでも繰り広げている警備兵の脇を通り過ぎながら、ジルはこっそりとため息をついた。
(平和なのが一番なんだろうけどな)
 そんな言い訳じみたことを思っていると、見慣れた路商の屋台が目に入る。
「あら、あんた、まだ野宿してるんだねぇ。どうして街に泊まらないんだい?」
 いつも立ち寄るその屋台の女主は、彼の姿に気がつくとまるで挨拶代わりのようにそう言ってきた。ジルも挨拶代わりの返事を返す。
「人の多い所が苦手で」
 そんな理由で街から離れた丘の上に一ヶ月も滞在する人間などいるわけはなかったが、彼に話しかける人は誰もそんなことを口に出したりはしなかった。どうせ路銀のない貧乏傭兵なのだろう、そう思われているのかもしれない。それとも本当に挨拶のつもりなのか。どちらにせよ、今のところ彼の素性を詮索しようとする気はないようだった。
 その恰幅のいい果物屋からりんごを一つ受け取り、それと同時に銅貨一枚を渡す。
「これ、おまけだよ」
 そう言って渡してくれたもう一つのりんご――少し柔らかいような気がする――と始めに買ったりんごを器用に片手で持って、彼は頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
 やはり貧乏傭兵と思われているのだろう。彼はそう思い苦笑しながら、賑やかな通りを出て細い裏路地へと入っていった。


 一気に辺りの温度が変わった。暗い路地には時間のせいか人の気配はなく、独特の空気が漂っていた。時間に関係なく漂うアルコール臭さは、誰かが昨夜ぶちまけたものかそれとも長年の間に染み付いたものか、それすらも考えさせないほど鼻孔と思考を支配する。表通りより人が少ない分だけ路は広いはずなのに、両端に佇むのっぺりとした灰色の壁の圧迫感と空の遠さが通りの狭さを強調していて、進めば進むほど路が狭くなるような錯覚すら覚える。
 転がっている酒瓶の陰から飛び出す鼠とそれを狙う猫の視線の間を通ると、猫は器用にジルの足の間を通り抜けていった。
 柔らかくない方のりんごをかじりながらしばらく進んでいくと、丁度それを食べ終わった頃に目的地に着いた。
 狭く、アルコール臭い路の中で、完全に忘れ去られている廃屋。両開きの大きな扉は片方が斜めに傾き、おそらく開くこともできないだろう。その扉の上方を見ると、彼の父が所属していた軍隊のレリーフが何とかぶら下がっていた。通りに面する壁の窓は全て割られているが、中は薄暗くてよく見えない。日の光が十分に射していない為に、まるで病気であるかのような印象を持つ建物だった。
(どちらかというと、死んでるって感じだけどな)
 この街に来てからここを訪れるのはこれで三度目だが、そのときから何一つ変わることのない建物を見上げていると、三度目の同じ感想が浮かんだ。
「さて。行こうか」
 自分に言い聞かせるようにそう言って、彼は開く方の扉を引いた。
 それは、もはや扉のあげる悲鳴とは違う音を立てながら彼を迎え入れる。
 その中は、外見にもまして酷いありさまだった。
 テーブルだったものと椅子だったもののほとんどが原形を失い埃にまみれていた。一体ここが何の部屋だったのか今となってはそれすらもよく分からないのだが、机と椅子の数や形――勿論それも推測に過ぎないのだが――からすると、ここはおそらく玄関と応接室を兼ねた部屋か、そういった人の集まることを意識した部屋だったのだろう。
(軍の看板提げてるわりには安っぽい建物なんだよな。まあ、こんな辺境の町に、しかもたかだか数十人の部隊専用の軍営にたいした金は下りてこなかったんだろうけど)
 何度見ても同じだと分かりながら、ジルはもう一度部屋の中を見回した。
 通り側の壁に面した床にはガラスが散在し、よく見ると明らかに外から投げ込まれたらしい拳大の石もいくつか混じっていた。暗くてよく見えないが、おそらく鼠か何かの死骸も転がっているのだろう。そういった匂いもする。目が慣れてしまえば、はっきりするだろう。それがいいかどうかは別として。腐ってしまっている床板は、踏むところを見誤れば彼の体重を支えきれないかもしれない。それでなくとも、既に数箇所穴は開いている。全体的に暗いということもあって、決して居心地のいい空間とはいえなかった。
(ここと比べれば、通りのアルコール臭さは問題じゃないよな)
 そんなことを考えながら、彼は扉をそのままにして足を進めた。少しでも光源を確保しておきたかったのだ。
 そうしてから、前に来た時と同じようにゆっくりと奥へ進む。実は四度ほど床に開いた穴にはまったことがあり、このコースを選び出すのにも結構苦労している。だからこのように普通に歩けるのは大いなる進歩であり、またそのために床に対する注意力の欠如をまねいてしまった。
「そこ、大きな穴があいてるわよ」
 後ろから聞こえた声に、彼は足を宙に浮かせたまま止め、肩越しに声の主の方を振り向いた。
 そこにいたのは、漆黒の髪を持つ女性だった。彼女は、彼と扉のほぼ中央辺りに立っている。その髪が彼女の頬から肩、そして胸へと流れる様はいつ見ても見事だ。
 髪を目で追っていると、つい胸の所で視線がとまる。
「店に来る客と同じね」
 ジルは片足を宙に置いたまま器用に肩をすくめ、今度はきちんと彼女の方へと向いて、もう一度彼女の姿へと視線を戻した。
 髪と同様に美しいその顔はいつもより多少化粧が薄く、いつもより多少現実感があった。しかし、服装や化粧がラフなものであるのにどこか普通とは違う感じがする。それはやはり、彼女自身の持つ雰囲気からくるものなのだろう。
 歌姫レーテ・ヴィーラント。やはり年齢やその他いろいろなものが読めない人物だ。
「ここは観光客のくる所でも、傭兵がくる所でもないわ」
「じゃあ、歌姫のあんたがここに来るのはいいのか?」
 レーテの問いにそう返すと、彼女は肩をすくめて片手を彼に向けた。何かが飛んでくることを想像して――職業上身についた条件反射だ。こういうとき、自分の職が嫌になる――身構えると、彼女はかざした手で今度は指を一本だけ残し緩く拳を作る。こちらを指す指が彼の目の高さで止まり、
「貴方、リッター部隊長の息子なんでしょう」
レーテは歌うときと同じような声で、そう切り出した。その目はどこか懐かしいものを見るかのようで、少し潤んでいる。
「シャルフ・リッター第五魔女部隊長。本当に似てるわ。貴方達。ここで待てばいつか来ると思ってた。貴方のその目、その青い目。お父さんにそっくりよ」
 さっきの言葉を訂正するべきだろう。彼女は歌うときと同じ声で話しているのではなく、歌っているのだ。その言葉は、レーテが今日のために用意していた歌。
「それはどうも。あんたのような綺麗な人に待ってもらっていたとはね。こんな廃屋に通った甲斐があったよ。レーテ・ヴィンラントさん、」
「ヴィーラントよ」
「親父を知っているのか?」
 二人の声が重なり、二人の沈黙も重なる。
 気まずそうなジルの顔と、喜びと悲しみを同時に表現するレーテの顔。その二つが、薄暗い中にあった。外の音が届かないそこは、まるで時が止まっているかのようである。
 先に動いたのは、レーテの方だった。右足を前に出し、体重をその足にかけると今度は左足が床から離れる。それを数回繰り返し、そして止まる。ジルの目の前で彼女の髪が揺れ、彼は背中に彼女の両腕を感じた。
「あの人は、行ってしまった。私を置いて、行ってしまった」
 「どこに?」それを言うほど、彼は無神経になれない。目の前で小刻みに揺れる髪を見下ろして、彼は黙って歌姫の肩に手をまわした。


 大きすぎず小さすぎない酒場で、彼女は今夜も歌っている。英雄譚第四章を。
 絵に書いたようなものしかない酒場で、彼は今日も聞いている。カウンターに身を預けて。
『私、戦争中に貴方のお父さんの部隊に捕まって、そこで歌っていたのよ。まだ十を少し超えたぐらいの子供だったから、敵国とかそういうのはどうでも良かった。歌えば助けてくれるってあの人が言ったから、私は一生懸命歌った』
 昼間のあの廃屋で彼女が静かに語った彼女自身の英雄譚第四章が、今ステージの上で歌っている彼女の声と重なった。
 半分しか液体の入っていないグラスの中には二つの大きな氷が先を争うように水面を求め、歌とは異なるリズムを刻む。その澄んだリズムをグラスを握る右手で更に崩し、彼女の方へと青い目を向ける。そこにはいつもと変わらない、美しい歌姫の姿があった。
 彼女の歌は、彼女の現実であり彼女の夢だった。
『勿論知ってたわ。あの人に家族があることは。でも私が思っていたのはそういうことじゃなくて、純粋にあの人の目の色が好きだった。あの人は、私の歌を澄みきった青い目で聞いていてくれた。敵国の人間だった私を、助けてくれた』
 その目の色が好きだったから、辛いことがあっても帰りたくなっても我慢できたのだ、と。
 戦争が終わる直前まで、彼女は魔女部隊にいたらしい。
 しかし、丁度この街のあの廃屋に滞在していた頃、シャルフは彼女を置いて行った。それはあまりにも突然で、ほとんど夜逃げのようだったと、彼女は言う。
『朝、目が覚めるとね、お金だけが残されていた。四十人近くいた魔女部隊の人が、みんないなくなったの。勿論、貴方のお父さんもね。私、訳が分からなくなってしばらく泣いていたけど、そのうち気がついたのよ』

   だけど
   私は貴方の瞳しか知らなかった

 彼女の歌と、彼女の涙と、それは今日も同じだった。ただ違うものがあるとすれば、歌い終わった後で彼女が彼の方を向いたことぐらいだ。
 たまたまそっちを向いていた彼の目とそれが偶然ぶつかる。
(たまたま? 歌が終わった後で俺が歌い手の方を向くのは「たまたま」なのか?)
 どこか図られたような気がしないこともないが、とりあえず自然に――そうであると彼は思う――目をそらす。そんな自分を嘲るかのようにグラスの氷が笑った。
 「今夜また、例の廃屋で待っています」そう書かれた紙切れを手に、彼は笑った氷を口に含み、悔し紛れに噛み砕いた。


 月の本来の姿がまだ想像もつかない夜の廃屋にランプの明りが灯り、完全な闇の中で埃にまみれた床を照らしだす。あの店でいつも歌姫を照らしている明りよりは明るいだろうが、それでも握り拳大の明りが照らせる範囲などたかが知れていた。実際それが届いている範囲は大人の足でも五、六歩が精一杯である。
 その中で踊る二つの影。丸くなったまま床を探る男と、その隣で立っている女。
「そこの床板をはずして」
「そこって、どこだよ」
「貴方の右足で踏んでるのから三つ先の床板。……それじゃないわよ。もうちょっと前。……それじゃ行き過ぎよ」
「あんたの影で見えないんだ。少し右に行ってくれないか」
「右って……床、ないわよ」
というようなやり取りを交わしながら、ジルは不器用な手付きで床を探る。その手に毛の生えた柔らかい何かが触れる感触を無理やり無視して手を動かしていると、不意に床板の手触りが変わった。他の死んでしまった木とは違う。埃こそかぶっていたが、それは明らかに周りのものとは時の経ち方が違っていた。
 その床板の淵をゆっくりとなぞると、丁度指が一本入るくらいの穴が見つかった。いや、それは偶然はまったと言うのかもしれない。男の、しかも剣を握っている為に普通の男より太い彼の指では、その穴に人差し指の第一関節と第二関節の間までしか入らない。それでもそこまで入れば十分だった。指がつりそうになりながらも、その床板を持ち上げる。
 どうやら誰かがまめに開閉していたらしく、その床板はこの廃屋の扉のように奇怪な音を立てることはなかった。
「これか?」
「それよ」
 申し合わせたかのように重なった二つの声に、ジルはまた気まずくなったような気がした。どうも、彼女とはやりにくいような気がする。
(何か合わないんだよな。間っていうのか? いちいちかみ合わない)
 そんな不平を口に出すこともできず、無言のままでそのはずした床板を置いた。
 その下から出てきたのは一冊の本。土が付いているからか、それとも古いからなのか、表紙の文字はもう読めない。紙が焼けてないだけまだましだか、多少の湿気も含んでしまっている。念のため、それの表紙をめくりインクが滲んでいないかを確かめると、そこには見慣れた文字――しかし、とても懐かしい文字が並んでいた。
『第五魔女部隊戦闘記録・シャルフ・リッター』
 少し滲んで読みにくいが、その字は確かに彼の父の文字だった。下手くそで読みにくい、「記録」として成立しないような字。
「私が置いていかれたとき、机の上にそれがあったの。手紙と一緒に」
「手紙?」
 彼はしゃがんでいたため、彼女の顔は逆光になりその表情は見えなかった。
「何年か前になくしたんだけど、そこに書いてあった。この記録を息子のジルに渡して欲しい、それまで保管しておいてくれ、って」
 そう言われて再びその古びた記録に視線を移す。ここで彼を十年以上待っていた紙の束に。
 何が書かれているのか。父は何を自分に残したかったのか。
 薄暗いここでそれを読むことはできないと判断し、本を閉じて立ち上がる。閉じたときの土臭さがこの本の年代を感じさせたが、それも立ち上がると消えてしまった。
「帰る方法は載っていないわよ」
「ん?」
 ジルが立ち上がると、彼女は腕を組み彼の方を真っ直ぐ見てそう言った。その意味をすぐに理解できなかった彼は、眉をひそめ彼女の目を見つめ返した。
 それをどう理解したのか、彼女はため息をついてやれやれとでも言いた気に肩をすくめる。
「一ヶ月も前から『属さない土地』側にずっと野宿してる人の噂なんてすぐに広がるものよ。で、いつも店に来てる貴方の名前はマスターが教えてくれたし、昨日言ったように目がシャルフさんそっくりだったし。その上、シャルフさんは『属さない土地』出身だった。これだけ揃えば、分からない方がどうかしてる――」
「帰りたいわけじゃない」
 レーテの言葉が終わるより早くにジルは返した。語気が多少強いと感じたのは、彼の気のせいではないだろう。
 レーテは彼の返答に驚いたのだろうか、それとも予測していた反応だったのだろうか。だが、そんなことはどうでもいい。ジルはレーテの言葉を遮るような勢いでそれを発したのだから、次はこちらが何か言わないといけないのだ。彼女の表情からそういった気配を感じる。
 今度は彼がため息をつき、続けた。
「帰りたいわけじゃない。壁の向こうにあるものを見てみたいんだ。あの向こうの、俺の故郷がどうなったのかを知りたい。分かればそれでいい。それ以上は望んでいない」
「そういうの、強がりって言うのよ。本当は忘れられないんでしょう。自分の故郷を」
 そんなことはない。
 それを言おうと口を開きかけ、やめる。彼女の同情とも呆れたとも取れるその表情から、これ以上続けても彼の思いは彼女に受け入れてもらえないのだと知れた。負け惜しみなのかもしれないが、無駄だと分かって話を続ける気にはなれない。
 その代わりに出てきた言葉は、特に意味があって言ったものではなかった。開いてしまった口が何となく続けたものに過ぎない。
「ところで昨日、ここで待てばいつか俺が来ると思っていた、って言ったよな。あれどういうことだ」
 この広い世界で一人の人間が一人の人間と出会う確立など、考えるのも馬鹿馬鹿しい。それを彼女は十年以上もこの本と共に待っていたと、確かに昨日そう言った。
 特に気になったわけではないのだが、話題をそらすのには十分だったようだ。その言葉を聞いた彼女は、あからさまに何を言っているのか理解できないという表情で首をかしげた。
「貴方、まさかこの街に何があるのか知らないで一ヶ月もここにいたの?」
「親父が消息を断った街だ」
 旅を続けているうちに知ったこと。この街の軍の駐屯地であるこの建物にいた男が自分の父親らしいということ、そしてその男が街に来て五日も経たないうちに消えてしまったということ。
 しかし、もともと前線で活躍した部隊だったらしいので父親に関する噂は珍しいものではない。特に国境近辺では。その上、それらの情報は彼が偶然耳にしたものであり、この街に来たのはそれのせいだと言うよりも、来てからそのことを思い出したと言った方が正しい。言ってしまえば、この街は彼にとって偶然立ち寄った街の一つにすぎないのだ。
 更に、父親の噂の終着点であった建物に足を運ぼうと思ったのも、単なる偶然に過ぎない。たまたま例の路商の果物屋がこの建物のことを教えてくれたから足を運んでみたのだ。
 彼がそんなことを口にすると、彼女はさっきとは少しトーンの違うため息をついた。まるで同情するかのような音で。
「貴方、本当に知らないのね……この街には、シャルフさんのお墓があるのよ」
 ため息の続きのような声で彼女は静かに告げた。


 翌朝、ジルはまだ霧も晴れていない街の中を歩いた。この時間に街にきたのははじめてのことだ。もっともいつもは夢の中にいる時間なのだから当然と言えば当然である。
 霧の中はとにかく視界が悪い。数メートル先が見えず、無論辿ってきた道も見えない。危うく突き当たりにぶつかりそうになったり、段差に気がつかずつまずきそうになったりと、その歩みは遅かったが、特に行くあてがあったわけでもないのでそれでもよかった。足元の霜の感触もすでに慣れた。はじめの不快感など慣れることができれば気にならなくなるものだ。
 白い世界に身を浸してどれくらいになっただろうか。服もその他の布に包まれていない部分もじっとり湿ってきて、冷たかった。寒いとは違う、心地よい冷たさ。何も考えなくてもいい、何も考える気にならないそんな冷たい白。
 その中にいることに意味がある。と、思う。
(何浸ってるんだ、俺)
 父親の死がショックだった。
 父親の墓があるとも知らず、この街に長くいたことに驚いた。
 そのどちらでもないことは分かる。実際、レーテがそのことを口にしたときも大して何も思わなかった。父親を探していたわけではないし、最後に顔をあわせたのも十年以上前である。気にしろと言う方が無理なのだ。
 誰かとすれ違った。その最初で最後の出会いに思うことなどなく、ただ街を歩く。行くあてもない。歩くことにすら意味はないのかもしれない。
 「失った」という言葉が理解できないのか。
 おそらく違うのだと思う。もしかすると、父親の死はずっと前から分かっていたのかもしれない。消息を断った時から――と言っても単に父親に関する話や噂が途絶えた、というぐらいのものだが――覚悟していたことだ。そして実際に事実を突きつけられて、やはり思うことなどなかった。
 再び誰かとすれ違った。名前も顔も知らない誰かは、こっちを見たかもしれないし、そうでないかもしれない。どうでもいいことだ。
『本当は忘れられないのでしょう』
 レーテの言葉が聞こえた。その声は耳障りな響きでジルの思考をかき回す。
 本当は故郷のことも父親のことも忘れられないのでしょう。
 だから貴方は「属さない土地」に固執したり、この廃屋に足を運んだりしたのでしょう。
 帰りたい、会いたい。それが本心なんでしょう。
(違う。そういうのとは違う)
『失ってしまったものは前には進まない。それに縛られている人も止まったまま。本当は早く忘れて前に進みたいと思っているのに』
 彼の頭の中で、レーテはそう歌う。
『英雄譚の結末を知ってるでしょ? 英雄は数々の武勇伝を残し、戦争はようやく終結する。彼はその後「英雄」として国中からもてはやされた。どこへ行っても、何をしても、彼は英雄扱いされた。そんなある日、小さな村で彼は一人の女の子に出会う。彼女は英雄を見て、たった一言呟いた。「あなたの名前は何?」彼は何も答えなかった。ううん、違うわ。彼は答えることができなかったのよ。国中にその武勇伝が伝わった英雄は、何故か自分の名前を答えることが出来なかった』
 有名な話だ。御伽噺の結末として良いのか悪いのかは分からないが、この英雄の末路はジルも知っている。
(英雄には名前がなかったからさ)
 名前のない英雄は、少女の問いに答えられなかった。
『それから、彼は悩み始める。英雄になる前の自分は何だったのか。英雄になる前の自分は誰だったのか、って。それから、彼は英雄である前の自分を探すようになったのよ』
 英雄は嘗て自分を愛した歌姫も自分を英雄と呼んでくれた人々も捨て、長い長い旅に出る。彼は自分を見つけることが出来たのか、それは誰も知らない。なぜなら彼はもう英雄ではない、誰も知らない存在になったのだから。
 それが、英雄譚の結末。
『貴方、英雄と同じ生き方をしている。過去ばかりを探して、自分を見ている人のことを捨ててきたのでしょう。そんな生き方をしても、失うだけ。過去にこだわってしまうと、前には進めない。だって、思い出はもうここにはないものだから』
 彼女はそう締めくくって、何も言わなくなった。
 ジルも何も言い返さなかった。言い返したところで、自分がどうして「属さない土地」に固執するのかということを上手く説明できそうにない今は、言葉が続かない。自分自身が完全に理解できていないことは、他人に伝わるはずがない。
 本当は、自分は何をしたいのだろうか。
 すれ違った他人は、その疑問に答えてくれはしなかった。
 そんなことを考えていると、彼は一つ自分が間違えていることに気がついた。
(冷えると余計に頭が冴えるな)
 何も考えなくてもいいはずだった散歩は、頭が冷えたお陰でじっとしているよりものを考えることになった。そのことに腹を立てて、しかしそれも露に冷やされてすぐに消えてしまった。


 今夜も、あの酒場に行こうとしている。単に行くあてがないからか、それともあんなことを言われてもレーテの歌を聞きたいからか。
 どちらでも同じだ。彼はあの薄暗い空間で、名前も知らない者達と共に歌を聴くだけである。彼自身も言ったことだ。
 歌を聴くのに理由なんて要らない。
 日が落ちた街が夜の支度をはじめている。殆どの路商がいなくなった通りは予想以上に広く、人通りも殆ど絶えてしまっている。時々狭い通りから飛び出してくる子供がその勢いのまま近くの建物に入り、また逆に広い通りから狭い通りへと飛び込んでいった子供が何かを蹴飛ばす音が聞こえた。その他にすれ違った人間は殆どいない。レンガで出来た壁の向こうから夕食の匂いがするが、夕日の赤と夜の紫が混在する空のように混ざり合ったそれは、それぞれが何なのか分からないということもあり、通りを歩いている人間を引きつけるほどのものではなかった。
 街灯の灯る直前、ジルは空に灯る小さな光を見た。誰にも見てもらえないかもしれないのに、その光は必死になって届かない光を投げかけている。
 しばらくすると、街の中の明りが予想通り呆気なくその小さな明りをかき消してしまった。目を凝らして空を睨んでそうしてやっと見える程度の光は、一瞬前にそこにそれがあったと知っていたジルには見えても、他の人には見えないだろう。そうでなくても小さな雲がそれを隠してしまうかもしれない。その雲より小さい鳥でさえそれは可能だ。
 しかし、もし今街中の明りが突然消えてしまったら。雲がなければ。鳥が木にとまったら。そうすれば、星はその光を地上に届けることが出来る。地を這うものにその姿を見せることが出来る。
(そんなことを星が望んでるとは思えないけどな)
 そう。星が輝くのは、その姿を人に見せるためでも大地を明るく照らし出すためでもない。
 ただ、それ自身が輝いているからだ。
 だからこそ地を這うものの力で輝き始めた星の光を消し去ることはできない。目を閉じても、手をかざしても、星はそこにある。目に届かなくても、星は変わらず輝き続ける。その光がたとえかき消されたとしても、その存在を知る者達には見えているのと変わりはない。
 ジルは立ち止まり、消えてしまいそうな星を見つめた。そしてその星がどこにあったのか忘れ始めた頃、彼の目にもう一つの星が映った。徐々に空高く彼の手の届かない所に、沢山の星が輝きだす。手の届かない見える場所に、数え切れない星が光を投げかけ始めた。


「マスター、この言葉の意味分かる?」
 いつもと同じく、ステージが始まる少し前にジルは店で飲んでいた。その彼の前で、古い本の一ページが開かれている。ジルはそれを指差して、彼の前に立つマスターの方を向いた。
 マスターはしばらくその字を見つめ、しかしお手上げだと思ったのか、肩を落として首を横に振った。
「すみません。私には……」
 思っていたのとそう変わりない反応だった。ジルにも、その言葉が何を意味するのかいくら考えても分からなかった。どこかの地方の言葉なのだろうが、この辺でないことは確かだ。
 父の形見である本の最後のページに書かれたその文字は、単に気まぐれで書きなぐったものだとも、ちょっとしたメモで書いたものだとも思えた。また、ジルに対する何らかのメッセージのように見えなくもない。
(だから字は綺麗に書けって言ったんだよ)
 子供の頃、彼に字を教えてくれた父の姿が浮かんだ。始めは真面目に父の指南を受けていたが、途中からは彼が父に字の書き方を教えていたことを思い出し苦笑する。本当に父の字は読みにくかった。
しばらくその単語を見つめたが、やはり何を書いたのか見当もつかないので仕方なく本を閉じ荷物袋に突っ込んだ。
 丁度そのとき、店の照明が落ちていった。

   思い出を語りましょう
   暖炉の明りの前で
   思い出を語りましょう
   温かなワインを飲みながら
   思い出を語りましょう
   暖炉の明りに照らされて

   それは貴方の中で貴方を支えるもの
   それは貴方の中で貴方を築くもの
   それは貴方の中で貴方が失ったもの

   さあ思い出を語りましょう
   温かなワインを飲みながら

 彼女が歌うステージは、今日も大盛況だった。客の誰もが彼女の歌と涙に心を奪われ、舞台上へと視線を注いでいる。
 その彼女を見つめる客の中の一人に、場に馴染んだ者がいた。武器を所持して酒の入ったグラスを手にしている人物。彼も他の客と同じように青い目を歌うレーテに注ぐ。
 が、今日はすぐにそれをそらし、カウンターに立つマスターへと向き直った。
「勘定を」
 それだけ言うと、彼は財布を出そうと荷物の入った袋に手を入れる。
「いつもより早いですね」
 この店のマスターはあまり多くを語らない人物だった。ジルは彼のそんなところが気に入っていた。路商の果物屋も、彼に話しかけても詮索はしない人だった。そんな人々に出会えたからこの街に一ヶ月も滞在していたのかもしれない。
 財布の中からいつもより多めのコインを出し、マスターに渡す。
「……また、どうぞ。ジルさん」
 それを理解したのか、マスターはいつもより深く頭を下げた。そんな彼に背を向け、ジルは客の誰も見向きもしない店の出口へと向かった。
 店を出る前、ジルが最後にもう一度だけ歌姫の方に目を向けると、そこにはいつものように涙を流すレーテがいた。彼女はこれからも星の輝きに気づかずに、この店で見えないふりを続けていくのだろうか。
 ジルはそんな彼女の姿を目に納め、店を後にした。


 酒場の明かりが遠くなり、酒場の音が夜に紛れた。ジルは誰もいない通りで、一人夜空を見上げた。そこには星はあまり見えない。
 英雄は言う。過去に囚われたのは、自分ではない。いつまでも英雄を求めた彼らの方だ。思い出を失ったと思ったのは、彼らが思い出に囚われ過去に縛られていたからだ、と。
 彼女は囚われていたのかもしれない。いつまでもジルの父の帰りを待ち続け、泣き続けていた。
 ジルは見えない星を見つめた。
 いつかこの出会いが過去になり思い出になったとき、それは手に届かない所にあるあの星のように静かに彼らのもとへと戻ってくるのだろう。決して拒むことのできない光になって。
 思い出とはそういうものなのだと、彼は思う。星と同じで、そこにあることを否定できないものなのだ。
 アルコールに任せて感傷に浸っていると、夜空に一筋の光が流れた。
(墓参りにでも行くか)


 それは、ある街で起こった些細な出来事。
 いつかまた輝きに変わる、一つの出会い。



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1から6までの感想フォーマットをつけましたが、コレに拘りません。皆さんの鋭利な(?)感想をお待ちしております。

1・読んでいる途中で飽きましたか? 飽きなかったですか?(その理由(飽きた箇所など)も出来れば教えてください)
2・話の内容や設定に矛盾を感じた箇所はありましたか? 理解できない箇所はありましたか?
3・情景は浮かびましたか?
4・好きなキャラ・場面or嫌いなキャラ・場面はありますか?
5・日本語面での問題に関して。
6・正直な感想をお願いします。率直な罵詈雑言、腑に落ちなかった小さな疑問、ナイフのように鋭い指摘、その他なんでも。

番外・「ジル」って、やっぱり女性の名前だと思いますか?


最終更新:2009年12月13日 02:16
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