2008.05.05 23:25
野良(--)
セルバラックはコードネルの首都であり、湾岸に並ぶ都市群の中
かなめ
でも、港湾交易の要として大きな成長を遂げてきた。通りや広場は
行き交う人々で溢れ、市や露天の品々は薄れることなく潤いを与え
てくる。主な特産は魚介に真珠、そして貝を用いた工芸品。街には
シェゾ
種々の品々と、それを扱う民で溢れている。潮の匂いと貝醤の香ら
せる香ばしさは、コードネルの都市町村に共通した街の匂いだが、
満ちる娯楽と教育の多様さが、セルバラック独特の雰囲気を形作っ
ている。上層、中層、それに下層と、貧富の差の程度こそあれ、華
やかなその空気には変わりがない。
だがそれも、平穏な時の中であればの話だ。
狭い区画を埋めるのは、五の階を越える建物の群れ。日頃ならば
圧迫を感じる雰囲気も、今日はどこか弱々しい。外壁がヒビ入り削
れているのは同じだが、破損の進みは一目しただけでも明らかだっ
た。通りの中心である長大な釣掘りの、日頃は澄んでいる水までも
よど
が灰色に澱んでいる。三日ぶりに歩くセルバラックの下町は、ラディ
ひど ひへい
には酷く疲弊して見えた。心が重いせいばかりではないだろう。
ずいぶん
「……ホント、随分な有様ね。アタシたちがどうこう言える筋合い
じゃないけど」
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。やはり無理はしない方が……」
「大丈夫よ。あの程度のことでいつまでもビビっていらますかって
の」
後ろからの不安そうなギルの声に、ラディは反発するように威勢
を上げた。往来の真ん中を堂々と歩き、南方異国の装いを見せつけ
て。少なくなっていた行き交う人々が注目を向けてきたが、だから
あお
と遠慮をする気などラディにはさらさらない。むしろその目を煽る
はお フード なび
ように、羽織った帽頭衣を靡かせてみせた。
ギルが向けてきた溜息に、ラディはようやくの溜飲を下げていた。
少しだけ表情を緩めながら、手近な露天酒場の一席に腰を落ち着け
る。優雅に注文を通したときには、周囲も平静を取り戻していた。
王立美術館の盗難騒ぎに関しては大きな進展も聞こえては来ず、
けねん トレース
懸念していた魔導の“追跡”も感知はできずにいた。暗殺騒ぎの方
が難航しているのだろう。下町は元から見放されているが、中層上
層の治安ですら維持しきれていない現状が、ラディにそんな認識を
抱かせていた。
わず ゆううつ
僅かばかりの憂鬱と共に。
かよ いそ
通い慣れた往来からは当たり前の光景が欠けていた。貝細工に勤
フィッシュ・ボール
しむ女性たちや釣球を楽しむ子供たち。小広場での屋台や露店、歌
に踊りを披露する楽士芸人はおろか、昼食時であるにも関わらず主
堀で釣に興じる者すらほとんどいない。
目に付くのは酒屋の露天で密談を交わすような素性の知れぬ、と
かたぎ
ても堅気には見えぬ連中ばかりだった。眺めている自分たちも含め
てだ。
うと
疎ましさすら感じていた日常に対して、ラディは自分でも意外な
ほどの感傷を抱いていた。自らもまた、それを壊した一端であると
かしゃく
いう呵責がそうさせるのかもしれない。
だから、いつもなら平然と受け流せる出来事が、今日は無性に腹
立たしく感じられた。
ひわい
「よう、ラディ。相変わらず卑猥な格好していやがるな」
そや げび
粗野で下品な男どもの、下卑た笑い声と態度が。
苛立ちを隠さず横を向いてみれば、近づいてくる三人の姿が目に
入ってきた。それは髪も髭も乱れに乱れた、熊のような風体の男た
ち。
湧き上がる嫌悪感を、ラディは隠そうともしなかった。
「バローニオ……馴れ馴れしく呼ぶんじゃないわよ。気持ち悪い」
「そう邪険にするない。一杯ぐらいなら奢ってやってもいいぜ。ワ
フロワ
インでも、華酒でもな。もっとも、お前に味がわかるとは思えねぇ
けどよ」
「なに……」
ずいぶん
「随分と羽振りがよさそうだな、バローニオ」
嫌悪が険悪に変わる中、席から立ち上がったラディが一歩を踏み
だすより先に、ギルの背がその歩みを遮っていた。
その言葉の底にある冷たさに気づいているのかいないのか、バロー
ニオは取り巻き二人と共ににやついているばかり。
「あぁ、この騒ぎのおかげでたんまり稼がせてもらったからな。ど
このどいつが暗殺なんて馬鹿やったのか知らねぇが、まったくあり
がたいこった。もう二、三日は忙しくなりそうだぜ」
「アンタたち、まさか……」
げび
下卑た笑いが語るその内容に、ラディは言葉を失っていた。暗殺
ガード
騒ぎの対応に追われ、衛兵士たちが治安の維持に回れていないのは
周知の事実。ラディたちもまたそれに乗じ、王立美術館への侵入を
むじな
決心したのだ。同じ穴の狢どもが似たようなことを考えても不思議
はない。
より警備が薄い場へ、より簡単な行いを。
よく見ればバローニオたちの薄汚れた灰衣には、浅黒い染みが浮
いていた。古鉄の匂いが残る、元は赤であったのだろう痕跡が。
声を詰まらせたラディの様に、バローニオはますます口元を歪め
持ち上げていた。
ひが
「なんだ? 僻みはみっともないぜ。どうしてもってんなら加えて
やってもいいがな。もちろん儲けは俺が九でお前が……」
「うっさいっ。アンタたちみたいなげす下衆と一緒にすんな。異形
にも劣るクソどもが」
「……なんだと?」
まがりなりにも穏やかだった雰囲気が、その一言で一変していた。
だが、高まる剣呑を意識しながらも、ラディの言葉は止まらない。
「品位も知性もないヤマを偉そうに自慢してんじゃないよ、この腐
れ外道。そんなに殺しがしたけりゃグランディーグの森にでも行き
な。そうすりゃこの街も少しはきれいになるってもんさ。アンタた
ちみたいな畜生崩れにできる、それがせいぜいの善行ってもんだろ
うよ」
「こ、このアマ……」
「言わせておけば……」
ばりぞうごん
流れるような罵詈雑言に、バローニオの取り巻き二人が顔の色を
変えていた。回る口を押さえようと、怒りのままに手を伸ばしてく
る。
だがそれは、ラディを掴むより先に、その体ごと地へと叩きつけ
られていた。
ふさ
間に立ち塞がったギルの、左右の手に返されて。
「テ、テメェ、ギルバート! いきなりなにしやが……」
「それ以上ラディに近づくな。意味がわからぬというのなら……」
いき
熱り立つバローニオに対し、ギルはあくまで冷静だった。ただ、
フード
右手だけはすでに背へと回されている。羽織った短い帽頭衣の下、
ショート・ソード まと
忍ばせた小剣がある場所へと。纏い放つ雰囲気は戦場を越えてきた
マイト
戦士のもので、常であれば下町にたむろする小悪党など、その睨み
だけで散っていただろう。
いき
だが、この日のバローニオは違っていた。消えきらなかった熱り
のまま、手近なテーブルを力任せに振り上げる。
「っ、知ったことか、このヤロおぉ!?」
そして叩きつけようとした動きは、しかし、向けた相手によって
押し返されていた。力ではなく技により、振りぬく威力を倍加され
て。
あまりに過剰な勢いはバローニオを吹き飛ばすだけでは飽き足ら
ず、そのまま周囲の者たちをも巻き込み打ち払っていた。
「ぐああっ!?」
「テ、テメェ、なにしやがるっ」
「ふざけんな、この!」
「ごおあっ?」
「なんだ、やるかこのヤロウ!」
「上等だっ、表に出やがれ!」
巻きこまれた者たちも、言葉に出来ぬ重圧を抱えこんでいたらし
い。ある者は怒りのまま、ある者は楽しげに、相手を選ばず殴打の
音を響かせ始めていた。
張本人たちも巻きこんで。
振るわれる拳、飛び交う酒瓶、落ちてくる人の身を無造作に避け
かわ
躱しながら、ラディは疲れた息を吐きだしていた。
ことごと
近寄る者の悉くを投げ飛ばし続けるギルへと向けて。
「……あのねギル。大人しくしてろって言ったのはアンタでしょ?
どうすんのよ、この状況」
「い、いや、でもな。あのままだとバローニオの奴、お前になにを
していたか……そもそも、ラディがくだらない挑発しなければこん
なことにはならなかったんじゃないか」
「な、なによそれ。アタシが悪いっていうの?」
「いや、そうは言わないが。いつもならあれぐらい適当にあしらう
だろ。どうしたんだ、今日は」
「それ、は……」
「なにをやっている、貴様ら!」
ラディがギルの過剰な献身と自らの困惑を持て余している間に、
ガード
騒ぎは完全な乱闘の様相を呈し、遂には数人の衛兵士を場に呼びこ
んでいた。
ますますややこしくなる状況に頭を痛める暇もなく、周囲はさら
に盛り上がっていく。
「一体なんの騒ぎだっ。全員大人しく……」
「うるせえっ。三下役人が、すっこんでろ!」
「な、なん……」
「お前らの出る幕じゃねぇんだよっ。命が惜しけりゃ黙ってなっ」
「っ……」
ばせい ガード
向けられた罵声を前に、衛兵士たちは沈黙したじろぐばかりであっ
た。今や十数の暴徒と化した一団を前にしては止むを得まい。後は
応援でも呼ぶのだろう。
これ以上面倒が大きくなる前に消えるべきだと、ラディはギルの
腕を引く。
しりぞ
だが、場から退くより先に、状況が大きく動いていた。
ガード
衛兵士たちの後ろから歩み出てきた、一人の女の挙動によって。
「なにをしている」
「オ、オスカー殿。実は……」
「なんだ、このアマ。偉そうにぃぎ!?」
近寄っていったゴロツキの一人が、言葉が終わる前に横へと弾き
飛ばされていた。女の握った物々しい剣の、硬そうな革鞘に殴られ
て。
進路の上に置かれていたテーブルや椅子はおろか、他数人も巻き
こみ散らし、その衝撃はようやく止まる。
けんか
喧嘩の次元を超えた一撃に、周囲から音が消えていた。
当人の声以外の音が。
やから
「全員動くな。私は貴様らのような輩に対する容赦など持ち合わせ
てはいない」
けいれん
その言葉が真実であることは、殴られた男の痙攣する様が雄弁に
語っていた。凍りついた騒乱の中、誰一人動こうとする者はいない。
ためら
例外はただ一人、場を支配する女だけ。呼吸すら躊躇われる緊張
の中で、ラディはその姿を目で追っていた。
ひ
波打つ髪と鋭い眼は、炎のような熱い緋色。見慣れぬ聖印の刻ま
クルセイド
れた藍色の騎士衣は、三大国の一つアルヴァインのものか。聖騎士
まと
の威風を纏ったその姿は、まさ正に灼熱の剣を思わせた。
たずさ ロング・ソード
腰に携えた長剣に匹敵する、回避不能な重さと共に。
ようぼう
だが、知性と品位を備えた秀麗な容貌は、なにか耐えがたい苦悩
に歪んで見えた。
「私にはこんな下らぬ騒ぎに巻きこまれている暇などないのだ。ふぅ、
レディオスはどこまで私に試練をお与えになられるのか……騒ぎの
元凶は誰だ」
苛立ちの混ざったその声に、周囲の視線が自然と集まっていた。
場の端で立ち尽くしていた、ラディとギルを差し出すように。
「ちょ、ちょっと……」
「貴様らか」
たたず
ラディが文句を並べるより先に、女騎士は目の前に佇んでいた。
まなざ いすく
今にも剣を抜きかねぬ眼差しに射竦められ、思わず息を飲み下す。
みじろ あらが
身動ぎの一つも許ぬという雰囲気は、抗う想いを叩き伏せるのに十
分な威圧を備えていて。
かんぜん ふさ
それでも、男は敢然と、その前に立ち塞がっていた。
「ギ、ギル?」
「なんだ、貴様」
「……ラディには手を出させん。例え相手が誰でもだ」
まなざ
見る者を焼き尽くさんばかりの眼差しを、ギルは臆すことなく受
け止めていた。背に向かおうとする右の手を、震わせその場に止め
ながら。相棒が滅多に見せぬ、戦いに対する緊張の昂ぶりに、ラディ
は直面している状況の厳しさを今更ながらに痛感した。
対する女は表情も変えず、ただ不機嫌さを増しただけであったが。
「言いたいことがあるなら後で聞こう。とりあえず来てもらおうか」
「その必要はないな。奴らが因縁をつけてきて、俺たちはそれを払っ
ただけだ。後はここの連中が騒いだ結果で、他に言うことはない。
終わった騒ぎでこれ以上わずら煩わせるな」
「それを決めるのは貴様ではない。我々だ。大人しく従ってもらお
う」
「知ったことか。ラディ、行くぞ」
「え、あ、うん」
立ち去るギルに引かれるがまま、ラディはその場から足を剥がし
ガード
ていた。進む道は囲む人々の割れた間、衛兵士たちの前を堂々と。
かいわい
日頃の物腰こそ穏やかだが、この界隈でギルの実力を知らぬ者はい
ガード
ない。それは治安のために街を巡回する衛兵士とて例外ではなく、
彼の歩みを止めようとする者はいなかった。
ただ一人、その場の支配者を除いては。
「そうか。ならば仕方ない」
聞こえてきた静かな声に、ギルは瞬時に振り返っていた。ラディ
かば ショート・ソード
の身を引き庇い、背の小剣を一呼吸で抜きながら。
まさ マイト みじん
流れるような様は正に一流の戦士のもので、微塵の隙もない完璧
な動き。
くぐ
だがそれを、女騎士は苦もなく掻い潜っていた。
「なっ……」
「フっ」
ロング・ソード
放たれたのは長剣の、鞘から抜かぬ柄での一撃。それは確かな重
さをもってギルの胸を強く撃ち、歪みを残して弾き飛ばしていた。
投げ出され、重なったままであったテーブルの山が、その勢いを
受け止め爆ぜる。
「ガハっ!」
「ギル!」
「ほう……」
ふる
満ちていた緊張も、女騎士の揮う力も瞬間忘れ、ラディはその場
に駆け寄っていた。苦痛に顔を歪めながら、咳きこみ血を吐くギル
の下に。
「ギル、ギルっ」
「大、丈夫だ。クソ、あの女……」
「っ……」
つぶや
苦悶の呟きに導かれ、ラディは声が示す相手を見る。緊張も恐怖
いかく
も威嚇の圧も、今は全てを忘れていた。
あるのはただ、相棒を傷つけられた純粋な怒りのみ。
憎悪を込めたラディの視線に、しかし女騎士はまるで動じていな
い。語る声はただ淡々と、己の務めを果たすもの。
「あの一撃を防ぐとは中々の腕だが、生憎とこれ以上無駄にする時
ガード
間はない。衛兵士っ」
「は、はい」
「その二人を捕縛しろ。抵抗するようなら少々痛めつけても……」
だが、冷静だったその声が、不意に言葉を切らしていた。
恐らくは、少しずつ質を変えていく周囲を覆う雰囲気に。
「? なん、だ?」
ささい
最初の変化はごく些細な、聞き逃してしまいそうなほど小さな音。
カタカタと響く硬い音は、場に散乱したナイフの震え。
それは次第に力を増し、弾むような勢いへと変わっていく。
「これは……」
「うおわっ、なんだ!?」
「俺の、剣が、震えて……?」
「こっちもだ」
「オ、オスカー殿っ」
「これは一体?」
異変はいつの間にか周囲の者たちにも広がっていた。隠し持たれ
ショート・ソード ガード ロング・ソード
ていた小剣に、衛兵士たちの長剣、さらには包丁や鉈までもが、同
様の震える動きを見せる。
それはつまり、あらゆる刃。
ショート・ソード
ギルの手にある小剣もまた、異様な震えに鳴いていた。
「な、なんだ?」
驚き取り落とされた後も、その変化は変わらない。今や二十を越
える刀剣が、石畳の上で暴れている。
「クソ、なんなんだ一体。ラディ、気をつけ……ラディ?」
だが、周囲のそんな変質も、ラディには興味のないことだった。
今あるのはただ一つ、生まれた怒りを晴らすことだけ。
まなざ
向けられた眼差しを、今は女騎士も受け止めていた。息を飲むほ
きょうがく わず おび
どの驚愕と、ほんの僅かな怯えを見せて。
「この力は、『刃の王』の? では、まさかお前が……?」
「よくも、よくも……」
つぶや
そんな感情も呟きも、ラディの知った事ではない。今はただ激情
おもむ
の赴くまま、その怒りを膨らませるのみ。
「よくも、ギルをっ!」
大きく吠えたラディの言葉で、起きた変異は終わりを告げた。
ことごと
震えていた刃の悉くが、爆ぜ、膨らみ、割れ広がり、獣へとその
姿を変えたことで。
「な……」「なんだ、こいつら……」
「ウルルルルルルル……」
あぎと
顎は連なる刃の牙。覗く瞳は単眼の赤。鋼の肉もつ犬狼の姿が、
風洞めいた唸りを上げている。場の四方八方で、まるで悪夢を映し
たように。
「なあ!?」「う、うああ!」
周囲の理解など待つことなく、それは動きだしていた。見た目に
どうもう
相応しい野犬の気質と、猛犬以上の獰猛さをもって。
しぶき
刃の獣の猛威を前に、人々からは悲鳴と血の飛沫が上がっていた。
知性も理性もない鋼の魔犬は対する相手の別もなく、だた敵にへと
襲いかかる。
それは、ただ一つ変わらずに残された剣を持つ、女騎士へも同様
に。
「グイイイイイ!」「ゴオオオオオオ!」
「チぃっ」
「ギィ!」「ガッ!」
左右から同時に飛び掛ってきた二体の獣を、女は抜いた一刀で斬
り裂いていた。やや幅広の刀身が、自らの力で輝きを散らす。鋼を
両断したにも関わらず、その刃に衰えた様子はない。彼女の備えた
威風も、また。
わず かげ
だが、その表情は僅かな翳りを見せていた。場の周囲は今やすで
に、鋼の群れに覆われている。
「クっ、これは……」
「オ、オスカー殿っ」
「い、一体、どうすれば……」
「落ち着けっ。刃より生まれたとはいえ打ち倒せぬ相手ではない。
まずは武器を調達し、そして……」
おのの
慌て、焦り、慄く女騎士の懸命な様に、ラディは口元に笑みを浮
かべていた。当然の報いと晴れる思いに、少しだけ落ち着きを取り
戻す。
横から聞こえてくる声が、誰のものかを理解する程度には。
「ぐっ、こ、の!」
「ギル?」
ショート・ソード
顔を向けたその先で、転倒したままでいたギルが、自らの小剣に
ショート・ソード モノ
襲われていた。いや、元は小剣であった存在に。全身が刃である魔
犬の爪と牙を、ギルは生身の両腕で防いでいた。防御の技を用いて
も防ぎえぬ威に対し、傷つき鮮血をしたた滴らせながら。
「ギル!」
「っ、逃げろ、ラディ。こいつらっ……」
「なに言ってんのよっ。そんなこと、できるわけないでしょ!」
叫びながら、ラディは一脚の椅子を振り回す。刃獣に命中したそ
れは、勢いのままに四散していた。
痛手を感じた様子はなかったが、気に障りはしたのだろう。刃獣
はギルを襲う動きを止め、ゆっくりとラディへと顔を向けてきた。
ロッド
緊張の唾を飲み込みながら、腰の短竿を引き抜き構える。
「よせ、ラディ。お前の手に負える相手じゃ……」
「うっさいっ。アンタを置いて逃げろっての? 冗談じゃないわ。
見てなさい、こんな奴……」
気勢の声を上げながら、ラディは静かに敵を見た。鋼色の獣の姿、
血のような単眼が見せる破壊の意を、ただまっすぐ睨み返すように。
湧き上がる恐怖の念を、意思の力で封じこめる。
「……こんなワケのわかんないモノに、なんでアタシが振り回され
なきゃなんないのよ。消えなさい、今すぐにっ」
いかく
放つ言葉は威嚇ではなく、自らを鼓舞するためのもの。意思の力
を収束し、強き魔を導くための。ただ討つことだけを想像し、要す
る力を創造する……。
そしてひ弾こうとした術式はしかし、結局意味を失っていた。
の しりぞ
ギルに圧し掛かっていた刃獣が、大人しく退いたことで。
「え……?」
それはまるで、主に従う忠犬のように。
別の誰かへと向かっていくその様を、ラディは呆然と見送ってい
た。なにか、起きている事象の本質に触れた感覚が、胸に鋭い棘を
刺す。
ロッド わず
短竿から離した手は、自然と顔を押さえていた。僅かな痛みと熱
を持つ、なにも変わっていないはずの左眼を。
「……ディ、ラディっ」
「……え?」
わず
呼びかけられていることに気づくまで、恐らくはほんの僅かな間。
胸を打たれた苦悶のまま、両手の傷も気にせずに、ギルは相変わら
ずの心配を向けてくる。
それだけが、ラディの心を支えていた。
「ギル……」
「逃げるなら今しかない。あの女は危険だ……すぐに都を離れよう」
「あ、う、うん……」
「……行くぞ」
強く腕を引かれるがまま、その場から走り遠ざかる。離れていく
喧騒が、実際の距離より遥かに遠く感じられた。
それは奇妙なほどに現実味がなく、全てが宙に浮いているようで。
繋いだ手の温もりだけが、唯一確かなものだった。
そして、残された喧騒の只中では。
「あの女が、『刃の王』の依代か……っ。レディオスに、感謝しな
ければ、な!」
女騎士シェリル=オスカーが神への感謝の言葉と共に、炎の刃を
振るい続けていた。
最終更新:2010年03月17日 02:45