2008.05.06 18:57
野良(--)
――6――
薄い紫煙が漂う部屋の中央で、大鍋がぐつぐつと煮立っている。
緑から黄色、そして紫へと、その中の色を刻々と変えて。時折泡立
ち爆ぜる様から不快な匂いは漂ってこない。どういうわけか、その
事実こそが恐ろしさに拍車をかけているように思えた。
部屋の左は獣の毛に覆われていた。壁一面では広さが足りず、天
井までをも埋めている大熊の毛皮に。両手を広げて固定されている
その姿は今にも襲い掛かってきそうで、一瞬たりとて気を抜くこと
ができずにいる。
右手では吊られた籠の中で、鳥の骨格が騒いでいた。空の頭を振
り回し、悲鳴じみた鳴き声を上げて。その隣では天井からぶら下げ
うごめ
られた人の手に似た乾物が、カサカサと不気味に蠢いている。部屋
ナイト・グラス
を照らす夜光草は今にも消えそうな仄暗さで、いっそ無いほうがマ
シとすら思わせた。
だがそれも、今は気にすることではない。床に描かれた円陣が、
まばゆ
眩いばかりの輝きを放っている今は。
けねん
懸念の元であるラディの左眼を調べるため、二人は新たな街にへ
ウィザード
と足を踏み入れていた。ラディの古き友にして魔導を修めた魔術師
を訪ねるために。
二つの都市を大きく迂回し、数日を費やし辿りついたヨールドラッ
クの街。苦労してして行き着いたのが、この胡散臭い場所なのだっ
た。
ギルは不安な面持ちで、行われている儀式を見守っていた。部屋
の奥、長卓と水晶球を挟み向かい合う二人の挙動を。
いや、どうしても視線は一方に寄ってしまう。じっと座っている
まと
だけのラディより、奇妙な動きを繰り返す黒衣を纏ったその相手に
へと。
「“……、……、……”」
つぶや フード
低い呟きが聞こえるたび、水晶の内が明暗する。帽頭衣越しに見
える眼鏡がその光を返していた。右手に燃やした熱無き炎が、その
表情を束の間照らす。思いのほか幼げな顔に、浮いているのは怪し
げな笑み。それは戦場を駆けていたギルにして、寒気を覚えさせら
れるものだった。
ためら
呼吸の音すら躊躇う儀式もいつかは終わる。小さな呪が絶えたと
うごめ
き、水晶球と円陣から、蠢く光は消えていた。彼女の手に握られて
いた、拳大ほどの結晶も。
そして深く重い沈黙は、すぐに打ち破られていた。
「それで。どうなの、結果は」
けんか
それまで大人しくしていたラディの、半ば喧嘩腰の声で。並みの
ためら
者なら話しかけることすら躊躇わせられる黒衣の魔女を前に、遠慮
はまるで感じられない。
そして応じる方もまた、見た目とはかけ離れた明るい声を返して
いた。
「うーん。よくわかんない」
「ちょっとっ」
「だって、いきなりなんだもん。簡単だと思ったらやたらとおっき
い力が入ってるし、ラディは厚化粧だし」
「うっさいっ。変装よ、変装。そうでなけりゃ誰がこんな古臭い格
好するかっ」
むし
吠えるように答えながら、ラディは長い髪を毟り取っていた。服
もいつもの奇抜なものではなく、コードネル伝統のゆったりとした
装束だ。化粧もその流儀に従って、削れるほどの厚いものになって
くぐ
いる。街に入る審査を掻い潜るためと我慢をしていたのだろうが、
やはり耐えきれなかったらしい。
気持ちはギルもわからないではなかった。自身も異国の僧を装い、
あごひげ
自慢の顎鬚を剃り上げていたからだ。妙に涼しい口元がどうにも落
ち着かない。
「ギルさんはお似合いですよ」
「それは、どうも」
褒める言葉を渡されても、あまり嬉しさは感じなかった。
「なににやついてんのよ。イヤらしい」
「え? お、俺がか?」
「他に誰かいるっての? まぁ見えないのが何人かいたって驚きゃ
しないけど、こんな辛気臭い場所じゃあね」
ずいぶん
随分と荒れているらしい。ラディの不機嫌は対象を定めることす
ら忘れ、その腹いせは辺り構わず向けられつつある。あまり良くな
い兆候にギルは顔を引きつらせたが、メトゥーリは楽しげで怪しげ
な笑みを変えようとはしなかった。
「ふひひひひ。相変わらず仲がいいねぇ」
「うっさいわね。いいからこの眼、なんとかしてよ」
「なんとかって言われてもなー」
アンプ
「あんなデカい触媒まで持ってきてやったのよ。なにもわからなかっ
たわけじゃないでしょ」
「そりゃまぁ、多少はねー」
からかうようなメトゥーリの言い草に、ラディの不機嫌がますま
す募る。このままでは流血か爆発騒ぎになりかねないと、ギルは恐
る恐る言葉を挟んでいた。
「頼むよ、メトゥーリ」
「やだなぁ。メリーって呼んでよ、ギルさん」
「え? いや、でも、な……」
一転しての上機嫌に、しかし簡単には応じられなかった。こちら
まなざ
を見やるラディの眼差しが、射殺さんばかりの鋭さを孕んでいたか
ら。
「ふひひ。まぁいいや。えっとね……」
苦さを増すギルの笑みをどのように受け取ったのか、メトゥーリ
はしばしの思案の後、あっさりと答えを返していた。
「結論から言っちゃうと、その左眼を取り除くのは無理だね。力の
分離はもちろん、切除することもできないなぁ、これは」
「え?」
「な……」
あまりに軽く、希望のない答えを。
「ちょ、どういうことよっ」
は
「どういうこともなにも。それはただ嵌めこまれてるんじゃなくて
ラディと完全に融合してるの。肉体的にだけじゃなくて精神的にも、
もしかしたら魂にまで達する領域で。それは物理的な眼よりももっ
と深くラディと繋がっているんだよ。無理に引き抜いたりしたら一
体どんなことになるか、ふひひ、ちょと楽しみかも」
「そ、そんな……」
よど
澱みない言葉を聞き、ギルはそれが偽りなき事実なのだと理解し
た。心の中に、落ちるような喪失感を覚えながら。
だが、それに浸っている暇などない。ギルが感じるその痛みは、
ラディこそをより深く傷つけているはずなのだから。
案ずる言葉を探すより先に、諦めきれぬ想いを問いかけていた。
「……本当に、方法はないのか?」
「うーん、あくまでここで出来る範囲の解析だからなー。もっとよ
く研究すればそれの本質からなにか見えてくるかもしれないけど」
答えながら、メトゥーリは横の棚から平たい箱を取り出していた。
水晶球の横に置き、鍵を開けて蓋をとる。中には、三本の歪曲した
クリス
短剣が並んでいた。聖と魔の力を分ける、神歪剣と呼ばれる儀礼の
ナイフが。
まなざ
両手でその三本を持ち、ラディを見るメトゥーリの眼差しは、実
ウィザード
に魔術師らしい怪しさに満ちたものだった。
「もっときちんと調べてみる?」
フリック
「っ、お断りよっ。この外道士!」
「お、おい、ラディ」
ばせい
それに忍耐が尽きたのだろう。ラディは罵声と共に座っていた椅
子を蹴り飛ばすと、そのまま部屋を飛び出していた。呼び止める声
も、追いかけようとする動きも置いて。
やれやれと息を吐きながら、ギルは最後に言葉を残す。
「そ、それじゃ、メトゥーリ。ありがとう」
「またねー。あの眼、いらなくなったら頂戴ね。頭ごとでもいいか
らさ」
クリス
返されたのは重ねられた神歪剣の響きと、独特の怪しげな笑い声。
不吉を募らせるその音から一刻も早く遠ざかろうと、ギルはその場
から駆けだしていた。
だが、暗い感情は胸の内にこそ宿っている。それはどれほど速く
駆けても、どこまで行っても逃れられぬ、月のようなしつこさで。
不快な音はいつまでも、ギルの耳に残っていた。
最終更新:2010年03月17日 02:47