2008.05.09 20:18
野良(--)
――12――
「じゃあな。よい旅を」
「ああ、ありがとう」
慎重に、しかし不自然にはならぬように、ギルは酒場を後にした。
ひげ
汚れた頭を乱しに乱し、髭も無様に伸ばした姿で。変装と呼ぶには
つたな
あまりにも拙いものだが、今の状況では止むを得なかった。幸運を
感じずにはいられない。まだ監視の緩い宿場の町とはいえ、こうし
て無事に入りこみ、逃亡に要する品々を手に入れることができたの
だから。
もっとも、それとていつまで続くか知れたものではない。見通し
の暗いこれからの道と、残してきたラディの様子を想いながら、ギ
ルは森へと戻る歩みを早め、
「そんなに急いでどこへ行くつもりだ、ギルバート=モードラ」
すぐに足を止めていた。
背後から聞こえてきた、覚えのある女の声に。
ひそ
抱えていた荷を落ちるに任せ、背に潜めていた剣を手に、間合い
を広げて振り返る。
モルタル
地を踏み固めた田舎道に、膠泥の平屋が左右に並ぶ。静かな街並
まば のどか
に人は疎らで、生みだす光景はどこまでも長閑。
だが、平和を感じさせるその光景も、今のギルにはいかなる戦場
よりも恐ろしい場に見えた。
ひ
いつからつけられていたのだろう。緋色の瞳を細めた表情で、シェ
リル=オスカーはそこに居た。
「お前っ」
「いいのか、抜いても。困るのは貴様の方だろう」
「っ……」
平然と放たれた一言で、剣を引く動きを止められていた。逃亡者
と追跡者、世に対するその立場以上に、思い知らされた力の差に。
ギルは奥歯を強く噛み締めながらも、可能な限りの虚勢を返して
いた。
「……どうして、ここに」
たやす あが
「貴様らの足取りを追うなど容易いこと。無駄な足掻きは止めてお
くことだ」
ロング・ソード わず
答えながら、シェリルは物々しい長剣を垣間見せていた。僅かな
反意も許さぬと、細めた瞳に力を増して。
戦いの鬼気に匹敵する威圧を前に、ギルの体は知らぬ間に硬直し
ていた。それは動こうとする意思をも殺すほどで、気を抜けばその
まま鼓動を止められかねない。
それでも、いや、だからこそ。
ギルは剣を握る右の手に、さらなる力をこめていた。
「貴様……」
「お前に屈するつもりはない。ラディには絶対に近づかせん。討つ
ことは敵わずとも、せめて腕の一本なり……」
緊張を高めていくギルを前にして、シェリルは息を吐いていた。
つの うと
まるで募る苛立ちと、疎ましげな想いを散らそうとでもいうように。
「……その女に関して話したいことがある」
「こちらにはない。俺の口を割ろうとしても無駄なことだ。ラディ
のことは何一つとして」
ゾーン
「魔王に関することだ。彼女をその力から解放するための、な」
「……なに?」
向けられたその言葉に、ギルは一瞬だけ気を取られていた。同時
マイト
に浮かぶ想いは焦り。討つべき相手を前にして、それは戦士にある
まじき行為。
たいじ
だが、対峙の最中にあっては致命的な隙に、攻撃の気配は生まれ
なかった。殺す気であれば四度は斬られていたであろうその時を、
シェリルはただ黙して通す。
語られた内容を信じるに、それはあまりに頼りない心証。日頃な
ささい
ら偶然だと流してしまうような些細な出来事。
わず すが たぐいまれ
だが、ギルはその僅かに縋っていた。シェリルの類稀なる力の程
に、それが故意だと確信して。
それに、なにより。
脳裏に浮かんだ壊れてゆくラディの姿が、小さな望みを欲してい
たから。
「……本当に、できるのか? ラディを、あの呪いから解くこと
がっ?」
「ついてこい」
なお
迷いを了と判断したのだろう。シェリルは尚も気を吐くギルに背
を向けて、後も見ずに歩きだしていた。
語る言葉は他になく、足取りには不安もない。
それは、堂々と見せる背中にも。
まと
真の強者が纏う威風は自然と周囲を沈黙させる。行きかう人々の
喧騒や営みが生む生活の音も、自らが内で響く心臓の音も、今は遠
くにしか聞こえない。
それ以上問うことも、呼び止めることもできぬまま、ギルはシェ
リルの後を追っていった。
最終更新:2010年03月17日 02:55