放課後の教室で、俺は一人で外を見ていた。走り回る運動部、行き交う学生、静かに暮れていく空。
足音が聞こえる。
俺:――しのぶ先輩ですか?
しのぶ:あれ、わかったのね。
俺:何の用です?
振り向く。先輩は頭を掻きながらそこに立っていた。
しのぶ:まっ、用ってほどのものがあるわけじゃないんだけどねー。
俺:マグリフォンさんのことですか?
しのぶ:うん。
しのぶ先輩は素直に肯いた。俺は溜息をついた。
俺:色々すいませんでした、気を使わせて。
しのぶ:えっ、あれっ。気なんて使ってないよ。
俺:でも、計ってくれたでしょ?
しのぶ:あー、よくわかったねー。
放課後、蔵人のやつを隔離したりね。先輩が計ったのはよくわかった。
しのぶ:で、どうなの?
俺:どう――って、そりゃ。
どうなんだろう? 俺にはその問いにすぐ答える術がない。
しのぶ:じゃああたしが変わりに答えてあげようか? 君はあの子が――
俺:――好きですよ。ええ、その通りです。
それは紛れもなく、今まで避けていた本心だった。しのぶ先輩は満面の笑みを浮かべる。
しのぶ:だよねー、大正解。よく素直になれました。
俺:うるさいですね、そんなからかわないでください。
正直、恥ずかしい。言わなきゃよかった。あわてて手を振る。
俺:で、それが何ですか? そんなこと聞きにきたんですか?
しのぶ:つんつんしてるね。でもさっさと言ったほうがいいよ、そういうことは。
俺:――簡単に言いますね。
しのぶ:そりゃあ言うよ。君たちって古い知り合いなんだっけ?
俺:えっと、まあ。大昔ですけどね。
しのぶ:それが十年以上の時を経て今に至るなんて、ロマンチックだねー。
俺:……そんなんじゃないんですけどね。
そう、別に過去なんて関係ないのだ。
しのぶ:まっ、君も運がよかったね。女の子なんて早熟だから、向こうで恋人を作る可能性だってあったわけで。
俺:そんなもんすかね。
しのぶ:そおよ。背丈だって心の中だって、女の子が最初に成長するんだから。男の子が追いつくのは中学生ぐらいになってからでしょ。
俺:うーん……
やっぱり向こうにとって、俺は過去の人に過ぎないのだろうか? 俺はそのことを、素直にしのぶ先輩に聞いてみた。
俺:先輩はどう思います?
しのぶ:どっちとも言えないね。ま、子供の頃はとかく相手の存在が大きく見えるもんだからね、君と会わないうちに、君の印象がどんどん大きくなることだってありえるよ。――でもね。
先輩はにやりと笑った。
しのぶ:そんなこと、本人に聞かないとわからないんだよ。ね?
俺:……そうですね。
その通りだ。
本当に、その通りだった。過去がなんにしろ、現在生きているのはそれだけの年齢を経た俺とマグリフォンさん自身なんだ。――そう割り切れば、簡単な話だった。
俺:その通りです、すいません……なんか、色々と。
しのぶ:まー、いいよいいよ。生徒の円滑な学園生活をサポートするのが生徒会だから。
俺:本当、感謝してます。
しのぶ:そう言われると照れるけどね。……それで、今からやるべきことはわかるね?
俺:はい。
よくわかりますよ、先輩。俺は肯いた。
日がもう落ちそうな校舎を背に、俺は校門まで歩く。そこには――当然のように、いつもと変わらぬ姿のマグリフォンさんがいた。
俺:ごめん、もしかして待ってた?
マグリフォンさんは否定も肯定もせず、ただ踵を返す。
茜:いきましょう。
人通りの少なくなった下校経路を、いつものように俺たちは歩く。しかし、いつもと違って俺のなかで、緊張が少しずつ膨らんでいくのがわかる。落ち着け、と自分で自分を戒めた。
俺:ちょっと公園によっていかない――?
うまくその言葉を言えたのにすら、俺は感謝した。彼女はちらりとこちらを見る。
茜:わかったわ。
そうして、ほんの少しだけ闇がしみこんだ公園の中で、俺たち二人はベンチに座っていた。
会話がしばし途絶える――俺はずっと、自分がそういった話を切り出せるのだろうかと、自問していた。
俺:ねえ、マグリフォンさん?
茜:――なにかしら?
マグリフォンさんの表情は、俺の声を聞いても変わらない。いつもと同じ表情、いつも同じ氷のような瞳。それに萎縮する自分自身を、精一杯鼓舞する。
俺:そっ、その、俺……そう、貴方のことが、どうしても。
茜:どうしても――?
俺:その、
言葉に止まらないでくれと願う俺の心と、止まってくれと願う心が相反し、まぜこぜになり、やがて。
止まらないでくれと願う俺が勝った。
俺:気になるんだ、どうしても。うまくは言えないんだけど……
茜:――――
彼女はまだじっとこちらを見ている。何百年も前から、あるいは十何年も前から、変わらなかったような、そんな表情。
俺:き、君は俺のことをど、どう思う?
――その言葉を聞いて、マグリフォンさんは初めて俺の言葉を聞いたように、さっと視線を外した。その瞳には、先ほどまでになかった小さな苦悩が、渦巻いているように見えた。
茜:私は、貴方のこと――嫌いじゃないわ。だって、貴方は、
俺:昔馴染みだから? ……ってこと?
茜:えっと、それは……
マグリフォンさんの言葉は続かなかった――俺の言葉も。
彼女はまだ、渦巻いた苦悩を追い払えないでいた。そしてまた、俺も。俺はそんな苦悩を追い払おうと、言葉を続ける。
俺:俺さあ、君のことが気になって仕方ないんだよ。――その、好き、なんだ。マグリフォンさんのことが。
茜:私も――貴方のこと――
マグリフォンさんの唇がかすかに動く。しかし、言葉にはならなかった。急に彼女は頭を振りはじめる。
茜:でも、駄目なの。貴方のことは嫌いじゃないわ。でも駄目なの。
俺:駄目って――なにが駄目なんだ?
茜:駄目なのよ!
俺を見据えるマグリフォンさん。彼女の表情には、今までにない激情に似たなにかが、それでも氷のように張り付いている。
茜:私、だって……好きなのよ、貴方のこと。だから、駄目なの。だって――私が。私が、貴方のこと好きだから……
俺には彼女の言わんとすることがよくわからない。
俺:なら、なにが駄目なんだ?
茜:それは、私が――私は、貴方のことを好きになってはいけないから。
マグリフォンさんはなにを言ってるんだろう。
俺がこんなにも彼女のことを好きで、彼女が俺のことを好きならば、どこに問題があるのだろう?
俺:ねえ、なにが駄目――
茜:とにかく、駄目なのよ! お願い、私はもう運命に追いつかれているわ。だから、私の――私のことを好きなんて、言わないで。私が、貴方のことを好きだから……
彼女は支離滅裂なことを言って、立ち上がった。それから、何も言えない俺をじっと、今にも泣きだしそうな顔で見据えて――踵を返す。
茜:――んなさい、べに――
ふいにそんなことを呟いて、彼女は駆けだした。あとには夕闇のなか、俺だけが取り残される。
頭がうまく働かない。彼女にとってなにが駄目で、俺はどうすればいいのか。誰でもいいから、答えが欲しかった。しかし、視線をめぐらしても――どこにも答えなんてない。
俯いて、自分に問う。答えなんて、どこにもないのだろうか?
次に顔を上げたとき、あたりは闇に包まれていた。
彼女は運命に追いつかれたと言った。運命――つまり、彼女にとっての過去。
過去。そう、過去だ。
過去って一体なんだろう?
俺はマグリンフォンさん――マーちゃんとの過去を思いだす。そういえば、俺と彼女とを結ぶ一つのものがあった。
絵本だ。あれはたしか、俺が俺の家から持ち出したものだった。もしかしたら、今でも家にあるかもしれない。
一縷の望みを賭けて、俺は夕食のとき母親にそのことを聞いてみた。意外にも、あっさりと母親はそれを憶えていた。どうも、その絵本は地元の人間がごく少部数だけ発行したもので、思い出の品らしい。――通りで、持ち出したことがばれたとき、怒られた記憶があった。
俺は学校で使うから云々と母に頼み込み、絵本を探してもらうことにした。
それを自室でぼんやりと待っていると、マグリフォンさんとの今日のことがフラッシュバックする。そういえば、彼女は最後に何かを言っていた。
――んなさい、べに――
俺:『ごめんなさい』『紅子』……?
それは彼女の、亡くなった姉妹だ。なぜ紅子さんに謝る必要があるのか。
どうにも、よくわからない。よくわからないまま悶々としていると、自室のドアがノックされた。
母が持ってきたのは、古い絵本。そうそう、マーちゃんと読んだのはこんな絵本だった。
ぱらぱらめくってみる。懐かしさがこみ上げてきた。
だが、その懐かしさは、すぐにある違和感によって押しつぶされた。
俺:これ…………
なんだこれは。絵本を何度も読み返す。俺は自室の天井を見つめた。
それはまるで――――
結論から言うと、俺は五分後突飛な仮説にいきついた。それは、あのしのぶ先輩のお陰でもあった。彼女の話が、俺をその仮説にいきつかせたのだ。
それから、学年名簿を調べて、マグリフォンさんの家に電話をかける。でたのはお手伝いのラールリックさん。
俺は一つ、たった一つだけ質問をした。
それによって、俺の仮説はさらに補強された。
俺は絵本をぱたりと閉じる。そして目を瞑った。
すぐにあのマーちゃんの夢を見始め、そしてそれも束の間、すぐにそれも消えて朝がきた。まるで現実の速度のように、あまりにも早く、あまりにも脆く。
最終更新:2007年01月25日 02:50