その日、朝から激しい雨が降った。色とりどりの傘が校門に吸い込まれていく光景を、俺は教室の窓からぼんやり見ている。――その日は朝早く起きたのだ。
少しずつ教室は埋まっていき、やがてホームルームが始まった。
――彼女に変わりはない。いつものような表情、いつものような立ち振る舞い。
まるで昨日のことが夢だったように。
あるいは、そもそも全てが夢だったように。
放課後になった。
俺はまだ迷う自分と、促す自分が、ごた混ぜになって存在しているのことを自覚していた。
――少しだけ、ほんの少しだけ、そこにいなければいいのに、と思った。
だけど彼女はいつもと変わらず、まるで何百年前からそうしているかのように、そこにいた。
校門から俺たちは無言で歩き始める。雨のやんだ空の色はどんどん赤みを増して、落日はどこかしら哀しみを帯びているようにも見える。
俺:その、
俺が声をかけると、彼女はこちらを見る。
俺:ちょっと話があるんだ、昨日いった公園まで……
茜:わかったわ。
十分後、俺たちは人通りのない公園で、対峙していた。
彼女はじっとこちらを見ている。完成された、完璧に変化のない、完全な表情。完全なんてくそくらえだと、俺のなかの俺が叫んだ。――うるさい黙れと、俺は自分を胸中で叱りつける。
俺:話ってのはさ、ごめん、先に謝っとくけど――とにかく、これを見てくれないかな。
そう言って、鞄から一冊の絵本を取り出した。昨日、母が探してきた絵本。十何年前、マーちゃんと読んだ絵本。そう言えばいつも、これを読むのはこんな落日の下だった気がする。
茜:あの時の、絵本?
俺:うん。ちょっと口にださずに読んでくれないか。
彼女は俺の手からそれを受け取ると、ぱらぱらとめくり始めた。じきに、彼女の瞳がほんの少しだけ困惑を写す。
俺:俺の言いたいこと――わかる?
茜:……わからないわ。
俺:その絵本のなかにでてくるのは、『犬を恋人に見せる少年』、『ブランコを高く漕ごうとする少年』、『絵本のキスシーンを真似ようとする少年』――つまり、俺に君が――
話した過去そのものなんだ、と言葉にだす前に、彼女はゆっくり肯いた。
俺:どういったことだか俺にもよくわからない。でも、俺には君の言ったことが現実にあった話だと、どうしても考えづらいんだ――俺にはそんな憶え、なかったから。
俺はこの話を続けるべきなのかと、激しい自問自答を繰り返していた。しかし止まろうとしない言葉を、冷静な別の俺がじっと傍観している。
俺:それで、昨日電話で君の家のお手伝いさんに確認してみて、確証が持てた。つまり……茜さん、君は俺の考えていたマーちゃんではない。マーちゃんは、紅子さんは――君の妹は、既に死んでるんだ。
茜さんに変化はない。
否定をしてくれれば、
肯定をしてくれれば、
この話は終わるのに、俺の言葉は止まることができない。
俺:あの頃の子供っていうのは、女の子のほうが早く成長するものだ。俺と君は――子供の目には背の高く見えた君は、実は同じ年齢だった。君は昔から頭がよかった、俺や紅子さんの知らない漢字も、知っていたんだから。……君はマーちゃんじゃない。
否定してくれ、と俺のなかで俺が叫んだ。しかし、茜さんはゆっくりと肯いた。
茜:そう、よ。その通り……紅子は、妹は――死んだわ。私のせいで。
俺:君のせい――?
完成された、完璧に変化のない、完全な表情のまま、茜さんは続ける。
茜:そうよ。紅子が病気で死んだのは知っている? あの子は、向こうにいってすぐに、風土病にかかって寝たきりになったわ。――私が、向こうへいきたいといったのよ。あの子はいきたくなかった様子だったのに。
茜さんは自分の胸を両手で押さえた。俯いて、まるで他人の言葉を翻訳するように、淡々と続ける。
茜:紅子は病床でよく、私に遊佐君のことを話したわ。とても楽しそうに、名残惜しそうに。今度あったときにキスの約束をしたり、ブランコで高く漕ぐのをとめられたり、犬を見せてくれたり――あれは紅子にとっては現実だったのよ。あの子の短い人生で、一番楽しかった現実なの。
俯いた茜さんの身体は小さく震えている。震えを止めるためなのか、彼女は自分の身体を掻き抱いていた。
茜:紅子は死んだわ――最後まで遊佐君のことを話しながら。そして私には空洞ができたの。……そう、あの子がいてこそ私は完全だった。あの子のいない私のなかの空洞は、あまりにも広かった。だから、私は欠落を埋めることによって、紅子のいない空洞を埋めるしかなかった。そうしなければ、私のせいで死んだ紅子が……紅子が――
ふいに、あまりのも唐突に、茜さんの瞳のなかで凍りが溶けて、涙が目を押さえる彼女の指の隙間から、流れだした。
茜:私、だから――この国に、か、帰ってきたの。それでこの学校に転校した時、貴方がいたのを見たとき……運命に追いつかれたのを感じたわ。か、過去が、私の罪という過去が、わ、私に追いついてきたのよ――紅子が、私に! 追いついて、肩を掴んで、自分を忘れるなと、言ったの……言ったのよ……だ、だから、紅子の変わりに、私が貴方と――でも、私には紅子とは別に、貴方が……
もう、言葉はなかった。茜さんは止まらない嗚咽のために、その場で震えていた。その姿は彼女の不完全さをあざ笑うかのように、ひどく頼りなく、ひどく小さかった。
俺は自分の足に、腕に、身体に、少しだけ、しばしの時間だけでも動いてくれと、必死に祈った。
茜さんに近づき、その身体に腕を回し、抱きしめる。震えを止めるように、強く強く。俺の胸のなかで、彼女は何度もごめんなさいと繰り返している。
俺:大丈夫、もう大丈夫だよ。
君の不完全さも、君の完全さも、俺にとっては大した問題じゃない。君の過去も、君の運命も、なにもかも。
茜さんは俺の腕で小さく肯く。
俺:だってさ、俺、君のこと好きだからさ。君の欠落だって、君の罪だって、なんだって――こうして抱きしめることができる。
茜:わ、私も――遊佐君のこと、好き――
俺:なら、それでいいじゃないか……だって、ここにいるのは君自身で、俺自身なんだから。
抱きしめる力を強くした。――やがて、彼女の嗚咽も止まる。
俺はずっと茜さんを離さなかった。いま彼女をこの現実に、ずっと永遠に、繋ぎとめるように。
茜色の世界のなかで、俺と茜さんは静かに立っていた。
たしかに、いまここに。
最終更新:2007年01月30日 07:28