なぁ洲彬。
 父さんはなぁ、大した人間じゃないけど……
 目の前の事実から逃げだすことだけはしなかったぞ。
 ハッハッハ。そりゃ逃げ出したいと思ったことは何度もあるけどな。
 ハッハッハ! ごめんな洲彬。こういう湿っぽい話は好きじゃないよなー。
よーしパパ大盛り頼んじゃうぞー!
 洲彬も大盛りがいいのか? いいぞ、じゃんっじゃん頼みなさい。
 ハッハッハッハ……



 拝啓、父上様。

 ごめんなさい。
あなたの息子は今、目の前の事実から逃げ出そうとしています。



遊佐「だってよぉ……正直無理だぜ」
 つぶやいて、俺は小石を投げた。
 ボス、ボスと柔らかい緑の絨毯に当たって飛びはねたりするが、それでも万有引力の法則にしたがって斜面を転がり落ちていく。
 その様を見つめていたが、やがて茂みに突っ込み、見えなくなってしまったところで俺は大きくふんぞり返った。
遊佐「はぁ……」
 頭上に青々と萌える木々の若葉が、俺の深いため息をあざ笑うかのように、ざわざわと音を立てる。
 学校の駐輪場のさらに奥に、広大な森林が広がっていた。
 生徒たちからロンフォールと呼ばれているらしいその森林が持つ優しい空気は、何だか俺の心をとても落ち着かせた。
 中庭の奥にあるボヤーダとは違い光に満ち溢れた樹林。
暗くうっそうとした感じはしない。
 帰省本能というか、まるで古巣に戻ってきたみたいな心地よさを感じさせた。
遊佐「なにやってんだよ、俺」
 正直、ビビッた。
 バリスタでの、あいつらの勝利に対する執着心。
 そしてありえない運動量と身体能力。
 肉弾戦でかなわなくても、その分は頭で補えると思っていた。
 けど……甘かったかもしれない。
遊佐「はぁ……だからって逃げるなよな。俺……」
???「……情けない、それでも男?」
 突然の声に、俺は飛び上がる。
遊佐「だ、誰だ」
 膝を抱えるように鎮座していた俺は、立っているとも座っているとも言いがたい微妙な中腰のまま辺りを見回した。
???「ここはよく鳥恩がウサギを狩りに来る場所。サボリには向いてないわ」
 視界の向こう。
 木の幹から顔を出したひとりの少女。
 切りそろえられた漆黒の髪。
ナイフのような目つき。
 まるで近づく者すべてをそのナイフで切りつけてしまいそうな……
そんな雰囲気を持っていた。
遊佐「杏……か?」
 俺は予想外の人物にやや驚く。
遊佐「珍しいな。杏の方から話しかけてくるなんて」
 すると、彼女はきょとんとした目で俺を見てくる。
杏「何を言ってるの。同じ穴のむじなを見つけたから声をかけたまでよ」
 わずかに口をあけて嘲笑する杏。
遊佐「……杏も、サボリなのか?」
杏「そんなところ」
 一拍おき、彼女は俺のとなりに腰を下ろした。
 ……なんだ。今日の杏は。
いつもはもっとこう、ギザギザハートの不良少女って感じなのに、なんだか今日は妙に丸くなってる気がする。
杏「で、」
 そんなことを考えていると、杏が突然口を開く。
杏「逃げてきたのね? バリスタから」
 唐突だった。
宣告なしでその言葉がギロチンの刃となって振り下ろされる。
遊佐「あ、いや……」
 空気が重くなった気がした。
 言いづらい。けど言い逃れはできなかった。
遊佐「……ごめん。逃げた」
杏「なんで謝るのよ」
遊佐「何となく。誰かに謝りたい気分なんだよ」
杏「そう」
 それっきり、会話が途切れてしまった。
 風が俺をはやし立てる。
若葉がざわざわと俺をせかす。
 何か話せよ、と。
杏「謝りたいのね」
遊佐「え?」
 沈黙を破ったのは杏の方だった。
杏「謝りたいなら、謝った方がいいわ」
 一瞬、地面についている彼女の指が、大地をぎゅっと握り締めるのを見た。
杏「手遅れになる前に。取り返しがつかなくなる前に」
そう告げる彼女の口調はまるで青い炎のようだった。
クールに見えるが、その実真っ赤な炎よりも熱い感情がこめられている。
杏「世の中には、謝っても許されない罪がある」
杏「けど、謝りさえすれば許される罪もまた存在するのよ」
 悲しみの色が、彼女の瞳に宿る。
 だが、その色はまるで灰色だった。
 きれいな悲しみの色ではない。
 黒なら黒。白なら白。
 ひとつの感情……悲しみだけならばそんな中途半端な灰色なんかにはならない。
 その悲しみに、複雑に混ざりあう別の感情……
そう。怒りの色もまたうかがえた。
悲しみと怒りとは、相反するようでいて実はそっくりな感情。
 だとしたら、彼女にとってのその怒りとは一体何なのか。
 ……今の時点ではわからない、のかもしれないな。
杏「……何やってるの」
遊佐「何って、なんだよ」
杏「はやく。バリスタ、始まっちゃうわよ」
遊佐「お、おい!」
 杏が立ち上がったかと思うと、いつの間にか手を握られていた俺も一緒に立ち上がる羽目になってしまった。
杏「……はっきりしない奴ね。いくの。いかないの。どっち」
遊佐「……ああ。わかったよ。いくって」
 杏ってこんなにポジティブなやつだっけ。
 ……って今のは彼女に対して失礼か。
遊佐「お前、ここにサボリに着たんじゃなかったのかよ」
杏「そうよ。でも気が変わった。悪い?」
 いつの間にか、ほんのちょっとだけ丸みをおびていた杏の口調はもう、もとのナイフに戻っていた。
 何だ、もう少し丸い杏を堪能していたかったのに。
杏「……」
 そう思っていると、まるでリクエストにお答えするように杏が静かに笑った。
杏「あんたの顔に悲しみは似合わない。暗黒の業を背負うにはまだ早すぎる」
遊佐「なんだって?」
杏「何でもないわ」
 俺たち以外に誰もいない森で、たったふたりの人間同士が手をつないで森を駆け抜ける。
 かるく息切れしてきたころ、俺の頭をふっとよぎったことがある。
 そういえば彼女は、この森は鳥恩先生がウサギを狩りに来るからサボリには向いていないんだ、と言っていた。
 だったら彼女は、何故ここにやってきたのだろう。
 俺がいたから? 俺の姿が、そんなに惨めに見えたのだろうか。
 ……んなわけねーだろうが。うぬぼれんな俺。
 バカな妄想をかき消すように走るペースを上げた。


バリスタ決勝戦。
 二年生VS一年生の試合が、間もなく始まる。
最終更新:2007年02月18日 22:05