●武僧宅

都の家は、門構えこそ普通の一階建ての日本家屋だが、
裏にそこそこ大きめの空手道場を持っている。
空手道場に通っている子供達の掛け声が、奥から聞こえていた。
玄関は開け放たれ、子供達の靴が綺麗に並んでいる。

リューコは呼び鈴を鳴らそうとしていたが、
こういう場合、呼び鈴を鳴らしたとしても聞こえないらしく、
出てこないことを知っていたあたしは、勝手に玄関に入り、
靴を脱ぎそのまま家の中へ入った。

それを見ていたリューコが、「勝手に入ってはまずいのではないか?」と言って来たが、
あたしは何も言わずズカズカと廊下を奥へ進んでいく。
リューコは恐る恐る後に続いて中に入り、小さな声で失礼しますと言っていた。
リューコがおどおどしている姿を眺めるのも、なかなか楽しいものだ。

けど、足りない。リューコだけじゃ足りない。
からかう相手はリューコと都の二人じゃなきゃダメだ。
今日一日で全てが元通りになるとは思っていないけれど、
何もしないで待っていても、恐らく都は元には戻らない。
少し強引でも、力ずくでも、いつもの生活に戻したい。


道場へ行く前に、居ないだろうなと思っていたが、
いつもの都の定位置であるリビングを覗いてみた。
普段なら、TVを見たり漫画を見たりして笑っている都がそこに居て、
あたしに気付くと笑い涙を浮かべながら「いらっしゃい、しぃちゃん!」とか言ってくるのだが、
案の定リビングは静まり返っている。
部屋自体はきっちり整頓されているのだが、所々埃が溜まっているのがうかがえる。
この家の家事は全て都が一人でやっていた。
都の祖父は家事全般はまったくできない人なので、
事実上この家の機能は停止している状態になっている。

【村崎】「都の家族の話は聞いた事が無かったんだが、
     ……その、聞かない方が良い事情だったりするのか?」

掃除がされていない部屋を見て思ったのだろう。
今、この家の生活観は無いに等しい。

【しのぶ】「杞憂する必要は無いよ。
      都の両親は武者修行で、世界中を旅してる。
      どこに居るかは都も知らないけど、
      ちょくちょく絵葉書が届くみたいだから健全みたいだね。
      あたしも小さい頃に、何度かしか会ったことないけど」

【村崎】「武者修行……って」
どんな反応をしたら良いか考えあぐねているのか複雑な顔をしている。


【しのぶ】「ほれ、そこの写真。都に似てる人と男の人が写ってるのあるでしょ?
      あれが、都の父親と母親。
      ああいうのも一緒に送られてくるみたいだね」
あたしは写真立てに収まっている一枚の写真を指差した。
都の両親が満面の笑みでピースサインをし写っている。
後ろには、熊が倒れていた。

【村崎】「……熊相手に無傷なのか?
     なんだか、この親ありてこの娘ありといった感じだな。
     あの子の全てが納得出来そうだ……」
【しのぶ】「でしょ?」

リューコは何かを考えているのか、うんうん云っている。
数分後、結局何も浮かばなかったのか、ため息を漏らした。

【村崎】「とりあえず、都をどうにかしないと、
     この家も機能しないことは把握した。
     我々で何とかせねばな」
【しのぶ】「どこまで出来るかは、分からないけれどね」


道場へ行くはずだったが、リビングで思ったより長居してしまったらしく、
道場から子供達が引き上げてくる音が聞こえてきた。

廊下では先生に或いは友達への、別れの挨拶が飛び交っている。
あたし達はリビングを出るとすぐ、白く長いヒゲを生やした道着姿の老人に出くわした。

【じっちゃん】「おお、しのぶちゃん!来てたのかい?いらっしゃい!」

【しのぶ】「こんにちは、じっちゃん。勝手にあがらせてもらってるよ」
【村崎】「はじめまして、村崎龍子と申します。
     勝手にお邪魔して申し訳ありません」
あたしはいつも通りに、そしてリューコは深々とお辞儀をした。

【じっちゃん】「ああ、君が龍ちゃんかい!?都から良く聞いてるよ!
        な~に、遠慮は要らんさ!勝手にくつろいでいて構わんよ?
        しのぶちゃんなんか、自分の家のようにしてるんだから!」

【しのぶ】「自分ん家にいる時間より、
      こっちに居る時間の方が長かったからね~、昔は。
      今でも、ついただいまって言っちゃいそうになるよ」

じっちゃんは、「いつでもただいまと言ってくれて構わんよ!
そんときゃ、お帰りって返事をするぞい?」と言って笑った。

その後、じっちゃんに都の様子を尋ねてみたが、
暴れなくなっただけで、他は以前と変わりは無いとの事だった。

【じっちゃん】「不甲斐無いが、君らに頼る他ない。
        面倒をかけてすまんのぉ」
じっちゃんまで参っている状態か。
都の周りの人間のバランスが崩壊している気がした。
それだけ、あの子の存在感が大きかったということなんだろう。
あたしもその一人だけど。

【しのぶ】「OK、まあやるだけやってみるよ。
      ちょっと時間は掛かるかもしれないけれど、
      暫くあたし達に任せてよ」
リューコはあたしの言葉に続いて、黙ってしかし力強く頷いた。

じっちゃんが、お茶とお菓子を出すから持って行けと言ったが、
そんな雰囲気にはならないだろうからと断り、バランスブレーカー都の様子を見に行った。



都の部屋は玄関から入って、すぐ右側にある縁側を突き当たった所にある。
二人暮らしの割には家が大きく、毎日の掃除が大変だとよくぼやいていた。
しかし、雨戸こそ開いて風を通しているものの、いつも床板に艶があるのだが、
手入れをする者がいない今、端の方が少し埃や塵で薄っすらコーティングされている。

【しのぶ】「都がだめになるだけで、こんなになっちゃうとはね。
      あの子には恐れ入った」
【村崎】「そこまで酷い状況でもない気がするが、
     普段はそんなに綺麗に手入れがされているのか?」
【しのぶ】「加減を知らないからね。
      普段なら、床が光ってるよ」

リューコは、「ふむ」と一度頷き、そして小声でこそこそと
「お爺様は、掃除はされないのか?」とあたしに耳打ちした。

【しのぶ】「ああ、ダメダメ。やらせたら大変なことになるよ。
      間違いなく都の仕事が増えるね」
【村崎】「人のお爺様にも容赦が無いな、お前は。
     もうちょっと言い方があるだろう」

【じっちゃん】「本当にもうちょっと優しく言ってほしいものじゃ……」
いつの間にか後ろに、じっちゃんが立っていて、
リューコは「うわっ!」と声を上げ驚いた。
話を聞いていたらしく、少しションボリしているじっちゃんが続けて言った。

【じっちゃん】「わしが掃除したら、余計に汚くしてしまうのは分かっておるから、
        何もしないほうがいいと思ってのぉ……。
        せめて、空気の入れ替えくらいはしておるが……。
        都が元気になったときに怒られたく無いからのぉ」

【しのぶ】「何もしなかったら何もしなかったで、怒られそうだけどね」
【じっちゃん】「うぅぅ……」
【村崎】「お前なぁ……」
じっちゃんは肩を落とし手を目に当てて、いつもの泣いた振りをし、
リューコは呆れ顔で腕を組み、あたしを見つめている。
あたしはそれにニヤリと返した。


都の部屋の前に着き、じっちゃんが先に中に入り、
「都。しのぶちゃんと、龍ちゃんが来てくれたぞい」と声をかけた。
しかし、返事どころか反応も無い。

【じっちゃん】「都や、少しは食べないと元気は出ぬぞ?」
座卓に用意されていたお昼ご飯と思われるものを、じっちゃんが片付ける。
都の好物であるプリンすら手付かずのまま。
どんなに機嫌が悪かろうが、体調が悪かろうがプリンなら、即手を付けるはずなのに。
状態の悪さがこんな事で分かるとは、単純で分かりやすくて良いと思う一方、
事の悪さが思ったより深刻な事に気付き、改めて気を締めなおした。

じっちゃんは、「すまんが、後はよろしく」と言い、お昼ご飯を片付けに部屋を後にした。


プリンが残されていた事だけで、なんとなく予想はついていたが、
ベッドの上で正座を崩した状態で座り、手に持っている写真立てをじっと、
というより、ぼーっと見つめていた。
いや、見つめていると言う表現も当てはまらないかもしれない。
焦点が写真に行っている様で行っていない気もする。
意識ここに在らずといった感じだった。

リューコも予想はしていたようだが、どうしたらいいのかわからず、
じっと都を見つめたまま動けないでいる。
あたしも同じだった。
話しかけるのすら怖い。

拒絶とか、それに近い感じがあるのはわかる。
けれど、それは決してあたし達に対してではなく、
だけど、それが何に対してなのかはわからない。

それはつまり、都があたし達を認識していないという事でもある気がする。


【しのぶ】「リューコ。
      正直に言うと、あたしはかなり楽観的だったかもしれない」
【村崎】「……左に同じ」

どうすればいいのか、皆目見当がつかない。
あたしはとりあえず都に近づき、そっと肩に触れてみたが、
都の体は何も反応しない。
リューコも同じように近づき、もう一方の肩に手を置いた。
そして、名前を呼んでみたが、まるで反応がなかった。

薄々感づいてはいた。
あたし達の声は届かないだろうと。

【村崎】「……っ、都!しっかりしろ!私達が分からないのか!?」
【しのぶ】「リューコ!」
【村崎】「都っ!後生だから、呼びかけに応じてくれ!」
【しのぶ】「リューコ!」
【村崎】「くっ…、お願いだ。悲しいのはお前だけじゃないんだ…。
     お前までダメになったら、私達までダメになる…」
【しのぶ】「……」

リューコ、あたし達までダメになるのは都のせいじゃない。
それは、あたし達の心が弱いからで、むしろしっかりしなければいけないのは、
あたし達の方なんだよ。
しかし、涙を流し都にしがみ付いているリューコに、
それを言うのは酷な気がして、言葉に出す事が出来なかった。


じっちゃんの話によると、都は朝起きると、
ベッドに今の姿勢で座りずっと写真を眺めているらしい。
食事も時々ほんの僅かだが口にする事もあるらしく、
都自身このまま餓死して死ぬ気は無いのはわかった。
しかし、それは都自身の意思ではなく、食事中に話しかけても何も反応が無く、
どちらかと言えば本能的に食事を取り、生きようとしているようにもうかがえる。

今日一日の出来事だけ見れば絶望感すら漂っていたが、
本人の意思かどうかはこの際どうでもいいとして、
生きるつもりであることが見えればそれで良いとも思えた。

こんな状態なので、当然お風呂には入っていなくそれなりに汗臭かったので、
じっちゃんにお湯を用意してもらい、体を拭いてあげることにした。
じっちゃんも手伝うとか言い出してきたが、きっぱりと断りあたし達だけで着替えさせた。
本当は、着替えさせている間に少しは抵抗があるかと思ったのだが、
都は何の反応もせず、あたし達にされるがままだった。

リューコは友達を介護する事に、少し抵抗を感じていたようだ。
まあ、それは当然の気持ちなんだろうけれど。
そんな気分を紛らわすため、というわけでもないけど、
都の胸を揉んだりして悪戯していたらリューコが切れた。

【しのぶ】「都がこの事を覚えていたら、いくらでも仕返ししても良いよ。
      だから早く元気になりな」
というと、リューコがあたしの気持ちを汲み取ったのか、怒りを収め都に笑いかけた。

【村崎】「たとえお前が覚えて無くても教えてやる。
     仕返しなら手伝ってやるぞ?」
口にはしなかったが続いて、「だから早く元気になって戻って来い」と、
リューコは都の体を拭くことで伝えている気がした。
言葉では届かなくても、思いは伝わると信じて。

あたしも都の体に悪戯して思いをつたえ……。
【村崎】「だが、人の体で遊ぶな」

ちっ、リューコの癖に鋭いじゃないか。



着替えも終わり部屋を出ると、じっちゃんが障子の前で覗こうとしていたので蹴り飛ばしておいた。
庭に転がるじっちゃんを無視し、都ほどとはいかないが掃除をして帰ることにした。

【じっちゃん】「何から何まですまんのぉ」
【しのぶ】「じっちゃん一人じゃ心配だから、当分の間はあたしが来るよ」
【村崎】「私達で出来ることなら、なんでも協力します」
【しのぶ】「リューコは来なくて良いよ」
【村崎】「むっ、何だその言い方は」
【しのぶ】「インターハイの練習があるでしょ。
      都の事も大事だけど、リューコはまずそっちを優先して欲しいね」
【じっちゃん】「何!そんな大事なことが!
        龍ちゃんはインターハイを優先しておくれ!」
【村崎】「……お役に立てなくて申し訳ありません」
【じっちゃん】「気持ちだけで十分過ぎるぞい。
        都は良い友達を持ったのぉぉぉぉおおお!!!!」
じっちゃんが大声で泣き始めたので、さっさと退散することにしよう。

【じっちゃん】「ああ、しのぶちゃん。ちょいとお待ち」
帰ろうとするあたし達を引き止めると、じっちゃんは花束を抱えてきた。
菊の花以外にも、色とりどりだが落ち着いた色合いの花が包まれていて、
それをあたしに預けた。

【しのぶ】「舞のところに持って行けって事ね。
      引き受けたよ」
【じっちゃん】「もしかしたら、花を換えたばかりかも知れぬが、
        庭に咲いておって綺麗じゃったでのぉ。
        それは都が育てていた花じゃ」
【しのぶ】「わかった、それも伝えておく」
【じっちゃん】「いや、それはしのぶちゃんの所に咲いておった事にしておくれ。
        もしかしたら都のことを……」
【しのぶ】「あの子に限ってそれは無いと思うけど、一応了解したよ」

あたし達は都の家を後にした。

【しのぶ】「リューコはどうする?
      あたしはこのまま舞の所に行くつもりだけれど」
【村崎】「ん……、すまぬが私は一度学校へ戻らねばならん。
     午後の練習もしっかりやっておかないと、
     舞の期待に答えられないからな」
【しのぶ】「うん、良い答えだね。
      リューコはリューコにしか出来ないことをやって。
      あたしはあたしにしか出来ないことを探す」

そしてあたし達はその場で別れた。

じりじりと肌を焼く音と、短い命を全力で疾走する蝉達の鳴き声が響き渡る中、
あたしは舞の家に向かった。
最終更新:2008年04月30日 14:39