●武僧宅
都の世話をするようになって、2週間ほどが経っていた。
毎日体を拭いてやり、食事もじっちゃんの代わりに作り、
家の掃除をし、武僧家の生活を支えた。
最初のうちはちゃんと家に帰ったりもしたのだが、
だんだん面倒になり、今では武僧家に泊り込んでいる。
じっちゃんは、そこまでして貰わなくても良いって言ってるけれど、
あたしにとっては非日常的な生活で、幾分新鮮さを感じていたのだろう、
これはこれで少し楽しいと思っていた。
でもこれは、都に少しずつ回復の兆しが見えているからこそ言える事で、
もしあれから何の変化も無くずっと続きそうであったなら、
あたしはそうは思っていなかったかもしれない。
初めは、食事を口に運んでも時々しか食べてくれなかったけれど、以前よりは大分マシになった。
食事の量は相変わらず少ないが、都が大好きなプリンなら食べてくれる。
2週間前まで、まったく見向きもしなかったのに、これは大きな進歩だろう。
これが、ただ単に時間が彼女を癒しているのか、
或いはあたしが毎日世話をして話し掛けていることが、
彼女に伝わって答えてくれているのかはわからないけれど、
そんな事はどちらでも構わない。
治ってくれさえすればそれで良い。
リューコも毎日、部活の合間に顔を出しに来る。
プリンを食べた事を伝えたら、毎日プリンばっかり買ってきやがる。
大量のプリンを抱えてやってくる姿は、大の大人がプリンを独り占めしている様で滑稽だったが、
リューコなりに都を想っての事だから、何も突っ込まず素直にそれを受け取った。
おかげで武僧家の冷蔵庫はプリンだらけになってしまっているが、
都が元気になったら勝手に食べるだろうし、全快祝いとして保管して置いても問題は無いだろう。
今日も同じようにリューコが来て、じっちゃんを合わせて4人で昼食をとった。
自分の食事をしながら、合間に都の口へ食事を運ぶ。
なるべく食べやすい物、飲み込みやすい物を中心に口へ運び、口が開いた瞬間に放り込む。
後は勝手に顎を動かし食べてくれる。
いつだったか、御新香を食べさせた事があったが、
ボリボリ音を立てながらいつもの格好で座る都の姿があまりにシュール過ぎて、
それからはなるべく硬い物は食べさせていない。
慣れないうちは結構な手間だったが、最近では食べるか食べないかの判断が出来るようになり、
自分の食事もスムーズに行えるようになっていた。
それを見てリューコは、感嘆をもらす。
【村崎】「手際がいいな」
【しのぶ】「まあね。人間、続けていれば自然と慣れるもんだよ」
【じっちゃん】「しのぶちゃんは良い看護師さんになりそうじゃのぉ」
じっちゃんも続けて、あたしの手際に感心する。
褒められて照れたわけじゃないけれど、
【しのぶ】「そんな柄じゃないし、看護師になるつもりも毛頭無いよ」
と一言返して食事を続けた。
食事を終えるとリューコは都に寄り添い、髪に櫛を入れ、
今日の朝練の事や、昨日の出来事などを都に聞かせる。
それがリューコの日課だ。
あたしは、リューコが都を構ってる間に食器の片付けをしに台所へ向かう。
終わって戻ってくるころには、リューコが満足げな顔をして定位置に座って茶を啜っている。
今では日常となってしまった光景一つだ。
ただ、この生活で部分的に垣間見る、いつものように繰り返される光景に、
一抹の不安を感じる事がある。
リューコは都に話し掛けるが、勿論都は何の反応も示さないで、
ずっと虚ろな瞳で写真を見つめているだけ。
それでもリューコは話し掛けるのを止めたりはしない。
この不安がどこから来るものなのか、実はあたし自身よくわかっていない。
都は必ず回復する。
つきっきりで看病をしていれば、それは感じ取る事ができる。
だから、心配はする事は無いはず。
けれど、不安というものは例え蚤程の小さなものであっても、
感じてしまった瞬間に確実に頭に残り、気にしないようにすればするほど意識してしまう。
そして、徐々に大きくなり、
あたし達がやっている事が本当に正しくて、
都にとってプラスになっているかどうか、自信が持てなくなる。
あ”-、もう!
あたしは気分転換をするために縁側から庭に出て、
両腕を上げてググっと伸びをした。
疲れを体の表面に浮き上がらせてから、ゆっくりと両手を下ろしながら二酸化炭素を吐き出すと、
全身が柔らかな脱力感に包まれた。
目を閉じたまま、静かに深呼吸を繰り返す。
夏の正午の太陽がジリジリと冷房で冷えた体を焼くと、
暖められた血液が心まで暖め、不安を少しずつ溶かしていく。
嫌な感じが抜けていくこの感覚が好きで、不安を感じるといつもこうしていた。
【村崎】「しのぶ、疲れているのか?」
振り向くと縁側に、表情を緩めたリューコが座っていた。
あたしは首を横に振り、「どうって事無いよ」と一言だけ返した。
それを聞いて、リューコはフッと笑い「そうか」と優しく答えた。
【村崎】「ならば良い。…………だが、何か心配事でもあるのなら、
相談くらいには乗れると思う。頼りないかもしれないが……」
私が不安を抱えている事に気がついているのか、リューコはあたしを心配そうに見つめる。
リューコに心配させて、部活に支障が出てはいけないから、
なるべく表に出さないようにしていたのに気づかれたか。
【しのぶ】「本当に何でも無いよ。でも、心配事が出来たらそうさせてもらうよ」
リューコはあたしに、にっこりと笑いかけた。
リューコは部活へ、じっちゃんは子供達を指導しに道場へ。
あたしは洗濯物を取り込むために庭に出ていた。
夏の日差しは強く、午前中の早いうちに干しておけば昼過ぎには乾いて取り込める。
ついでに、庭の花壇に水をやったり、庭の掃除もする。
都は休みになると、毎日庭の掃除をしているらしい。
花壇も綺麗に整えられ、今は向日葵やアサガオ、ヒルガオ等の花々や、
家庭菜園を作り、夏野菜がたわわに実っている。
夏の太陽を一杯に浴びた野菜たちは、キラキラと美しく輝き、
その辺のスーパーで売っている野菜とは質が明らかに違って見えるほど、丁寧に育てられている。
おいしそうに熟した野菜を見つけると、毎食の食卓に出してみたりもした。
けれど、最近は少し元気が無いように見えた。
手入れをしている人間があたしだからか、なんとか枯らさないようにするのが精一杯で、
良質の野菜を作るという術を知らない。
【しのぶ】「どうしたもんかねぇ」
あたしは顎に手をあて、うーんと唸った。
【???】「トウモロコシは、下の方に付いた実は採らなあかんねん」
あたしは、ハッとした。
普段よりは力の弱い声だったが、その声の主が一瞬でわかったから。
直ぐに声のした方に振り向くと、そこには都が立っていた。
縁側の真ん中にある柱に寄り掛かり、あたしを見て笑っていた。
【都】「にゃはは……、おはよう。しぃちゃん」
驚いているあたしの顔を見て、気まずそうに都が笑った。
自然とあたしの顔も緩んだ。
【しのぶ】「おはよう。じゃないよ、まったく……」
都が復活した。
まだ日も高く、ジリジリと肌を焼く陽気の午後。
蝉達の声がジリジリと響き渡る。
あたしの中にあった不安は、今もまだ残っている。
最終更新:2008年06月21日 02:01