新-171

 のどの痛みで、目が覚めた。何となく顔がほてっている。
 夜の間に冷えたスリッパに素足を入れると、背中にゾクリと寒気が走った。
 構わず廊下に出て階段を降りようとすると、今度は少しだけ、フラフラすることに気付いた。

「おはよう。あら?せっちゃん。熱でもあるんじゃないの?」
 台所から顔を出したお母さんが、私の顔を見るなりそう言った。
「えっ?せつな、具合悪いの?」
 ラブの手が、私のおでこに伸びる。そして、
「あ!お母さん。せつな、熱があるよ!」
 ラブの驚いたような叫び声が、朝のダイニングに響いた。


   My mother ~ I got a cold and ・・・ ~


 薬を飲んで、二階に上がる。お母さんに言われた通り、大人しくベッドに横になった。
 学校を休まなくてはいけないのが、とても残念。でも、体がだるくて、出かけようという元気は湧いてこない。
「せつな、大丈夫?」
 様子を見に来たラブが、心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫よ。明日までには元気になるから、ラブは学校に行って。」
 無理に笑ってみせると、まだ心配そうな顔をしながらもコクンと頷いて、ラブは部屋を出て行った。なるべく早く帰るからね、と言い残して。
 バタバタと階段を駆け降りる音。行ってきます、というラブの声。玄関のドアがバタンと閉まる音が聞こえて、それっきり、家の中はしーんと静まりかえった。

 閉めたカーテンが、朝の光をはらんで柔らかな輝きを放つ。今日もいい天気のようだ。外の空気はきっと、きんと冷えていることだろう。
 薄明るい部屋の中。住み慣れた・・・そう、いつの間にかすっかり住み慣れた、自分の部屋。それなのに、今日は何だか知らない部屋みたいに思える。
「風邪・・・よね。」
 ぼそりとつぶやいた私の言葉が、部屋の中を所在なく漂っているような、そんな気がした。

 私が生まれ育った、管理国家・ラビリンス。そこでは国民一人一人の健康も、しっかりと管理されていた。
 栄養計算が何より優先された食事。各自の労働量に応じて定められた、運動プログラム。毎日の体の状態もしっかりチェックされていたから、少しでもデータがおかしいと、すぐに薬が処方された。お陰で私は、戦闘でダメージを受けたことはあっても、それ以外の理由で体調を崩したことなど無かった。

 この世界に送られることになった時、この世界の病気についての基礎的な知識は、一応身に付けた。ここでは、自分の健康は自分で管理しなくてはならなかったから。
 だから、風邪の症状についても、ひと通りは知っている。ラブが熱を出して寝込んだのも、そばで見ている。でも。
 知っているのと、なってみるのとでは、やはり全然違う。
 無理をしなければ、そんなに心配しなくていい病気だとわかってはいても、小さな不安が胸の中に巣食って、少しずつ広がり、大袈裟なものに姿を変える。
―――この熱は、本当に寝ていれば下がるのかな。
―――この体のだるさは、ちゃんと無くなるのかな。
―――またラブと一緒に、元気で学校に行けるようになるのかな・・・。
 重い頭をひとつ振って、馬鹿げた考えを追い払おうとした、そのとき。

 トン トン トン・・・。
 階段を上がってくる足音。
 あれ?誰か居たの?と、少し朦朧とする頭で考える。
 部屋のドアがカチャリと開いて、そっと顔をのぞかせたのは・・・。

「お母さん。今日、お仕事じゃなかったの?」
「ううん。今日は一日、家にいる日よ。」
 お母さんがそう言って、部屋に入ってきた。

 ベッドの横に屈みこんだお母さんが、左手で自分のおでこに触れながら、右手を私のおでこに乗せた。冷たい手の感触が気持ちよくて、思わず目を閉じる。が、すぐに違う感触を覚えて、そっと目を開けてみた。
 どきん、と心臓が高鳴る。思いがけず、どアップで目に飛び込んできた、お母さんの瞳。
 お母さんのおでこが、私のおでこに押し当てられている。目だけしか見えないけど、何だかとても真剣な表情・・・。
「あの・・・お、お母さん?」
「やっぱり、熱が少し高いわね。」
 お母さんが顔を離して、私の顔を心配そうに覗き込んだ。が、
「さ、さっき測った時は、38.5℃だったわ。」
 私の少しどぎまぎした声に、その表情が、ふっと柔らかくなった。
「あら。ごめんね、せっちゃん。体温計じゃなくて、つい、自分の体で確かめたくなっちゃうのよね。自分のおでこと比べるのが、一番よくわかるから。びっくりした?」
「・・・ううん。」
 髪をなでつけるようにして頭をなでてくれるお母さんの笑顔に、ちらちらと目をやりながら言う。
 何だかくすぐったくて、そわそわして、まだ胸がドキドキしてる。恥ずかしくてまともにお母さんの顔が見られない。熱のせいじゃなくて、顔が熱い。お母さんに、熱が上がったんじゃないかって心配されるんじゃないかしら・・・。
「じゃあ、今日はゆっくり寝てなさいね。一日寝ていれば、すぐに良くなるわよ。」
 お母さんは、しっかりと肩をくるむように布団をかけ直してくれてから、
「時々覗きに来るけど、何かあったら、いつでも呼ぶのよ?」
 と、私の目を見つめて言った。
「何か、って?」
 思わず、子供みたいにオウム返しで問い返してしまう。
「何でもいいのよ。何かして欲しいことがあるとか、どこか痛いとか苦しいとか、それから・・・そうねぇ。私の顔が、見たくなったとか。」
 うふっ、と悪戯っぽく、お母さんが笑う。つられて私も、少し笑った。
「大丈夫よ、せっちゃん。何も心配しないで、ゆっくりおやすみなさい。」
 もう一度、やさしく頭をなでられる。はい、と素直に目を閉じながら、私は思う。
 お母さん、まるで―――私が、さっきまで馬鹿な想像をしていたってことも、そして・・・私が、生まれて初めて風邪で寝込んだってことも、何もかも、知っているみたい。


 いつの間にか、眠っていたらしい。時計を見ると、もう正午を少し回っていた。
 お母さんがおでこに乗っけてくれた濡れタオルが、まだ冷たい。私が眠っている間に、取り替えてくれたらしい。何だか嬉しいような、申し訳ないような気持ちになる。

 お昼ご飯は、階下に降りて、お母さんと二人で食べた。
 梅干を添えたお粥と、リンゴのすりおろし。風邪のときの定番メニューね、と笑いながら、お母さんは自分も美味しそうに、お粥を食べる。
 ラブに悪いな、と少し思う。何だか私一人で、お母さんを独占してるみたいで。
 普段、お母さんといるときは、いつもラブと一緒。ラブの、楽しくて時々オーバーなお喋りに、私が合いの手を入れたり、お母さんが先を促したり。
 今日は、普段は聞き役の二人だけ。だから食卓は静かだったが、穏やかな光があふれているみたいだった。
 お母さんと、とりとめのないことをポツポツと話す。お母さんの笑顔に、笑顔で応える。食欲が無かったはずなのに、お茶碗一杯のお粥が、ちゃんと喉を通った。
「せっちゃん。替えのパジャマを出しておくから、汗かいたらそのままにしないで、着替えるのよ。それから、水分はどんどん採った方がいいから、部屋にお水、置いておきなさい。」
 食べ終わった食器を台所に運びながら、お母さんが、あれやこれやと心配してくれる。
「それから・・・何かして欲しいこと、ある?せっちゃん。」
 最後にそう訊かれて、私は慌てて首を振った。

 薬を飲んで、再びベッドに入る。天井を見ながら、ほうっとため息が出た。
―――こういうときは、うーんと甘えちゃうの。
 この家に来たばかりの頃、ラブにそう言われたことを思い出す。
 どうやったらいいか、わからない。確か、そう答えたはずだ。でも実際は、この家に来てからずっと、私はみんなに甘えてばかりいる。お母さんや、お父さんや、ラブに。私を仲間に迎え入れ、友達になってくれた、美希やブッキーに。
(「こういうとき」って、いつまでなんだろう・・・。)
 いつか私も、みんなに何かを返せるんだろうか。
 私が貰った、計り知れない愛情や思いやり。そのほんの一部でも、返すことができるんだろうか。



 次に目が覚めたのは、気の早い冬の日差しが、少し陰り始めた時間だった。
 のどの痛みが、ほとんど無くなっている。びっしょりと汗をかいていたので、お母さんに言われた通り、パジャマを替えた。
 濡れたパジャマを持って洗面所に向かうと、丁度お母さんも階段を下りてきて、私を追いかける格好になった。
「ああ、せっちゃん、着替えたのね。良かった、汗かいたんなら、きっと熱も下がってるわ。」
 私の頭が両手で抱え込まれ、もう一度、おでことおでこをコツンと合わせられる。
「うん、大分下がってる。」
 ニッコリと笑うお母さんに、今度は私も、ちゃんと笑みを返せた。
「じゃあ、おやつにいいもの、持って行ってあげるからね。」
 そう言いながら、お母さんは足早に台所に入っていった。

 お母さんが、私のマグカップをお盆に乗せて、部屋まで持ってきてくれたのは、それから少し経ってからのこと。
「熱いから、ゆっくり飲んでね。」
 そう言われてマグカップの中を覗くと、少しとろりとした、泡立った液体が入っている。そっと一口啜ると、甘くてやさしい味が、口の中に広がった。
「美味しい・・・。これ、なあに?お母さん。」
「桃園家の、スペシャルドリンク。」
 お母さんが、得意そうに胸を張る。こういうときのお母さんは、本当に、ラブそっくりだ。
「バナナとココアとミルクをミキサーして、生クリームと一緒に温めて作るの。ラブが小さい頃は、よく作ったわ。風邪のときもだけど、何か嬉しいことがあったときとか、ラブが落ち込んで帰って来たときとか、仕事が忙しくて、何日もお留守番させちゃった後なんかにね。」
 お母さんの目が、少し懐かしそうな光を帯びる。
「これね。元々は、お母さんのお母さん、つまり、おばあちゃんの味を、アレンジしたものなのよ。」
「おばあちゃんの、味?」
 ラブのおばあちゃん。確かラブが生まれる前に、亡くなったときいている。
「そう。お母さんも子供の頃、おばあちゃんによく作ってもらったの。でもその頃は、生クリームは入っていなかったのよ。生クリームを入れたのは、お母さんのオリジナル。」
 そう言って、お母さんはいつものやさしい目で、私の顔を見つめた。
「せっちゃんとラブも、いつか私の味をアレンジして、それぞれの味を作っていくのかもしれないわね。でも、それでも家族の味って、きっとどこか、似てる味なのよね。」

 ふいにこみ上げてきた涙を隠そうとして、私はもう一口、マグカップの中身を口に含んだ。
 おばあちゃんからお母さんへ、そしてお母さんからラブへと、形を変えながら伝わってきた味。その輪の中に、私も入っている。家族・・・という言葉が、やさしい味と共に、心と体に染みわたるような気がする。
 この味・・・おばあちゃんの味が、おばあちゃんが生きているうちに会えなかった、ラブにも伝わっている。そのことが、とても素敵なことに思えた。
 私も伝えられるだろうか。お母さんから教えてもらった、このやさしい味。おばあちゃんから受け継がれた、桃園家の味を。
 そして思う。もしかしたら、私が貰ったものを返す場所は、お父さんやお母さん、その人じゃないのかもしれない。お母さんから貰ったいっぱいの愛情を、この味のように、私が誰かに伝えていければ。そしてその誰かがまた、他の誰かに伝えていけば。お母さんの愛情は、途切れない輪になって、ずっと生き続けるんじゃないか、って。

「さぁ、飲んだらもうひと眠りしなさい。風邪はね、よく寝るのが何よりの薬なのよ。」
 私はマグカップをお盆に返して、またベッドにもぐり込む。そして、
「お母さん、お願いがあるの。」
 気が付いたら、そんなことを口走っていた。
 あたたかい飲み物で、気持ちがほぐれていたのかもしれない。お母さんの話が、嬉しかったからかもしれない。何より一日中お母さんと二人きりで、甘えたい気持ちになっていたのかもしれない。
 普段なら絶対言えないような言葉が、私の口から飛び出した。
「子守唄・・・歌ってほしいの。」

 言ってしまってから慌てる。
 多分、無意識のうちに私の心にあったのは、この間、シフォンが美希に子守唄を歌ってもらっていた光景。
―――私は、シフォンを羨ましいと思っていたの?
 恥ずかしさに、やっぱりいい、と言いかけたとき、
「お安いご用よ、せっちゃん。」
 お母さんの、何だか嬉しそうな声が聞こえた。

 私が真っ赤な顔をしているのに、気付いたのだろう。お母さんが、私の顔が隠れるように、掛け布団を上まで引っ張り上げて、かけ直してくれた。
 掛け布団の上、私の肩のあたりを、軽くトン、トン、と拍子を取るように叩きながら、お母さんが歌い出す。
 普段話す声より少し高い、でも同じようにやさしい、お母さんの歌声。勿論、私の知らない歌。でも、伸びやかで、それでいてひそやかなその声は、耳にすっと入って、全身をぽかぽかと温めてくれるような気がする。
 ・・・もっと聴いていたいのに。
 ・・・ずっと聴いていたいのに。
 ・・・すぐに、私の意識は、あたたかな暗闇をふわふわと彷徨いだして・・・
 やがて、何もわからなくなった。


 ***


 安心しきった、幼い子供のような、せつなの寝顔。
 あゆみは、その寝顔をしばらく眺めてから、お盆を手に、そっと部屋を出た。
(あの分なら、夕食は4人で食べられそうね。)
 もうじき、ラブが帰ってくる。帰ってきたら、せっちゃんの部屋を覗きに行って起こしたりしないように、きつく言っておかなくちゃ。
(さて。今日の献立は、どうしようかしら。)
 あゆみは冷蔵庫の食材を思い浮かべながら、足音を忍ばせて、階段を下りていった。

~終~
最終更新:2011年07月19日 00:14