新-260

―――せっちゃん。
 初めてそう呼ばれた日のことを 私は一生忘れないだろう。
 最初は自分が呼ばれているなんて気付かずに
 ただぽかんと その口元を見ていたっけ。
 やがて じわじわとやってきた嬉しさは
 恥ずかしさまで連れて来て 声の出口をふさいでしまった。
 本当は 「はい」って 笑顔で返事したかったのに。
「・・・そう、呼んでもいい?」
 真っ赤な顔で頷く私の 髪をなでてくれた手。
 あの日から その呼び名で呼ばれるたびに
 胸の中がほんのりと 甘いあたたかさに包まれる。
 そう あの日から ずっと。



   Nickname ~愛を称(とな)える~



「あら、祈里ちゃん。」
 笑顔で迎えてくれたあゆみおばさんの後ろで、ゴトンと大きな音がした。
「ヤダ、ごめんなさい。今、お掃除してたとこだから・・・。」
 そっとおばさんの後ろを覗くと、廊下の真ん中で我が物顔に、掃除機のホースが寝そべっている。
「お忙しい時に、すみません。患者さんから、家庭菜園で出来たお野菜をたくさん頂いたんで、おすそ分けに。」
 そう言いながら、持っていたビニール袋を手渡すと、
「まあ、ありがとう。こんなに頂いちゃっていいの?」
 袋の中を覗き込むおばさんの目が、楽しそうに笑った。
 お料理上手のおばさんのこと。きっと、今日の晩御飯の献立を考えているんだろう。
「それから、あの・・・せつなちゃん、いますか?」
「いるわよ。ちょっと待ってて。」
 おばさんはそう言いながら階段の下まで行くと、
「せっちゃーん、祈里ちゃんよ。」
 と、二階に向かって叫ぶ。
「はーい。」
 元気な声が聞こえたかと思うと、笑顔の彼女が、軽やかに階段を駆け下りてきた。

 上がっていって、と勧めてくれるおばさんに丁寧にお断りを言って、せつなちゃんと二人、玄関を出る。
 今日は動物病院が混み合っていて、帰ったらお手伝いが待っているから。そう言うと、買い物ついでにそこまで送って行くと言って、せつなちゃんがついて来てくれた。
「今日は、ラブちゃんは補習って言ってたよね。」
「そうなの。夏休みなのに学校なんて、大変よね。」
 せつなちゃんが、気の毒そうに眉をひそめる。たぶん、補習って言葉の意味は、よくわかっていないんだろう。
「本、持ってきてくれてありがとう。明日のダンスレッスンのときでも良かったのに。」
「ううん、いいのよ、ついでがあったし。それに、せつなちゃん、続きが早く読みたいんじゃないかと思って。」
「ふふ。ホントのこと言うと、ちょうど上巻、読み終わったところなの。だから、凄く嬉しい。」
 そう言って、本当に楽しげに笑う彼女を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。
「ねぇブッキー。お野菜をたくさん頂いたって、おばさまが言ってたけど?」
「患者さんからの頂き物の、おすそ分け。ナスと、キュウリと、プチトマト。」
「そう、ありがとう。晩御飯が楽しみ。」
 あれ?何だかせつなちゃん、少しホッとしているように見える。
「せつなちゃん。もしかして、嫌いな野菜とか、あるの?」
 わたしの直球の質問に、せつなちゃんの目が、少し・・・いや、かなり、泳いだ。
「え?・・・ううん、そんなことないわ。うん。何でも食べられるわよ。」
 何だか怪しいな、と思ったけど、必死で動揺を隠そうとしている彼女の姿につい笑ってしまって、今日のところは、それ以上追及するのをやめた。

 少し前よりも、また一段と表情が豊かになった。そんなことを口に出して言ったら、きっと色白の頬を赤く染めて、知らない!とそっぽを向いてしまうだろうけど。
 でも、これくらいなら、言っても怒ったりしないかな・・・。
 わたしが口を開こうとしたそのとき、
「ねぇ、ブッキー。前から訊きたいと思っていたんだけど。」
 彼女の方が先に、わたしに質問してきた。

「ブッキーは、どうしてブッキーって呼ばれてるの?」
 思わずせつなちゃんの顔を見つめて、目をパチクリさせてしまった。そんなわたしの表情を、彼女は違う風に受け取ったらしい。
「あ、ううん、山吹って苗字からついたあだ名だ、ってことはわかるの。でも、どうしてブッキーだけ、あだ名で呼ばれているのかな、って。」
「ああ、それはね・・・」
 わたしの頭の中に、小さい頃のわたしたち三人の姿が、鮮やかに浮かび上がった。



「きょうは、おいしゃさんごっこしようよ!」
「うん。わたし、どうぶつさんのおいしゃさんがいい!」
「じゃあ、いのりちゃんが、おいしゃさんのやくね。」
 わたしの部屋に遊びに来た、ラブちゃんと美希ちゃん。二人とも、患者さん代わりのぬいぐるみを抱っこして、ちょこんと並んで座っている。
「こんにちは、いのりせんせい!」
「ラブちゃん、いのりせんせい、じゃ、せんせいらしくないわよ。」
「じゃあ、なんていうの?」
 すました顔の美希ちゃんにたしなめられて、ラブちゃんが口をとがらせる。
「ええっとぉ・・・。いのりちゃんのうちは、やまぶきどうぶつびょういん、だから・・・。そうだ!やまぶきせんせい、ね。」
「ヤマブキセンセイ?」
「そう。そうよね?いのりちゃん。」
 美希ちゃんに尋ねられて、うん!と勢いよく頷くわたし。
 山吹先生。それは、お父さんがいつも患者さんに呼ばれている名前。それがなんだか嬉しくて、得意になって、おもちゃの聴診器をぬいぐるみに当てる。
 大きくなったら、お父さんと同じ、動物病院のお医者さんになりたい。そう思うようになったのは、今考えたら、その頃からだったような気がする。

「やまぶきせんせい、どこがわるいんですか?」
「えっと、このこは、おなかをこわしてるみたいですね。だいじょうぶですよ。おくすりをのめば、すぐになおりますから。」
「ヤ・マ・ブ・キ・セ・ン・セ!このこ、みてくださいなっ!」
「ラブちゃん、おかいものごっこじゃないんだから・・・。」
 そのうち、ラブちゃんが節をつけて言い始める。
―――やぁまぶっきせんせー!
―――やーまぶっきーせんせー!
―――ぶっきーせんせー!と。
「はっはっはっ。ブッキー先生か、こりゃあいいな。」
 いつの間に話を聞いていたのか、お父さんが笑いながら部屋に入って来た。
「あ!ほんもののせんせいだ!せんせい、ブッキーせんせい、おいしゃさんごっこ、すごくじょうずなんだよ!」
 自分のことみたいに得意げなラブちゃんの言葉に、
「そうかい。じゃあ、ブッキー先生には、お父さんのお手伝いしてもらわなくっちゃなぁ。」
 そう言って、お父さんは大きな手で、わたしの頭をなでてくれたのだった・・・。



「へぇ。それで、ブッキーって呼ばれるようになったのね。」
 せつなちゃんに感心したような顔で頷かれて、わたしは何だか恥ずかしくなる。
「なんか、子供っぽいね、こんな話。」
「そんなことないわ。」
 せつなちゃんは、何だか真剣な顔になって、私の顔を見つめる。
「私、みんなちゃんと名前があって、それを呼び合うのも素敵なことだと思うのに、どうしてあだ名が出来るんだろう、って思ってたの。でも、あだ名って、人と人との関係や、思い出から生まれるものなのね。なんだか私、これからブッキーって呼ぶたびに、今の話を思い出すような気がする。」
 そう言って、せつなちゃんはとてもやさしい顔になった。

「せつなちゃんにも、あるんでしょ?」
「え?」
 首をかしげる彼女に、わたしはさっきから言おうと思っていた言葉を、やっと口に出す。
「せつなちゃん、おばさんに、せっちゃん、って呼ばれてるんだね。」
 その時の彼女のはにかんだ笑顔は、本当にきれいで、そして心から嬉しそうで・・・。
 わたしは少しの間、思わずその横顔に見とれてしまったのだった。

「じゃあ、また明日ね。」
 分かれ道に来て、わたしたちは立ち止まる。
 まだ少し赤い頬をしたせつなちゃんが、とびっきりの笑顔で、わたしに手を振った。
「ええ。また明日ね、ブッキー!」

~終~
最終更新:2011年08月12日 01:37