新-569

 わたしは雨が好きだ。ものごころついた時にはもう好きだった。
 どの季節に降るものも好きだったが、中でも、ひと雨ごとに秋が深まり冬が近づくこの季節の雨が一番好きだった。
 雨で思い浮かぶことはたくさんあるけれど、幾度となく思い返してしまう出来事がある。
 あれはそう、こんな風に雨がしとしと降っていた日のこと。まだランドセルを背負っていた頃の……。



 学校の帰り道の途中に、原っぱがある。そこを通り過ぎようとすると、ふいに猫が近寄って来た。
 近所で飼われている子だった。診察にも何度か来たことがあったから、わたしを覚えてくれてたみたい。
 なーお、と小さく鳴いて、わたしの足元に頭を擦り寄せる。首筋を撫でるとごろごろと目を細める。
 あんまり可愛くて、つい夢中になって遊んでしまい、気づいたらだいぶ時間が経っていた。
 ふいに、音もなく降り出した雨が頬を濡らした。
 いけない、帰らなきゃ。わたしは猫ちゃんにさよならして、走り出した。傘を持って来なかったから。
 わたしは雨は好きだけど、濡れるのはごめんだ。いったん風邪を引くと長引く体質もあったから、できれば濡れたくはなかった。
 ランドセルが重くて走るのが辛くなった頃、駄菓子屋の前を通り掛かった。おばあちゃんの許可を得て、しばらく雨宿りさせてもらうことにした。
 夕立ちはだんだん強くなり、本降りになってゆく。

「やみそうもないね。お母さんに電話するかい?あんた、動物病院の子だろ?」
「おばあちゃん、ありがとう」

 駄菓子屋のおばあちゃんとそんなやり取りをしているわたしに、店の外から誰かが話し掛けて来た。

「「いのりちゃん!」」

 幼なじみのらぶちゃんとみきちゃんだ。
 らぶちゃんは桃色の傘に桃色の雨合羽という出で立ち。対象的に、みきちゃんは上から下まで蒼で統一している。
 何故か二人とも、目を丸くしてわたしを見ていた。

「らぶちゃん、みきちゃん、今帰り?」
「そんなわけないでしょ!?」
「そうだよ、どこ行ってたの? 尚子おばさん探してるよ!」
「あ……」

 お母さんがわたしを探している。それを聞いて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「あたし達、尚子おばさんに頼まれたの。ねー? みきちゃん」
「うん、いのりちゃんが帰って来ないから一緒に探してって」

 涙があふれて来る。

「おばあちゃん、どうしよう……」
「しょうがないね、あたしが電話しといてやるから、友達の傘に入れてもらって早く帰んな」
「はい、ありがとう、ごめんなさい」

 店を出ようとするわたしに、二人が傘を差し掛けようとする。

「いのりちゃん、あたしの傘にどうぞ!」
「らぶ、何言ってんの。入るならアタシの傘でしょ」
「えっと……」

 わたしはどちらの傘に入ればいいかわからなくなり、困ってしまった。

「はいはい、じゃあこれでどうだい? これなら皆で入れるだろ。雨合羽のないお嬢ちゃんが真ん中だよ。返すのはいつでもいいからね」

 後ろから大きな傘が差し掛けられた。駄菓子屋のおばあちゃんの黒い傘だった。

「本当にありがとう、おばあちゃん」

 真ん中に傘の柄を持つわたし。右隣りに、閉じた桃色の傘を持ったらぶちゃん。
 左隣りのみきちゃんは、閉じた蒼い傘をバッグを持つように手首に下げている。
 おばあちゃんの傘は少し重かったけれど、おかげで3人仲良く雨の中を帰ることができたんだ。
 ぎゅうぎゅう肩を寄せ合いながらの帰り道は、狭かったのに何故か楽しくてたまらなかった。
 お母さんにもちゃんと謝れたのは、らぶちゃんとみきちゃんが見ていたからかもしれない。

「おばさん許してくれて良かったね、いのりちゃん!」
「うん、ありがとう」
「また明日ね」
「うん、またね」

 わたしのせいで遅くなったふたりを、お父さんが送って行くことになった。

「また明日、学校でねー」

 桃色と蒼色の傘が曲がり角を過ぎて見えなくなるまで、わたしはずーっと手を振り続けていた。



「そんなことがあったの……。だからブッキーは雨が好きなのね」
「やっぱりせつなちゃんもそう思う?」
「ええ、思うわ」

 木陰で本を読んでいて急に夕立に降られたわたしは、雨宿りしながら止むのを待っていた。
 そこを偶然通り掛かったせつなちゃんが、傘のないわたしを見つけて自分の赤い傘に入れてくれ、今こうして並んで歩いている。ちょっとだけ昔の思い出話をしながら。

「小さい頃の三人に、会って見たかったな」

 ぽつり、とせつなちゃんがつぶやいた。
 寂しそうな横顔に何も言えず、わたしは黙ったまま、せつなちゃんの傘の柄を持つ腕に自分のそれを絡め、そっと力を込めた。

――――せつなちゃんのそばには、今のわたし達がいるよ――――

 黙って歩くふたりの頭上では、真っ赤な傘の表面を滑りながら雨が踊る。踊りながら雨は、ぽんぽろろん、と歌い続ける。

 ふいに、せつなちゃんの歩みが止まった。わたしはせつなちゃんの顔を見る。
 せつなちゃんは、わたしを見つめてひとこと、こう言った。

「ありがとう、ブッキー。――――そばにいてくれて」

 わたしはやっぱり何も言えず、かぶりを振る。何も言えないけれど、何も出来ないけれど、わたし達はこうして寄り添える。
 こんな雨の中でも、曇った日でも、晴天の陽光の下でも。戦いのさなかですら。
 だから、今はもう、寂しくないよね……。
 わたしと組む腕に、返事をするように、せつなちゃんがぐっと力を込めた。
 肌寒いはずの11月の夕暮れの中を、ぽかぽかの温もりに包まれながら家路をたどるふたりに、雨は優しい音色を与え続けてくれていた。
最終更新:2011年11月19日 15:12