先を急ぐせつなと、慌てて追いかける祈里。二人はかけ足で目的のマンションへと向う。
そんなに急ぐ必要はないはずだった。強いて言えば直感。言葉にできない胸騒ぎがせつなを駆り立てる。
不意に、せつなの表情が変わる。突然足を止めて、集中するように耳を澄ます。
「どうしたの? せつなちゃん」
「悲鳴が聞こえたわ。ごめんなさい、私は一足先に行くわね」
「えっ? 待って!」
せつなは一言だけ告げると、弾けるような加速で走り出した。
先程とはまるで違う、スプリンターのような全力疾走だ。たちまち引き離されて、姿が小さくなっていく。
祈里には何も聞こえなかったが、せつながそう言うのだから、何かが起きたのは間違いない。
誰の悲鳴かもわからないが、目的地が変わってしまったのだ。とにかく見失わないように、祈里も急いで後を追うことにした。
せつなが駆けつけたのは、事故から数分後のことだった。近くにいた数人の大人が、少女を歩道に連れ戻し、倒れた犬も運んでくれていた。
せつなは少女が自分の知り合いであることを告げ、後のことを引き受けた。
少女に怪我がないことを確認して、犬の容態を見る。診ることはできない。そんな能力はせつなにはなかった。
身体は温かいが、意識はない。素人目にも、かなりの重態であるように思えた。
「ルルがっ、ルルが死んじゃう! わたしのせいなの! わたしが……」
「落ち着いて、もうすぐ動物の怪我に詳しい人が来るから」
「もう着てるよ、わたしが診てみる」
荒い息を吐きながら、祈里が犬の前で膝を付く。
道路に付いた血の跡と、せつなと少女の様子から、何が起きたのかは想像が付いた。
「祈里お姉ちゃんって、お医者様なの?」
「その勉強をしているところよ。大丈夫、任せて」
どこに隠し持っていたのか、祈里は携帯用の消毒液を噴射して、包帯を手際よく巻いていく。
傷口を覆うというよりも、その周囲をキツく縛るような巻き方だった。
「お姉ちゃん、怪我してるところはそこじゃないよ?」
「ここでいいのよ。まずは出血を止めなきゃ」
「そうなの! こんなにいっぱい血が出てる。どうしよう……」
「それは良いことでもあるの。動物に限らず、生き物はね、生きている間しか血は出ないのよ」
つまり、出血している間は助かる可能性がある。安心させることはできないけど、まだ希望はあると伝えた。
「死なないで、ルル。お姉ちゃん、ルルは助かるの?」
「それはわからないけど……。全力を尽くしてみる」
「きっと、助かるわ」
「えっ、ホント?」
「せつなちゃん、どうして?」
「私たちが、死なせないからよ」
せつなは止血を終えたばかりのルルを、しっかりと抱き上げた。
「家に連れて帰りましょう」
「でも、お医者さんに見せないと!」
「今、私の家に、この世界で一番の名医がいるのよ」
「それは言いすぎだと思うけど、腕は確かよ。でも、それならわたしの家に。手術室が必要になるから」
「わかったわ!」
祈里が携帯で正と尚子に連絡を入れる。自分はせつなと一足先に自宅に戻って、オペの準備をするつもりだった。
少女は走りながら、二人のお姉さんたちを不思議そうに見上げる。
十キロを超える体重のルルを、軽々と抱き上げて走るせつな。一目見ただけで容態を見抜き、応急手当までした祈里。
たった三つか四つ、年上なだけのお姉さんたちなのに、なんて頼もしいのだろう……。ただ泣き喚くだけの自分と、どれだけ違うのだろうと。
祈里とせつなと少女は、山吹動物病院の正面入り口を開けて、そのまま手術室に飛び込んだ。
せつなが手術台にルルを降ろし、そこで彼女の役目は終わりだ。
後は祈里の仕事。二人に少し離れているように指示して、自分は暖房を入れてお湯を沸かす。
ピンク色の手術着に着替えて、器具を殺菌消毒する。そこで、正と尚子が到着した。既に、青色とピンク色の手術着に着替えている。
「祈里、よく頑張った。後は任せなさい」
「ううん、わたしも手伝う」
「わかったわ、よく見ていなさいね」
「あのっ! お医者様、どうか、ルルを助けてください」
「ルルちゃんは、今、精一杯頑張っている。私もこれから頑張る。君は、君にできることをやりなさい」
「わたしに、できることありますか?」
「きっと助かるって、信じてあげること。そして、回復を願って祈ることよ」
「おじさま、おばさま、よろしくお願いします」
せつなは、少女の背中を押すように手術室を後にした。
素人の彼女にも、これからの処置に大変な集中力が必要であることを感じ取れたからだ。
正と尚子と祈里は、もう脇目も振らずに手術に専念していた。
正が、麻酔機を使用して全身麻酔をかける。尚子が口から酸素管を挿入、血管に麻酔管を固定する。続いて、メスを入れる箇所の消毒。祈里が滅菌布の上に器具を並べていく。
有窓布をルルにかけて手術を開始する。同時に、心拍、呼吸数、血圧、血中酸素濃度をモニターに繋いで管理する。
タオル鉗子で固定してメスを入れる。その動きは、美しいほどに正確で、そして、速かった。
少女はせつなに手を引かれて、心配そうに、何度も手術室を振り返りながら待合室に向う。
そこには、たくさんの人の姿があった。
ラブと、その両親の、圭太郎とあゆみ。美希と、その母親のレミ。みんな心配して、パーティーを投げ出して来てくれたのだった。
せつなは、そこに居るみんなに経緯と状況を説明していく。
「ルル、大丈夫だよね? 助かるよね?」
少女は落ち着かない様子で、何度も同じことをせつなに尋ねる。ラブも美希も一緒なのだが、現場に居合わせたのはせつなだけだ。
同じ衝撃と悲しみを共有する者として、どうしても、せつなにべったりと甘えてしまう。
始めは頷いたり、微笑みかけたリするだけだったせつなが、やがて口を開く。
「正おじさまと、尚子おばさまが言ったこと、覚えてる?」
「信じて、祈りなさいって。でも、それって、わたしには何もできないってことよね?」
「違うわ! 信じることと祈ることは、そんな意味じゃないの」
「ちがう……意味って?」
「かつて私は、ラブの信じる心で救われた。そして、みんなの祈りは世界を救ったのよ」
「どういうこと? わからないよ、お姉ちゃん」
「信じて、祈ることは、相手を想い、応援することよ。それは本当の力になるわ。それに――――」
「それに?」
「クリスマスってね、特別な日なんですって。神様が見ているらしいの」
「それ……お母さんにも言われたことあるわ。お姉ちゃんは、神様を信じているの?」
「信じたいと、思っているわ」
「わたしも……もう一度信じたい。それでルルが助かるのなら!」
少女は目を閉じて手を合わせる。ルルの傷付いた姿を思い浮かべ、次に元気になった姿を思い描く。
クリスマスには、奇跡が起こるって信じたい。神様は、本当に見ているって信じたい。良い子にしていたら、神様の使いである――――
サンタクロースが、欲しいものを届けてくれるって信じたい。
少女が、今、一番欲しいもの。
それは――――元気になったルルなのだから。
しばらくして、少女は目を開く。
最初に目に飛び込んだのは、同じように目を閉じて祈る、せつなの姿だった。
そして、振り返って目を見開く。
ラブ、美希、圭太郎、あゆみ、レミまでもが、全員目を閉じて、深い祈りを捧げていた。
衝撃を覚える。自分は何を見ていたのだろうと。
ルルの怪我のことで頭がいっぱいで、見舞いに駆けつけてくれたみんなに、お礼すら満足に言ってなかった。
自己紹介だってせつなに任せっきりで、軽く頭を下げただけだった。
初めて顔を合わせる大人も三人いる。自分と知り合わなければ、今頃楽しくパーティーをしていたはずの人たちが、ここに六人も居るのだ。
嬉しくて、申し訳なくて、胸がいっぱいになる。
祈りを終えたみんなに、涙を浮かべながら、一人一人お礼を言った。
「来てくれて、ありがとう。大切なパーティーを台無しにしちゃって、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。そんなの、いつでもやれるじゃない」
「みんなで、笑顔になれるパーティーでなきゃね」
「ちゃんと、ルルちゃんのプレゼントも用意してあるのよ」
「あ~あ、アタシももう少し若かったら、プレゼントもらえるのにな~」
「ママは、若返っても良い子じゃないから、やっぱりもらえないんじゃない?」
「美希ちゃんひどい! そんなこと言う子こそ、悪い子なんだから」
「くすっ、クスクス。お姉ちゃんたち、ありがとう」
少女が始めて笑顔を見せる。その時、一つ目の奇跡が起きた。
部屋の窓から、白い粒がいくつか見えた。
窓を開けて見上げる。始めは、錯覚かと思うほど少なくて。
やがて、はっきりとした姿で夜空を彩っていく。
寒い日にだけ咲くという、氷で創られた天上の花。
とても小さくて、どこまでも繊細で、ただ一つとして同じ形のない、
それは――――神様からの贈り物。
「すごいね。ホワイトクリスマスなんて、いったい何年ぶりだろう?」
「綺麗……。ルルと出会った、クリスマスイブの夜以来よ」
そして起こる、二つ目の奇跡。
正と尚子と祈里が手術室から出てくる。
「お医者様! ルルはっ? ルルはどうなりました?」
「もう心配いらないよ。今は麻酔で眠っているが、しばらくしたら目が覚めるだろう」
「また、走れるくらいにまで回復すると思うけど、一週間は入院が必要ね」
「良かったね」
「うん! ありがとう!!」
手を触れなければ、近くで見ても平気らしい。少女は手術室で眠るルルの様子を伺う。
先程のように倒れているのではなくて、規則正しい呼吸で静かに眠っている。そんな、安らいだ表情に見えた。
少女は、改めて正と尚子にお礼を言う。この人たちもまた、祈里の両親。何もなければ、今頃パーティーを楽しんでいたはずだった。
「私のせいで、せっかくのクリスマスを、パーティーを台無しにしちゃって、ごめんなさい」
「なんの。ルルの命が救えて、君の笑顔も見られたんだ。これ以上素敵なクリスマスなんてないじゃないか」
正は、そう言って優しく微笑む。
初めて、まじまじと正の顔を見つめた少女が、不思議そうな顔で一言つぶやいた。
「サンタクロース……」
近くで見ていて、ようやく聞こえるか聞こえないかの、小さなつぶやきを聞き取った祈里とせつなが吹き出した。
正はサンタクロースに似ている。それは、クリスマスが近づくと必ずネタにされる笑い話だったからだ。
その笑いの意味に気が付いて、みんな一斉に吹き出した。尚子もレミも、あゆみや圭太郎まで。
楽しげな笑い声は、幸せな日常が戻ったことを告げているようで――――
一人だけ笑わなかった少女が、もう一度つぶやいた。
「やっぱり居たんだ。ありがとう、サンタクロースの――――みんな」
ルルは正と尚子が交代で診るからと、一同は桃園家に戻ってパーティーのやり直しをすることになった。
もちろん、少女も一緒に。
その夜は、少女にとって、ルルと出会った晩と同じくらいに、忘れられない大切なクリスマスになった。
「それじゃ、ルルのことお願いします。学校終わってから、毎日寄りますから」
「ちゃんと勉強するのよ?」
「この子は、家まで僕とあゆみとラブとせっちゃんで送っていきます」
「おやすみなさい、みなさん。今日はありがとうございました。メリークリスマス!」
『メリークリスマス!』
家に帰ると、母親が玄関まで迎えに来てくれた。送ってくれた桃園家の人たちに、丁寧にお礼を言って別れる。
少女が用意しておいた夕ご飯は、既に食べ終えていた。
代わりに、クリスマスケーキとシャンパンがテーブルに乗っている。
「お母さん、遅くなってごめんなさい。待っててくれたの?」
「帰ったばかりだし、連絡もあったから平気よ。ケーキを買ってきたの、一口くらいはまだ入るわよね?」
「うんっ!!」
母親は、クリスマスプレゼントを娘に手渡す。早くからサンタクロースの夢を壊して、ごめんなさいと謝った。
「ううん。わたし、わかったの。ちゃんとサンタさんはいるんだって」
「どういうこと?」
「お母さんの中にも、みんなの中にも。わたしや、ルルの中にだってね」
「そうね。サンタクロースは、相手の幸せを願う心の中に居るのかもね」
「心の中にも、よ。お空にだって、きっといると思うの。でも、これからは、わたしがお母さんのサンタさんになってあげる」
そして、少女は用意していた包みを母親に手渡す。貯めていたお小遣いで買った、いくつかの毛糸。見よう見まねで編んだ、へたくそなマフラーだった。
母親は、そのマフラーを握りしめて小刻みに震えだした。そして、娘を強く抱きしめる。
「メリークリスマス、お母さん」
「メリークリスマス、私の小さなサンタさん」
命はみんな繋がっていて。愛することによって、繋がっていって……。
誰もが、誰かのサンタクロース。
世界中に溢れる愛を見守るように、雪はその夜が開けるまで静かに降り続けた。
翌朝の景色を、銀世界に変えるために。
それは、天上からの贈り物。
メリークリスマス。
~~ fin ~~
最終更新:2011年12月23日 00:06