新-925

何度かリンクルンに着信があった。でもラブは出ようとはしなかった。
着信音からせつなからだと分かっているはずなのに。
しばらくすると、今度はメールが来た。そこでようやくラブはリンクルンを手に取る。
画面を見ながら動こうとしないラブ。
その表情からは心の内を窺い見るのは無理だった。

「ラブ…ちゃん…?」

おずおずと声を掛ける。
このタイミングで来たせつなからの連絡が、祈里に無関係だとは思えなかったから。

「ん、せつなからだよ…」
「…うん」

それは分かっている。
でも、内容をこちらから尋ねてみてもいいものなのか。
それが躊躇われた。

「せつな、今日は美希たんのとこに泊まるんだってさ」

美希が、誘ったんだろうか…。
祈里の心臓が僅かにきゅっと締め付けられた。
そして、そんな風に考える自分に少し狼狽えた。

「なに考えたか当ててみようか?」
「…え?」


美希ちゃん、せつなちゃんにわたしとラブちゃんの事話すのかな…?


「そう、考えた。違う?」

今度は傍目にも分かるほど、祈里の体はビクリと震え、顔は青ざめていった。
自分でもほとんど無意識の浅ましい心の動きを悟られてしまった事に対する、恐怖感にも似た気持ち。
また、軽蔑されてしまう。
震え出しそうな体を抑え、俯く。
美希とせつなに謝ろう。
そう決心した舌の根も乾かぬ内に。
反射的に保身に走ろうとしてしまう卑しい心の動き。目眩がしそうなくらい情けなかった。

「そんな死にそうな顔しなくてもいいよ」

ラブは苦笑い、と言うより自嘲するような声と口調でリンクルンをしまう。
どうやら今すぐ返信する気はないらしい。

「あたしも咄嗟にそう思っちゃったんだから…」
「ラブちゃん…」
「やんなっちゃうよね。謝ろうとか言っときながらさ」

あーあ…。
そう、溜め息をつきながらラブは祈里のベッドにごろりと転がる。
美希は秘密にするなら墓場まで持って行け、と言った。
これ以上せつなを傷付けたら許さない、とも。
それならば美希がせつなに不用意な事を言うはずがない。
それなのに、当の自分はどうだ。
電話一つに情けないくらいに狼狽えている。
メールにどんな返信をしたらいいのかすら分からない。

「ブッキー、嘘つくのって難しいね…」
「……ラブちゃん?」
「ちょっと、違うか。嘘は簡単につけちゃう。でも…嘘をつき通すのが難しいのかな」


どうして嘘をついてしまうんだろう。
どうして秘密を抱えてしまうんだろう。
苦しくなってくるのは分かってるのに。
嘘をつくのは簡単。嘘をついた事を謝るのも、そんなに難しい事じゃない。
謝ってしまえば、許してもらえるかも知れない。
もし許してもらえなくても、嘘を抱え続ける苦しさからは解放される。
でも、一度ついた嘘を貫き通すのは難しい。
そして、その嘘の存在その物を隠すのはもっと難しい。
特に、暴かれれば相手も自分も傷を負うような、後ろ暗い秘密なら尚更だ。

もし、さっきの電話に出たとしてもいつも通りに話すのは無理だと思った。
喋り方。声のトーン。会話の間。相づちのタイミング。
きっと、せつなはいつもと違う何かを感じ取ってしまう。
それが何かは分からなくても、せつなに言えない秘密がある事を。
せつななら、もし嘘の存在に気づいてもラブがそれを隠したがっているのなら、
無理に聞き出そうとはしない。
嘘の存在その物を気づかれたくないとラブが思っているのを察したのなら、
黙って茶番だと分かっていても素知らぬ顔で付き合ってくれるだろう。
そして、ラブが秘密を持て余してどうしようもなくなったら、きっとせつなは
自分の方から聞き出してくれる。
ラブを解放する為に。
たとえ、自分が苦しみ傷付く事になろうとも。
そして、それに甘えてしまうだろうラブ自身がありありと想像できた。

ベッドの上でラブは硬く身を縮め、心の中で自分を罵倒する。
自ら毒を煽ったのは自分だ。
こんなに苦しいなんて思わなかった、なんてどれだけ馬鹿げた言いぐさだろう。
苦痛に耐えかねて吐き出した所でいつまで経っても苦しさは残る。
だってその毒が産まれたのは自分の胸の中なのだから。
吐いた毒は喉を焼き、そして周りをも侵す。
それならせめて、吐き出さずに自分の内に留めておくしかないではないか。
たぶん、美希の言っていた、「秘密を墓場まで持って行く」と言うのはそう言う事なのだ。
せつなを守りたい。幸せにしたい。いつも笑顔でいて欲しい。
そして出来れば、いつもその隣にいたい。
望む事はそれだけなのに。
いつもいつも、自分の弱さが邪魔をする。

「ラブちゃんは、せつなちゃんを信じてるんだね…」
「ブッキー…?」
「いつだって、せつなちゃんはラブちゃんの笑顔を守ろうとする…」
「…?」
「ラブちゃんは、それを知ってる。だから…」

だから、ラブちゃんが苦しむ事がせつなちゃんを一番悲しませるって分かってるから…
ラブちゃんは、そんなに自分を責めるんだよね。


祈里は小さな拳を握り締め、くしゃりと顔を歪める。

「ずっと、そうだったよ…。せつなちゃん、ずっと…」
「……ブッキー…?」
「わたしが、せつなちゃんを…どんなに苦しめようとしたって、メチャクチャにしようとしたって…」
「…………」
「考えてるのは、ラブちゃんの事だけ」

ああ、駄目だ。
やっぱり、無理なんだ。
たった一人の相手としてせつなに愛される。それは諦めていた。
だからせめて、ただの友達以外になりたくて。
傷つけても、憎まれても、どれくらいせつなを想っているか、それを分かって欲しくて。
でも結局、やった事は手に入らない玩具を欲しがって駄々を捏ねる子供と同じだった。
それよりもっとタチの悪い、取り返しのつかない愚かしさだった。

それなのに、まだこんな気持ちになる。
やっぱり、まだラブが羨ましい。
ラブは息をするようにせつなとの結び付きの深さを醸し出す。
決して自慢する訳でも、絆をひけらかす訳でもなく。
心の一番の特等席が埋まっている事を。
いつでも真っ先に考えるのがお互いの事なのだと。

「ごめん、ラブちゃん…分かってるよ。馬鹿な事言ってるの…」
「…ブッキー」
「こんな事しでかして、まだ諦められないとか…自分でも最低だと思うよ」
「…………」
「……ごめんなさい。ラブちゃんに言う事じゃないよね」
「ううん。いいよ」
「…ラブちゃん?」
「いいんだ。当たり前だと思うし…」

叶わないと分かっていたって、好きになった気持ちはどこかへ消えるはずはない。
謝ったって、諦めると決めたって、たとえ自分自身がどこかへ消えてしまったとしても。
きっと気持ちはどこかに残る。
諦めたって、好きなものは好き。
結ばれないと分かっていたって好きになってしまった。
相手を苦しめるだけだと知りながら、想いを抑えられなかった。
誰も幸せにはなれないのに、祈里がせつなを愛する事を止められなかった。
そして、せつなが祈里の想いに応えられないのも、せつなの所為ではないのだから。
犯した罪はどれほど悔いても償っても無くなりはしない。
しかし、人が誰かを愛する事は罪ではない。
その相手を愛せない事が罪ではないように。
諦めて想いが冷めるのなら、誰も泣かずに済むのに。
どうして、色も形も匂いも手触りも何も無い、目にも見えない心に体まで支配されてしまうんだろう。

「ねぇ、ラブちゃん。運命の赤い糸って、あるじゃない?」
「…うん…?」
「きっと、繋がってるのはラブちゃんとせつなちゃんみたいな人達なんだろうね」

産まれた世界も、育った環境も何もかも違うのに。女の子同士で、敵として出会ったのに。
どんな立場で、どんな出会い方をしても、必ず恋に落ちてお互いを求めずにはいられない。
何度生まれ変わっても、探し求めずにはいられない、たった一人の相手。


「わたしにも、繋がった人がいるのかな…」
「……どう、なんだろうね」

間の抜けた返答だ、と思いながらもラブは言葉を探しあぐねた。
少し前なら、こんな風に拗れてしまう前になら、迷いも無くこう答えられただろう。

(大丈夫だよ!ブッキーだって絶対に運命の人に会えるよ!)

祈里を励ますつもりで。
祈里にも幸せになって欲しい。
自分とせつなが出会えたように、きっと祈里にも愛し合える相手が現れる。
そう、心から信じて。

でも、今は違う。
祈里が運命の人なんて望んでいないのは分かっているから。

「赤い糸がみんなに結ばれてるのなら、どうして違う人に繋がってるって分かってる人を
好きになったりするんだろうね」
「こんなにたくさん人がいるんだもん。
きっとこんがらがったり、途中で切れたりする事もあるんじゃないかな…」

身も蓋もないラブの言い様に、祈里はクスリと笑う。
恋敵でもあり、裏切った相手でもあるラブが一番自分の気持ちを理解してくれている。
皮肉なようで、理にかなっているようで。
同じ相手を好きになってしまった者同士だからこそ、なんだろうか。
立てた膝に顔を埋めて、ラブに小指を立てて見せる。

「神様が結び忘れちゃった人も、いてもおかしくないよね」
「それは無いんじゃない?神様なんだし」
「でも、人を好きになった事が無いって人もいると思うの」
「……」
「もしそうなら、誰かを好きになれる人はラッキーなのかも」
「ラッキーなのかなぁ。辛い事も多いよね」
「うん。でもやっぱり、出会わなければ良かったとは絶対に思わないでしょ?」
「…そうだね」

どこかにいるかも知れない、祈里の運命の人。
その人に出会ったら、せつなに感じた以上の想いを持つようになるんだろうか。
その人も、自分を愛してくれるんだろうか。
もしそうなら、出会いたくない、と祈里は思った。
誰かを好きになる気持ちは止められない。それを身を持って知ってしまった。
出会えば必ず心惹かれ合い、求め合う。逆らう事の出来ない相手。
そんなのは嫌だ、と思った。
せつな以外に心を動かす自分なんて見たくない。
これ以上の想いがあるなんて受け入れたくなかった。
馬鹿馬鹿しくても、子供じみてても、単なる執着だと言われても、
せつなだけが特別なんだと思いたかった。


「ブッキーが……」
「……?」
「ブッキーが、自分にも、運命の人がいるんだって、思えるようになってくれたら…嬉しいな」
「………」
「せつなを忘れるんじゃなくて、無かった事にするんじゃなくてさ…それでも、誰かを好きになって欲しい」
「ラブちゃん、お人好し過ぎだよ…」
「違うよ。そんなんじゃないよ。分かってるでしょ?」
「………………」
「ごめんね。せつなだけは、駄目なんだ…」


祈里に幸せな恋をして欲しい。
誰かに心から愛されて、喜びを感じて欲しい。
祈里が望む事なら何でも叶えてあげたい。
自分に出来る事なら何でもするし、差し出せるものは何でも差し出す。
せつなへの想いを手放す、それ以外の事なら何でも。

それは本当。祈里が好きだから。
でも同じくらい、自分が楽になりたいから。
祈里に大切な人が出来れば、きっと心から祝福出来る。
この胸に巣食った苦しさから、開放される。
飲み込む事も吐き出す事も出来ない、苦く辛い毒の塊。
それでも祈里が幸せになってくれさえすれば、ただの過去の事に出来ると思うから。
ラブはせつなへの想いを断ち切る事なんて出来ない。
離れる事も、手を放す事も無理。
それを嫌と言うほど思い知らされたから。
自分がそうなら、きっと祈里も似たような思いを抱えている。
そんな祈里に違う幸せを探せなんて言うのは、酷なのだろう。
それでも、ラブは望まずにはいられない。

みんなが、傷をこれ以上広げずに癒していく道があるのではないかと。


そんなラブの気持ちを知ってか知らずか、膝に顔を埋めたまま、泣いているのか笑っているのか
分からない少し震えた声で祈里は囁く。

「やっぱり、お人好しだよ。ラブちゃんは。わたしには謝るなって言う癖に」
「…ごめん」
「だから、駄目だよ。ラブちゃんは謝っちゃ。わたし、知ってるから…」
「…何?」
「ラブちゃん、自分でも言ってたじゃない。わたしの事、好きって…」
「…………」
「ありがとう。嫌いにならないでくれて…。わたしも、ラブちゃんが大好き」

ラブは知っている。
ラブが何を言った所で、その言葉は祈里を切り裂く刃になる。
せつなとラブが並んでいる。
見つめ合い、肩を寄せ合い、同じ方向へ歩んでゆく。
その姿を目にする度、祈里はいつまでも胸を引き絞られる事になる。
四人でいる限りそれはずっと続くのだから。
そしてそれは、祈里自身が望んだ罰なのだから。
祈里の罪を分かっていながら、その裏切りに血を吐くような思いを味わっても、それでも…
ラブは祈里の辛さに思いを馳せてしまうのだろう。
せつなの中に、たった一人しか入れない場所を独占してしまった。
祈里を蹴落としてその場所を手に入れた訳では無い。
きっと、最初から自分が収まるべき場所なんだ、とどれほど言い聞かせても
拭えない罪悪感。
そして、知りたくもなかったほんの少しの優越感。
せつなに出会うまで知らなかった、どんなにかけがえの無い親友でも分かち合えないものがあるのだと言う事。
それほど大切な相手を傷付け汚されたのに、まだ祈里も大切なままだと言う事。

せつなの側にいたい。
ラブと、祈里と親友のままでいたい。
それなら、ずっと痛みを抱えていくしかない。


「ねぇ、ブッキー。あたしも今日泊まっちゃダメ?」
「ここに…?」
「…うん」
「無理しなくてもいいよ」
「無理じゃないよ!…ダメ、かな?」
「うん、駄目」
「……どうして?」

祈里は顔を上げ、真っ直ぐにラブを見つめた。
自分からこんなにしっかりとラブに向き合うのは初めてだった。
真正面から見返してくるラブの真摯な瞳に、ぎゅっと胸が押し潰される。
もう一度、ちゃんと親友に戻りたい。その為に、側にいたい。
多分、ラブなりの決意を込めた言葉なのだろう。
でも、これだけは、はっきり言わなくてはいけないと思った。
ラブのいるべき場所はここではない、と。

「帰って。それで、せつなちゃんを『おかえり』って迎えてあげなきゃ」
「ブッキー……」
「せつなちゃんが帰るのは、ラブちゃんのところでしょう?」

ラブちゃんがいなくてどうするの。
祈里の瞳は涙に潤んでも、逸らされる事はなかった。
せつなが帰るのはラブのところ。
そう、初めてはっきりと言葉にした。
そう口に出す事でけじめを付けようと思った。
もう迷いは無い。
自分がせつなを愛している事は、ラブにもせつなにも何の関係も無い。
ただ、自分一人の想いなのだから。
その想いが幸せなものでも、辛く苦しいものでも、祈里だけが感じていればいい。
せつなはラブに愛され、ラブを愛して幸せになる。
それを近くで見ていればいいのだ。
やっと、前にせつなの言っていた言葉が胸の中にすとんと落ちて来た。
その上で、自分が幸せになれるのかはまだ分からない。
ただ一つ一つ、気付いた事をやっていこう。
こうして、もう一度自分を受け入れようとしてくれるラブに応えたい。
ずっと見返りも求めずに優しさを注いでくれた美希に、心から感謝したい。
身勝手な想いをぶつけて、身も心も傷付けながら、それでも許しと償いの機会を与えてくれたせつな。
彼女が望んでくれるのなら、全身全霊で応えなければならない。
せつなの側で、親友のまま、新たな道を見つける為に。

ラブは視線だけで頷き、立ち上がる。


「…そうだね。そうするよ」

祈里は自分とせつなを運命の赤い糸で結ばれた相手だと言ってくれた。
祈里の覚悟が決まったのなら、もう揺らぐ訳にはいかない。
せつなが帰ってくる。その場所に必ずいなければならない。
これからずっと共にある為に。
せつなだけではなく、祈里も、美希も、みんなが自分の居場所を確かめているのだから。

ラブは微笑んで、祈里の部屋を後にする。
赤い糸の先にいる、愛しい相手を手繰り寄せるために。
祈里がいつか、その小指の先に想いを馳せるようになれる日が来ることを願いながら。




続く
最終更新:2012年02月18日 18:42