新-948

 宿題をしているあたしの横で、せつなは机に頬杖をついて、あたしの手元を見つめている。
 その細くて白い指が、艶やかな黒髪をもてあそび、おくれ毛を耳にかける様を、あたしは横目でチラリと見やる。
「ラブ。下から二行目の計算、それで合ってる?」
 数学の応用問題。計算式を何個か書いて、やっと答えに行き着くかな、と思った矢先、せつなの穏やかな声がかかった。
「え?えーっと・・・。」
 焦って筆算をやり直すあたしの横で、せつなが頬杖を解いて身を乗り出した。
 再びチラリと見やったあたしの目に飛び込んでくる、綺麗に浮き出た鎖骨のライン。
 慌てて目をもう少し上にやれば、前のめりで計算用紙を覗きこむ、長い睫毛・・・。
 途端に計算が合わなくなって、あたしは焦ってゴシゴシと、書きかけの式を消した。
 せつなは身を乗り出したまま、辛抱強く・・・実に辛抱強く、あたしの計算が終わるのを待っている。
「んー・・・。なんか、ちゃんと割り切れた数にならなかったけど・・・。」
 ちっとも自信がないまま計算用紙を見せると、せつなはニコリと笑って、あたしに頷いてみせた。
「そう。落ち着いてやれば、出来るでしょう?じゃあその答えを、次の式に入れて・・・え?ラブ・・・どしたの?」
 もう限界だ。あたしはカランと鉛筆を放り出すと、そのまま机の上に突っ伏した。
「ねぇ、せつな。」
 自分の声が、くぐもって聞こえてくる。
「あたしなんかと居て・・・せつなは、楽しい?」
 ダメだ。こんなこと言ったら、せつなを困らせちゃう。
 そう思うのに、思考はぐるぐる空回りして、口からはどうしようもない言葉ばかりが飛び出していく。
「あたし、せつなから見たら余りにもバカで、幼稚でしょ?」
「・・・。」
「こんなあたしに付き合って、せつなが楽しいわけ、ないよね。」
「・・・。」
「あたし、せつなに我慢なんかさせたくない。なのに、あたしなんかじゃ・・・」
「ラブ。」
 いきなり、あたしの頭が抱え込まれて、机から離された。
 柔らかくて少し冷たい腕の感触を、瞼の上と、首元とに感じる。
「何言ってるの。」
 息がかかるくらい近いのに、驚くほど柔らかく響くアルトの声。
「私は、ラブと過ごすどんな時間だって、どんな一瞬だって、楽しいわ。
 ラブが一緒にいてくれさえすれば、それだけで、何より幸せよ。」
「せつな・・・。」
 せつなが心からそう思っているんだと、あっさりと信じて喜んでしまうあたしは、やっぱり底抜けにバカで幼稚なんだろう。でも・・・。
 柔らかく、でもしっかりとせつなの腕に抱え込まれているうちに、少しずつ、気持ちが落ち着いてきた。
 ゆっくりと右手を上げて、そっとせつなの細い手首を掴む。
「・・・あたし、メチャクチャ恥ずかしいこと言っちゃったね。」
「ふふっ。でも、家族なら恥ずかしいところを見せても、構わないんでしょう?」
 せつなの息が耳を掠めて、少しだけドキドキする。あたしはフッと小さく息を吐いて、ゆっくり、せつなの腕を外した。
(家族、か・・・。)
 家族。親友。仲間。そのどれもが当てはまるけれど、どれも少し違うと感じる、せつなとあたしの関係。
 二人の関係を端的に表現できる言葉なんて、この世にあるとは思えない。
 出会ってからの短い時間が嘘のような、二人の間の、この濃密な関係を。
「・・・最後まで解けたけど、やっぱり割り切れないよ?せつな。」
「いいのよ、これで。割り切れないときのために分数があるんだから、その答えのままでいいの。」
 せつなの解説に、そんなものか、と数学のノートを閉じながら、ふと思う。
(数学じゃなくて現実の世界でも、分数のままにしておいて、いいのかな・・・。)
 割り切れないのなら、割り切れないままに。一言で言い表せないのなら、言い表せないままに。
 ひょっとしたら、それでいいのかもしれない。いや、少なくとも今は、そのままにしておきたい。
 出来の悪い生徒の家庭教師を終えたばかりの、まだ机の上に置かれたせつなの白い指。その指に・・・。
 あたしは、今度は自分から、指を絡めた。

Fin.
最終更新:2012年02月28日 00:46