分厚くて重い扉を何とか開けて、屋敷の中へ滑り込む。
歩き出そうとしても足に力が入らず、その場にずるずると崩れ落ちる。
焦点の定まらない目に映るのは、黒い長手袋に走る白い破れ目。
その隣りにあったはずの、緑色の小さな塊――幸せの素は、つい今しがた踏み壊して、既に無い。
頭の中の淡い煌めきの残像が、すーっと消え失せて――気が付くと、私は闇の中に居た。
息が苦しい。寒い。とてつもなく寒い。
腕が、胸が、重い痛みに悲鳴を上げる。
身体じゅうに冷たい汗が、ねっとりと絡みつく。
闇はどんどん広がって、私はどんどん小さくなる。
このまま私は、消えてしまうのだろう。
このままボロ雑巾のように、捨てられてしまうのだろう。
そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに、もう一人の私が、冷たい胸の中で地団駄を踏む。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。そんなこと、認めるものか。
違う。違う。違う。メビウス様のお役に立って、今度こそ・・・!
そのとき、手の甲に不意にあたたかな感触を覚えて、私はぼんやりと目を開けた。
暗がりにくすんで見える、ピンク色のコスチューム。闇の中でも淡く輝く、金色のツインテール。
力の入らない私の右手を押し頂き、手袋の破れ目に口づけているのは――桃園ラブ。いや、キュアピーチ。
何をしている。離せ!何故お前がこんなところに・・・。
そう言いたいのに、私の口は鉛のように重く閉ざされ、首はガックリと垂れたまま、動くことができない。
ピーチの唇が緩やかに、傷から傷を渡って動いていく。
手の甲から、手首へ。腕へ。肘へ。二の腕へ。
ボロボロの私の身体が、まるで愛おしいものであるかのように、ゆっくりと労わるようなキスを繰り返しながら。
その唇が触れるたびに、傷口から熱が流れ込み、凍てついた血液が溶かされて、音を立てて流れ始める。
ピーチの唇はなおも動く。
今度は脇へ。肩先へ。浮き出た鎖骨の上を通って、胸の裾野から頂きへと。
心臓が、ゆっくりと、そして次第にふいごのようにせわしなく、トクトクと動き始める。
胸の先に生まれた甘美な痛みが、身体の芯に、ちろちろと揺れる小さな火を灯す。
全ての傷口から、光が――熱と疼きを伴った光が注ぎ込まれ、身体じゅうを切なくも力強く駆け巡る。
やがて身体に収まりきれなくなった光のカケラが、瞳からポロリと零れたとき――ピーチはその柔らかな両腕で、私の頭を優しくかき抱いた。
――大丈夫だよ、せつな。
やめろ。その名前で呼ぶのはやめろ!
そう叫びたいのに、まるで喉が塞がれてしまったかのように声は出ず、その代わりに、両目からポロポロと、雫が後から後から零れ落ちて・・・。
まるでそれは、今は無き幸せの素の代わりのように、床の上に滴って、きらり、きらりとわずかな煌めきを見せた。
・・・
「あ~あ、もう笑っちゃうくらい、傷だらけだよぉ。あたしって、やっぱり不器用だなぁ。」
十本の指にもれなく付けられた小さな傷を見ながら、ラブがはぁ~っと溜息をつく。でもその目は、気になっていたことをやっとやり遂げた、充実感に満ちている。
私は、机の上に置かれたウサピョンに目をやってから、ラブの傷口に、薬を塗り始めた。
「まったく。一体どうやったら、こんなところにまで傷ができるわけ?」
「とほほ・・・。痛っ!せつな、優しくしてよぉ。」
そう抗議するラブに、はいはい、と苦笑いしながら、私は一本一本の指に、絆創膏を貼っていく。
最後に残った傷は、左手の小指のほぼ真ん中。桜貝のような小さな爪から、二センチ中に入ったところ。
私は持っていた薬を脇に置くと、少しためらってから、両手でラブの左手を包んだ。
そのままそっと、小さな赤い傷口に口づける。柔らかくてすべすべした指の感触を、唇に感じる。
「・・・せつな?」
すぐには声が出せなかったのだろう。一呼吸置いて、驚いたように小声で問いかけるラブに、私はわざと悪戯っぽく、ニヤリと笑ってみせた。
「おまじない。ラブの傷、早く治りますように、って。」
あのとき、つかの間の夢の中で、あなたが私にしてくれたこと。
冷たく縮こまって、そのまま息絶えても不思議ではなかった私に、あなたが――あなたとの出会いがくれた、最後の光。
だからこそ、私はもう一度立ち上がって、あなたにぶつかっていくことができた。
もしもこの先、あなたが暗闇に閉じ込められたら。凍える寒さに、独り震える時があったら。
そんなときは、今度は私が、あなたに貰ったこの光の全てを、その身体に注ぎ込んであげる。
でも、傷口すらこんなにあたたかいあなたに、そんな日が来るなんて思えなくて――そんな時が、一瞬だって訪れてほしくなくて。
だからこれは、ただのおまじない。私だけの、私だけが知る、密かな誓いの証。
ありがとう、と照れ臭そうに動く、その唇にそっと微笑んで、
私は救急箱の中から、もう一枚、絆創膏を取り出した。
Fin.
最終更新:2012年08月01日 01:12