新2-082

 分厚くて重い扉を何とか開けて、屋敷の中へ滑り込む。
 歩き出そうとしても足に力が入らず、その場にずるずると崩れ落ちる。
 焦点の定まらない目に映るのは、黒い長手袋に走る白い破れ目。
 その隣りにあったはずの、緑色の小さな塊――幸せの素は、つい今しがた踏み壊して、既に無い。
 頭の中の淡い煌めきの残像が、すーっと消え失せて――気が付くと、私は闇の中に居た。

 息が苦しい。寒い。とてつもなく寒い。
 腕が、胸が、重い痛みに悲鳴を上げる。
 身体じゅうに冷たい汗が、ねっとりと絡みつく。

 闇はどんどん広がって、私はどんどん小さくなる。
 このまま私は、消えてしまうのだろう。
 このままボロ雑巾のように、捨てられてしまうのだろう。
 そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに、もう一人の私が、冷たい胸の中で地団駄を踏む。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。そんなこと、認めるものか。
 違う。違う。違う。メビウス様のお役に立って、今度こそ・・・!

 そのとき、手の甲に不意にあたたかな感触を覚えて、私はぼんやりと目を開けた。
 暗がりにくすんで見える、ピンク色のコスチューム。闇の中でも淡く輝く、金色のツインテール。
 力の入らない私の右手を押し頂き、手袋の破れ目に口づけているのは――桃園ラブ。いや、キュアピーチ。

 何をしている。離せ!何故お前がこんなところに・・・。
 そう言いたいのに、私の口は鉛のように重く閉ざされ、首はガックリと垂れたまま、動くことができない。

 ピーチの唇が緩やかに、傷から傷を渡って動いていく。
 手の甲から、手首へ。腕へ。肘へ。二の腕へ。
 ボロボロの私の身体が、まるで愛おしいものであるかのように、ゆっくりと労わるようなキスを繰り返しながら。
 その唇が触れるたびに、傷口から熱が流れ込み、凍てついた血液が溶かされて、音を立てて流れ始める。

 ピーチの唇はなおも動く。
 今度は脇へ。肩先へ。浮き出た鎖骨の上を通って、胸の裾野から頂きへと。
 心臓が、ゆっくりと、そして次第にふいごのようにせわしなく、トクトクと動き始める。
 胸の先に生まれた甘美な痛みが、身体の芯に、ちろちろと揺れる小さな火を灯す。
 全ての傷口から、光が――熱と疼きを伴った光が注ぎ込まれ、身体じゅうを切なくも力強く駆け巡る。
 やがて身体に収まりきれなくなった光のカケラが、瞳からポロリと零れたとき――ピーチはその柔らかな両腕で、私の頭を優しくかき抱いた。

――大丈夫だよ、せつな。

 やめろ。その名前で呼ぶのはやめろ!
 そう叫びたいのに、まるで喉が塞がれてしまったかのように声は出ず、その代わりに、両目からポロポロと、雫が後から後から零れ落ちて・・・。
 まるでそれは、今は無き幸せの素の代わりのように、床の上に滴って、きらり、きらりとわずかな煌めきを見せた。


   ・・・


「あ~あ、もう笑っちゃうくらい、傷だらけだよぉ。あたしって、やっぱり不器用だなぁ。」
 十本の指にもれなく付けられた小さな傷を見ながら、ラブがはぁ~っと溜息をつく。でもその目は、気になっていたことをやっとやり遂げた、充実感に満ちている。
 私は、机の上に置かれたウサピョンに目をやってから、ラブの傷口に、薬を塗り始めた。
「まったく。一体どうやったら、こんなところにまで傷ができるわけ?」
「とほほ・・・。痛っ!せつな、優しくしてよぉ。」
 そう抗議するラブに、はいはい、と苦笑いしながら、私は一本一本の指に、絆創膏を貼っていく。

 最後に残った傷は、左手の小指のほぼ真ん中。桜貝のような小さな爪から、二センチ中に入ったところ。
 私は持っていた薬を脇に置くと、少しためらってから、両手でラブの左手を包んだ。
 そのままそっと、小さな赤い傷口に口づける。柔らかくてすべすべした指の感触を、唇に感じる。

「・・・せつな?」
 すぐには声が出せなかったのだろう。一呼吸置いて、驚いたように小声で問いかけるラブに、私はわざと悪戯っぽく、ニヤリと笑ってみせた。
「おまじない。ラブの傷、早く治りますように、って。」

 あのとき、つかの間の夢の中で、あなたが私にしてくれたこと。
 冷たく縮こまって、そのまま息絶えても不思議ではなかった私に、あなたが――あなたとの出会いがくれた、最後の光。
 だからこそ、私はもう一度立ち上がって、あなたにぶつかっていくことができた。

 もしもこの先、あなたが暗闇に閉じ込められたら。凍える寒さに、独り震える時があったら。
 そんなときは、今度は私が、あなたに貰ったこの光の全てを、その身体に注ぎ込んであげる。
 でも、傷口すらこんなにあたたかいあなたに、そんな日が来るなんて思えなくて――そんな時が、一瞬だって訪れてほしくなくて。
 だからこれは、ただのおまじない。私だけの、私だけが知る、密かな誓いの証。

 ありがとう、と照れ臭そうに動く、その唇にそっと微笑んで、
 私は救急箱の中から、もう一枚、絆創膏を取り出した。

Fin.
最終更新:2012年08月01日 01:12