「くしゅん!」
可愛らしいくしゃみがひとつ聞こえた。祈里は歩みを止めて、隣にいるラブを心配そうに覗き見る。
軽く背を丸めて、両手を顔に当てて目をきつくつむったまま、ラブはしばらく微動だにしない。
「ラブちゃん、だいじょうぶ? 風邪でも引いた?」
「えっ、風邪?」
「だって今くしゃみしてたし、なんだかいつもと違ってボーっとしてる感じだよ?」
「そうなのかな……あ、でも平気だよ。あたし元気が取り柄だから」
「ならいいんだけど……」
「ごめんねブッキー、心配かけて」
そうやって屈託のない笑顔を向けないで欲しい、と祈里は思う。何の疑いもない眼差しで見られると、逆にこちらの方がラブをまともに見られなくなりそうだから。
自ら作り出した思考の渦にはまりそうになっていた祈里だったが、目の前にいるラブのほんのわずかな変化に気づくと、慌てて意識を引きずり上げた。
学生鞄をアスファルトの上に置くと、右手でラブの前髪を上げ、左の手のひらを彼女の額にそっと横向きに当てた。
「やっぱり熱がある! 駄目だよラブちゃん、お家に帰ろう」
「え? え? あの……ブッキー?」
右手で鞄を拾い上げると同時に、左手はラブの手をきつく握りしめ、すたすたと引っ張るように早足ですすむ祈里。
いつもと違う少し怒っているような彼女の様子に驚きうろたえながらも、ラブはおとなしくついて歩くのだった。
幸か不幸か、ラブの母はいない。パートに出ていて遅くなるのだと話すラブを黙らせて、祈里はラブをベッドに寝かせつけた。
ブラウスのボタンを二つ目までを外すと、腕を少し持ち上げ腋下に体温計を挟む。見るともなく白いブラジャーがチラッと視界に入り、ドキッとしながらも平静を装い、測定完了のメロディーをしばし待つ。
(もう……祈里ったら……今のあなたはラブちゃんを看護してるんだよ。いやらしい目で見てどうするの!)
(いいじゃない、大好きなラブちゃんの下着姿、あなただって見たくないとは言わせないよ?)
喧嘩し始めた天使ブッキーと悪魔ブッキーを慌てて頭の中から追い出すと、測定を終えた体温計をそっと抜き取った。
「37度9分!! やだもう〜、とりあえず冷やさないと。私アイスノン取って来るから」
「大袈裟だなあブッキーは……こんなの寝てたらすぐ治るよ」
ぶつぶつ言うラブを無視して、祈里は一階に向かった。
勝手知ったる幼なじみの家。冷凍庫から取り出したアイスノンにタオルを巻くと、薬箱から風邪薬を探し出し、水の入ったコップとともにお盆に乗せる。てきぱきと無駄の無い動きで準備を終えた祈里は、再び二階へと向かう。
「ラブちゃん、ちゃんと寝てた?」
その問いに答えはない。覗き込む祈里の瞳に映るラブは、すーすーと穏やかに眠っていた。
「ラブちゃん……、寝ちゃったの?」
祈里はラブの頭をそっと持ち上げ、アイスノンを首の下に入れてみたが、起きる気配はない。
(可愛い……。熱のせいで頬がチークつけたみたいにピンク色に火照ってる……)
熱で紅くなったラブの表情に、祈里は思わず見惚れてしまう。
いつからだろう。もう何年も、ラブの顔をこんなにしっかりと見つめたことはなかった。
恥ずかしくていつもはまともに見られないけれど、ラブが眠っていれば安心して心ゆくまで見とれることができた。
今は閉じられているが、凜とした涼やかな瞳。低くも高くもない丁度良くなだらかに通った鼻筋。
これも熱のせいだろう、ぷっくりとしたくちびるは、色つきのリップを塗ったように薄紅く色づき、ほんの少しだけ開かれたそこから形の良い白い歯が見える。
ラブの眠る姿は、清潔で無垢な少女そのままだ。それなのに祈里の感じ方はどこか違ったものだった。
例えるなら、それは花だ。蝶を引きつけてやまない、一輪の花のようだと。
そんな風に感じてしまう自分を恥じながらも、祈里はベッドに近づく脚を止められない。
誘うように開かれたくちびるを指でそっとなぞる。
「う……ん……」
喘ぎながら、少しだけいやいやをするように首を振るが、ラブはまたもとのように静かに寝息を立て始めた。
今なら誰もいない。誰もお前をとがめる者はいない。心の奥から聞こえる悪魔の誘惑に、祈里はあらがえない。そして、はなからあらがうつもりもない。自らの欲望に、今は素直に従うだけ。
翌日。
「おはよー」
自分のもとに元気に駆けてくるラブの姿を認め、祈里は安堵の笑みを浮かべた。
「良かった、熱下がったんだね」
「うん、もうすっかりいいよ。ありがとね。ブッキーの手当てのおかげだよ!」
「そんなこと……ラブちゃんの身体が強いのよ」
ニコッと笑うラブがいつにも増して眩しくて、今日もやっぱりまともに見られない。
祈里が慌てて顔を逸らした拍子に、くしゅん、と小さなくしゃみがこぼれた。
「あれ〜、ブッキーも風邪じゃない? あたしの風邪、うつしちゃったのかなあ。ごめんね」
「いいの、ラブちゃんは気にしないで。それに……風邪は誰かにうつした方が早く治るって言うし、ね?」
了
最終更新:2012年11月04日 23:06