冷たいリノリウムの床の上を、ペタペタと歩く。
診察室の横の扉を開ければ、そこは立ち並ぶケージの前。
既に気配を察していたらしい沢山の瞳が、一斉にわたしを見る。
「みんな、おはよう。」
笑顔でそう囁いて、そのひとつに近寄り、扉を開けた。
毎日のように変わる、朝の散歩のパートナー。
今日は、成犬になりたてのシェルティと一緒。
もうすっかり元気になって、走りたくてうずうずしているその子に
手早くリードを取り付け、外に出た。
まだ太陽が昇ったばっかりの、綺麗な薄青の空。
ひんやりとした透明な空気が、わたしたちを出迎える。
いつもの散歩コースじゃなくて、もう少し距離の長いコースを
いつものようにペースを抑えず、なるべくこの子のペースに合わせて。
この子に無理をさせない程度に、わたしだけが少し頑張りたいから。
行くわよ、と声をかけて走り始めると、
ワン!という答えと一緒に、リードがピンと引っ張られた。
「こうなったら、特訓しかないわよ!」
ノーザが現れ、そのあまりの強さにみんなで呆然としていたとき
最初に立ち上がってそう叫んだのは、美希ちゃんだった。
すぐさま力強く頷く、ラブちゃんとせつなちゃん。
わたしもコクンと頷いたけど、本当は少し怖かった。
特訓そのものが、怖かったわけじゃない。
四人一緒に特訓したら、わたしの力の無さを、これでもかって思い知らされる気がして。
結局、特訓を通してわたしたちが得たものは、ハートをひとつにすることの大切さ。
そのお陰で生まれた新しい技は、わたしたちに大きな希望を与えてくれた。
でも――。
(持久力が得意分野って言われても、みんなよりも得意ってわけじゃないもんね。)
ハァハァと荒い息を吐いて走るわたしの脳裏に
光の尾を引いて飛んでくる、赤いハートがよみがえる。
新しい技・グランドフィナーレで、パッションがわたしにパスするハピネス・リーフ。
この前は、キルンに導かれるままに必死で走って、ようやくキャッチできた。
でもこれから先、もしも追いつけず、取り損ねるようなことがあったら・・・。
(必殺技まで失敗して、迷惑かけるわけにはいかないわ。)
先を走るパートナーが、私を振り向いて、心配そうにクゥンと鳴く。
「大丈夫だよ。さあ、あと少しだからね。」
わたしは何とか笑顔を作ると、歯を食いしばって、なお一層ペースを上げた。
四つ葉になるとき ~第3章:癒せ!祈りのハーモニー~
Episode11:ハピネス・エール、プレア・フォロー
「祈里ちゃん、ワンテンポ遅れてる!」
「は、はいっ。」
今日何度目かのミユキの厳しい声に、祈里が慌ててテンポを上げる。
ターンの途中で、そんな祈里をちらりと見ようとしたせつなだったが、普段より前にせり出した、ラブの頭に邪魔された。
「ラブちゃん!位置をずらさない!」
「へ?あ、はい!」
ラブが一瞬キョトンとしてから、あたふたと自分の位置を確認する。きっと祈里の様子が気になって、無意識に前に出て覗き込みそうになったのだろう。
全くラブらしい・・・と表情が緩みかけたせつなは、その瞬間ミユキの視線を感じて、急いで表情を引き締めた。
土曜日のダンスレッスン。今日はミユキの仕事の都合で、午前中だけの短いレッスンだ。
「はい、今日はここまで。祈里ちゃん。動きにキレが無いけど、何かあったの?何だか疲れてるように見えるわよ?」
ミユキの声が、レッスン中の厳しいものから、優しい声色に変わる。
「すみません。大丈夫です。」
祈里が申し訳なさそうに頭を下げると、ミユキは何か言いかけてから、それを飲み込んで、ほぉっと溜息をついた。
「いい?また倒れたりしたら大変だから、無理だけはしちゃダメよ。」
祈里にそう言ってから、ミユキはそのまま、残りの三人へと視線を動かす。その目が、後は頼んだわよ、と言っているようで、せつなは少し戸惑いながら、小さく頷いた。
「ねぇ、ブッキー。何かあったの?」
ミユキが公園を去るのを待ちかねたように、美希が祈里の正面に立つ。
「何か、って?」
「とぼけないでよ。このところ、少し様子がおかしいわよ?何だか元気が無いみたいだし、ダンスの振りは間違えるし。それに最近、朝ちっとも会わなくなったじゃない。朝の散歩、行ってないの?」
美希の日課である朝のジョギングのコースは、その半分以上が祈里の散歩コースと重なっている。時間も同じくらいだから、二人はしょっちゅう、そこで出くわしていた。それがここ一週間ほど、美希は祈里を見かけることすらしていないのだ。
祈里は、美希の顔から少し目を逸らすようにして微笑むと、タオルでゆっくりと額の汗をぬぐった。
「ううん、お散歩はちゃんと行ってるよ。心配してくれてありがとう、美希ちゃん。でも、わたしは大丈夫だよ。」
「ならいいけど・・・。」
まだ心配そうに祈里を見つめる美希の肩を、ラブがポンと叩く。
「まあまあ、美希たんもブッキーも、続きはドーナツ食べながらってことにしようよ。」
ラブがいつものように、先頭に立ってドーナツ・カフェに向かおうとする。ところが。
「ごめんね、ラブちゃん。わたし、今日は用事があるから、このまま帰るね。」
祈里は、やっぱり申し訳なさそうにそう言って、自分のスポーツバッグを手に取った。
「えっ・・・ブッキー、今日も病院が忙しいの?」
「うーん・・・ちょっとね。じゃあ、また明日。」
曖昧にそう言って歩き出そうとする祈里の背中に、ラブの声が飛ぶ。
「わかった。でも、ミユキさんが言ってたみたいに、無理しちゃダメだよ、ブッキー!」
「ありがとう。」
笑顔で手を振り、駆け去っていく祈里を、三人はただなすすべも無く見送った。
「ブッキー、どうしちゃったのかしら。」
驚きと心配が入り混じったような美希の声に、ラブがウ~ンと考え込む。
「確かに、美希たんがあれほどズバリと訊いてるのに、何も言わないなんて珍しいよね。おまけにドーナツも食べずに行っちゃうなんてさ。」
「ちょっとラブ。アタシ、そんなにキツイ訊き方してた?」
「ピーチはぁん。あんさんは、口を開けばドーナツのことかいな。」
美希とタルトが、同時に抗議の声を上げる。
「ナハハ~、あたし、そんなつもりじゃ・・・。と、とにかく、まずはドーナツ食べに行こうよ。ほら、せつなも。」
ごまかし笑いで、それでもドーナツ・カフェに足を向けるラブに、今まで黙って成り行きを見守っていたせつなも苦笑する。
「はいはい、わかったわよ。」
ラブの後に続いて歩き出しながら、せつなは祈里が去って行った公園の入り口に、心配そうな視線を送った。
☆
重厚な赤レンガ造りの塀が、歴史の重みと清楚な雰囲気を醸し出す、私立・白詰草学院。その裏庭を、揃いの体操着を着た六人の少女たちが、一列になって走っていた。列の最後尾を走っているのは、祈里だ。
中高一貫校の割にはそれほど広くないグラウンドは、授業の無い週末も、まるで陣取りゲームみたいに、幾つもの運動部が占拠している。でもこの裏庭には――ウサギ小屋と花壇と、敷地の一番奥にある聖堂へと続く小道があるだけのこの場所には、祈里たちの他に、誰もいない。
花壇の周りをぐるぐると周って、全員が裏門の前を通過し終えたところで、祈里は持っていたストップウォッチを押して立ち止まる。息を弾ませながらタイムを確認すると、同じく立ち止まってこちらを見ている級友たちに向かって、ニコリと笑った。
「うん、始めたときよりずいぶんタイムが伸びたわ。集団のタイムでこれだもの。個人なら、もっと伸びている人もいるはずよ。」
「良かった。じゃあ、山吹さんの提案通り、これから放課後は毎日、ここを走ることにしようね。」
先頭を走っていた、長い髪を後ろでひとつにまとめた少女が、そう言って全員の顔を見回す。
「そうね。ここなら誰の邪魔にもならないし。」
「誰に邪魔されることもないもんねっ。」
上気した顔をほころばせながら、少女たちは元気に笑い合った。
彼女たちは、祈里のクラスメイト。二週間後に行われるマラソン大会で、クラス対抗の駅伝に出場するメンバーだ。祈里のクラスは、運動部の子が揃って個人走の上位を狙っており、駅伝に出るのは、それ以外の子たちが大半だった。
「それにしても、山吹さんが駅伝に立候補するなんて、驚いちゃった。あんまりそういうイメージ無いのに。」
少女の一人にそう言われて、祈里は黙って笑みを返す。
駅伝のメンバーに手を挙げ、練習しようと皆に呼びかけ、練習場所まで自分から提案する――確かに、普段の祈里からは想像できない行動力だ。
「さて、今日はここまでにしようか。みんな、お疲れ様。」
さっきの長い髪の少女が、そう言って皆を見回す。と、その視線が祈里の後ろに流れた。
「あら?あの子、学校に何か用があるのかしら。」
その言葉に振り返った祈里は、裏門の陰からこちらを覗き込んでいる黒髪の少女に気付いて、ポカンと口を開けた。
「じゃあ、わたしたちはこれで。山吹さん、ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
口々に挨拶を交わして教室に着替えに戻る級友たちを見送って、祈里はせつなに向き直る。せつなの方は、去っていく彼女たちの後ろ姿を眺めながら、小首を傾げた。
「ねぇ、ブッキー。『ごきげんよう』って、どういう意味?私には、初めて聞く挨拶だわ。」
せつなの素朴な疑問に、少し強張っていた祈里の表情が柔らかくなる。
「ああ、そうかも。うちの学校では、挨拶は全て『ごきげんよう』なんだけどね。」
祈里はちょっと考えてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「『ごきげん』っていうのは、そのまんまの『機嫌』って意味と、その人の健康や状態を示す意味があるの。『よう』は、『良く』って意味ね。
だから朝の『ごきげんよう』は、今日も一日、元気で機嫌良く過ごせますように、っていう意味だし、別れるときは、次に会うときまで、いい状態でいて下さい、って意味になるのかな。あんまり、ちゃんと考えて使ってるわけじゃないけど。」
「へぇ。何だか、ブッキーのいる学校らしい挨拶ね。」
「え、そう?」
「ええ。」
せつなに力強く頷かれて、祈里は少し顔を赤くしながら、いつものようにおっとりと微笑んだ。
「それにしても、珍しいね。せつなちゃんがこんなところに来るなんて。」
「お買い物に行ったら、スーパーでばったりブッキーのお母様にお会いしたの。それで、ブッキーが学校に行ったって教えてもらって・・・。」
それを聞いて、祈里の表情が再び、少し強張る。せつなはそれには構わず、不思議そうに祈里の顔を見つめた。
「マラソン大会の練習なんでしょ?ブッキー、『駅伝』っていうものの、メンバーになったんですってね。さっき、どうして私たちにそのこと言わなかったの?」
「ご、ごめんなさい。ちょっと、その・・・言いそびれちゃって。」
そう言って、ちらりと上目づかいでせつなの顔を見た祈里は、そこにとても心配そうな表情を見つけて、慌てて視線を足元に落とした。
「わたしね、せつなちゃん。」
辺りを見回して、人が居ないのを見定めてから、祈里は再び自分の足元を見つめながら、ポツポツと語り始める。
「前から思ってたんだけど・・・戦ってるときにね、わたしがみんなの足を引っ張っちゃうんじゃないかって思うと、怖いの。」
「・・・・・・。」
せつなが一瞬、この上なく真剣な顔で、祈里を見つめた。
「この前の特訓で、わたしの得意分野は持久力だって言われたでしょ?それって、あくまでもわたしが持っている力の中では、一番得意だっていうだけなのよね。みんなよりも持久力があるってわけじゃないもの。
でも、せめて一番得意なことだけでも訓練して、みんなに迷惑かけないようにしたいな、って・・・」
「それで朝の散歩も、コースを変えて距離を伸ばしてるってわけ?」
「え?どうしてそのこと・・・。」
「さっきの美希とのやり取りを聞けば、予想はつくわよ。」
驚いて顔を上げた祈里に、せつなは優しい表情で、もう一度小首を傾げてみせる。
「でも、それをみんなに話さなかったのは、どして?」
「今みんなに話しても、心配されるだけのような気がして・・・。ほら、わたしって、自信が無いとすぐに顔に出ちゃうから。」
「そういうこと・・・。道理でおかしいと思ったわ。いつものブッキーなら、そういうメンバーになった時点で、真っ先にみんなに話しそうだもの。」
ポツリと呟いたせつなを、祈里はもう一度驚いた表情で見つめる。その顔を見て、せつなは一瞬ハッとしたように目を見開き、すぐさま申し訳なさそうな顔になった。
「・・・ごめんなさい。私、わかったような言い方をしてしまって。」
(せつなちゃん・・・。こんなに毎日一緒に居て、こんなにわたしたちのこと分かってくれているのに、まだ遠慮してるんだ・・・。)
もどかしさと愛しさが、祈里の胸を満たす。祈里はせつなの肩にそっと手を掛けると、うつむき加減になった顔を、優しく覗き込んだ。
「ううん。何もかも、せつなちゃんの言う通りよ。いつものわたしなら、きっとすぐにみんなに話してたと思う。」
せつながそっと顔を上げて、祈里の顔を覗き見る。その顔に満面の笑みを返して、祈里は言葉を続けた。
「せつなちゃんがわたしのこと、凄くよく分かってくれてるんだなって、嬉しかった。ありがとう、せつなちゃん。」
せつなの頬が、見る見る赤く染まる。照れたような表情で祈里の顔を見てから、せつなはふぅっと大きな息を吐き出した。
「あのね、ブッキー。」
しばしの沈黙の後、せつなはゆっくりと顔を上げて、静かに口を開いた。
「私は今まで、いろんな特訓を受けてきたけど、その大半は、突き詰めれば得意分野を伸ばすか、苦手分野を克服するかのどちらかだったわ。」
突然始まったせつなの告白に、祈里は一瞬、目を丸くする。が、すぐに真剣な表情になって、せつなの言葉に耳を傾けた。
「この前の特訓で、それぞれの得意分野を伸ばすことを選んだのは、それ自体は間違ってなかったと思うの。私たちは四人で戦うんだから、苦手なところは、仲間同士でカバーし合えばいいんだもの。」
(カバーし合うって言われても、わたしはいつも、カバーされてばっかりだし・・・。)
あくまでも淡々とした口調で語るせつなの言葉に、祈里は再び、自分の不甲斐なさを感じて下を向く。そんな祈里とは対照的に、せつなは少し嬉しげに、でもね、と続けた。
「私、この世界に来て、あなたたちに教えられたわ。この前測定したみたいな特性も、確かに人間の力だけど、人が持っている本当に強い力は、心の力、想いの力なんだってことを。」
「ええ。だからハートをひとつにすることが、大切なのよね。」
少し寂しげに頷く祈里の顔をそっと覗き込んでから、せつなは相変わらず淡々とした口調で言った。
「前に、ラブが言ってたことがあるの。小さい頃から、いざとなると一番強くてめげないのは、ブッキーだって。どんなピンチのときも、ブッキーだけは、うまく行くって信じてくれてるんだって。」
「ラブちゃんが?」
まん丸に見開かれた祈里の目を見返して、せつなは少し悪戯っぽく、小さく笑って頷く。
「私にも、それはわかる気がする。ブッキーに「信じてる」って言われたら、本当にそうなりそうな気がするもの。それにね。」
せつなはそこで言葉を切ると、また前と同じ、淡々とした口調に戻った。
「それに戦闘中だって、全員がピンチのとき、パインが最初に立ち上がることが、一番多いわよね。」
「そんなこと・・・。」
信じられないといった表情で呟く祈里に、せつなは噛んで含めるように、ゆっくりと語る。
「この前の特訓で、ソレワターセにやられたときもそうだったじゃない?それから、サウラーのナケワメーケで明日が来なくなったときも、最初に立ちあがったのは、パインだった。それを見て、みんな次々に立ち上がったのよ。」
「あ・・・。」
祈里が言葉も出せずにせつなを見つめる。祈里自身には、それは全く自覚の無いことだった。そんなことを考えるような余裕なんて、無かったからだ。せつなは、そんな祈里にうっすらと笑いかけてから、真剣な表情で言った。
「怖いのは、ブッキーだけじゃないわ。だからこそ、あなたの信じる力は、私たち全員の大きな力なの。あなたが結果を信じてくれているから、私たちは立ち上がれるんだもの。」
「せつなちゃん。」
大きな目から、涙がポロンと零れる。そして次の瞬間、祈里は、くしゅん、と可愛らしくクシャミをした。
「ごめんなさい、ブッキー。体操着のままで立ち話なんかさせちゃって。着替えは?」
せつなが急におろおろと、自分の上着を脱いで祈里に着せかけようとする。
「あ、大丈夫よ、教室に着替えがあるから。ちょっと待っててね、すぐ着替えてくる。」
さっきとは打って変わって、明るく手を振って駆けてゆく祈里を見送って、せつなにも、笑顔が戻った。
程なくして、一人の少女が校舎から出てきた。さっき先頭を走っていた少女だ。律義に門から一、二歩外に出たところで所在無げに立っているせつなに、彼女は不思議そうな視線を向けた。
「あら?山吹さんは?」
「教室に戻って、着替えてくるって・・・。」
「あれれ、行き違いになっちゃった。仕方ない、月曜日に返せばいっか。」
そう呟いて、人懐っこい笑顔を浮かべながら、少女はせつなに近付く。
「そんなところで待ってないで、校舎に入っていてもいいのに。」
(やっぱりブッキーの学校って、ブッキーと雰囲気が似た人が集まるのかしら。)
せつなはそんなことを思って、少しだけ可笑しくなる。
「ありがとう。でも、すぐに戻って来るって言ってたから。」
笑顔でそう答えると、そう?と小首を傾げてから、彼女は鞄を開けようとして、何か小さなものを取り落とした。
せつながすぐに屈んで、それを拾い上げる。
「あっ、ごめんなさい。ありがとう。」
立ち上がりながら、手の中のもの――小さな透明のビニール袋の中身を、物珍しそうに眺めているせつなに、少女はそれが何なのかを説明してくれた。
「・・・それで、まずは山吹さんに作ってもらって、それをお手本に、みんなで作ろうってことになったの。彼女、凄く手先が器用だから。それでメンバーで順番に回してね、私が最後だったってわけ。」
そう言って、鞄の中にビニール袋を仕舞おうとする少女に、せつなは恐る恐る、声をかけた。
「あの・・・。お願いがあるんだけど。」
☆
翌日の日曜日。
昼下がりのドーナツ・カフェに、祈里は一人で座っていた。
ワゴンの中では、カオルちゃんが鼻歌を歌いながら、ドーナツに粉砂糖を振りかけている。
(みんな、遅いな・・・。)
今日はダンスレッスンはお休みだが、いつものように、みんなでここで会うことになっている。そこで心配かけたことを謝って、ちゃんと話そう、と祈里は決めていた。おそらく美希にはお小言をもらうだろうが、それは覚悟の上だ。
「お嬢ちゃん、待ちぼうけ?じゃあ退屈しのぎに、ドーナツいかが?」
いつの間にか、カオルちゃんがワゴンから出て来てテーブルの前に立っている。
「ありがとう、カオルちゃん。でも、みんなもうすぐ来ると思うから。」
「まあまあそう言わずに。見ているだけで、元気が出ちゃうドーナツだからさ。グハッ!」
相変わらず能天気な声でそう言いながら、カオルちゃんが祈里の目の前に、バスケットをコトリと置いた。
「・・・えっ?」
祈里が思わず声を上げる。それは、いつもドーナツが入れられる藤のバスケットだったが、今日は中身が空っぽだった。代わりに、このバスケットがプレゼントだと言わんばかりに、十字に綺麗なリボンが架けられている。そのリボンに、祈里は大いに見覚えがあった。
「これって・・・」
「じゃ~ん!あたしたちからの、ブッキーへの応援メッセージだよっ!」
「もう、なんで黙ってたの?心配したんだからね。」
「驚かせてごめんなさい、ブッキー。昨日、私が無理を言って、お友達から預かってきたの。」
ワゴンの陰から、ラブ、美希、せつなが現れる。ポカンとしている祈里にニヤリと笑いかけて、ラブがバスケットに架けられたリボンを手に取った。
いや、正確にはそれはリボンではなく、祈里が作った、駅伝チームの鉢巻きだった。
白詰草学院のスクールカラーである辛子色の地に、白い小さな水玉模様の生地。それを細長く縫い合わせ、額の当たる真ん中の部分に、メンバーの人数と同じ、六つの星形のスパンコールを縫い付けたものだ。
まず祈里が作り、それをメンバーがお手本にするために、順繰りに回していたもの――昨日せつなが、メンバーの少女から預かって帰って来たものだった。
ラブは、その鉢巻きの端の部分を、祈里の目の前に広げた。
「ほら!この部分は、せつながお母さんに教わって作ったんだよ。上手でしょ!それで、こっちが美希たん。今度は漢字、間違ってないでしょ?それで~、これがあたし。ブッキーの顔だよっ!」
「ちょっと、ラブ!いまさら漢字のことなんか、蒸し返さないでよっ!」
「え?漢字って、何のこと?」
「なっ、何でも無いのよ、せつな。大したことじゃないの!」
いつものように賑やかに騒ぎ始める仲間たちの隣りで、祈里は目を潤ませて、鉢巻きの一端を見つめる。
細い油性マジックで描かれた似顔絵は、ラブの作。目を糸のように細くし、大きく口を開けた、祈里の満面の笑顔だ。
その隣りには、「祝!駅伝優勝」というカラフルな美希の文字。ちょっと気が早すぎると思うのだが、もしかしたら、リベンジを狙いたかったのかもしれない。
そして一番端には、赤いラメ入りの糸の刺繍で作られた、小さなハートがあった。ハートの下には小さな針目で、「ごきげんよう」と縫い込まれている。
三人三様、でも同じあたたかな想いがこもった、小さいけれど大きなエールに、祈里は空のバスケットごと、鉢巻きをギュッと抱きしめた。
「みんな、ありがとう。それから、心配かけてごめんなさい。」
涙声でぺコンと頭を下げる祈里に、三人は顔を見合わせて、それから揃って笑顔になった。
「さっ、じゃあ、ブッキーの健闘を祈って、みんなでドーナツ・・・」
「せつなちゃん!」
早速注文に走ろうとしたラブが、まだ少し潤んだ、でもいつになくきっぱりとした祈里の声に、思わず立ち止まる。
祈里は、キョトンとした顔でこちらを見ているせつなを真っ直ぐに見つめると、考え考え、言葉を紡いだ。
「あのね。せつなちゃんと、ラブちゃんと、美希ちゃんと、三人はわたしにとって、同じように凄く大切で、三人それぞれ、全然違うの。
ラブちゃんにとっても、美希ちゃんにとっても、そして、せつなちゃんにとっても、きっとそうだと思う。
だからわたしたちは、それぞれが、それぞれの力になれるんだと思う。」
そこで祈里は、鉢巻きに小さく輝く赤いハートをギュッと握りしめ、祈るように目を閉じる。そして再び目を開くと、せつなの目の奥を覗き込むようにして、ゆっくりと穏やかに言った。
「だからね。わたしたちに、遠慮なんかしないで。わたしたちは四人、どんなときも、いつも一緒の仲間よ。」
ラブと美希が、そっと目と目を見交わして、笑顔で頷き合う。
じっと――瞬きもせずに、じっと祈里の目を見つめていたせつなは、絞り出すような声で一言、こう言った。
「ありがとう・・・ブッキー。」
ぴんと張り詰めた糸が緩むように、祈里とせつなが、二人同時にゆっくりと笑顔になる。
「幸せ、ゲットだよ~!」
ラブがバッと親指を突き出したとき、カオルちゃんが、今度は中身がぎっしりと詰まったバスケットを持ってやって来た。
「よぉく考えたら、さっきのバスケット、ドーナツ入ってなかった!グハッ!」
「うわ~っ、こんなにたくさん!」
「ちょっと、カオルちゃん。さすがにこんなには、食べきれないわ。それに、まだ注文してないし・・・。」
無邪気にはしゃぐラブと、困ったような笑みを浮かべる美希。そんな二人を交互に見やって、カオルちゃんもまた、グイッと親指を突き出す。
「いーのいーの。一個百万円で奢ってあげるよ。でも、悔しいけどそっちの空っぽの方が、ずーっと値打ちモンみたいだけどね~。」
四人は顔を見合わせると、誰からともなく、クスクスと笑い出す。やがてそれは明るい笑い声となって、秋の空に溶けた。
~終~
最終更新:2012年12月05日 01:15