〝コンコン〟
ノックの音。
聞こえてくるのはドアでなくて、窓ガラスの方。
夜も遅いこの時間。
この部屋に、ましてや窓からの来訪者となると一人しかいない。
だから部屋の主、桃園ラブは窓を向いて、にっこりと笑って声を掛ける。
「空いてるよ。どうぞ、せつな」
「うん……おじゃまします」
窓をカラカラと開ける音と共に、部屋に入ってきたのは枕を持った赤いパジャマ姿の少女。
ラブの隣の部屋の住人、東せつなだった。
「それじゃせつな、おやすみ」
「おやすみ」
電気を消した後、二人は枕を並べてラブのベッドにもぐりこんだ。
せつながこの家に来て、しばらくしてから始めたこと。
彼女がまだ時々悪夢にうなされていることを知ったラブが誘った。
いや、
「あたしが一緒にいれば、夢の中でもキュアピーチになって駆けつけて
せつなを苦しめてる悪い奴をやっつけちゃうんだから!」
そんなことを自信たっぷりに言いながら、押しの強さに任せて応じさせたというのが正しいか。
最初は苦笑しつつ、ラブに誘われた日だけ付き合っていたせつなだったが、
今では自分からラブの部屋にやってくることの方が多くなった。
不思議と二人で一緒に寝ている時は、悪夢を見ることがない。
本当にラブに守ってもらっている、そんな気持ちになれる。
そして、ラブのぬくもりと寝息を間近で感じることが出来て、
そこにドキドキしている自分の心臓の音がリズムのように重なるこの空間がとても心地よい。
(前に読んだ本に書いてあったわね、こういうことは癖になるって……。本当なのね)
部屋とベッドを用意してくれたラブの両親に申し訳が無いので、流石に毎日ということはないが
せつなにとってはこの時間はささやかな楽しみの一つになっていたのだ。
「ラブ、起きてる……?」
「ん、どしたの、せつな?」
「ちょっと、話をしてもいい?」
「うん、いいよ……。でもそれなら今日はドアから入って来れば良かったのに。
あ、もしかしてお喋りもしたいし一緒に寝たいってこと?せつなってば欲張りさんだなーっ!」
お喋りしたり、普通に過ごしたい時は、部屋のドアをノックすること。
一緒に寝たい時は、窓からノックする。
「一緒に寝たい」と口に出すのが恥ずかしいせつなの為にラブが決めたルールである。
「んもう、からかわないでよ。
……ちょっとラブの顔見ながらだと話しづらくて」
「ごめんごめん、それで?」
「ラブは……私の名前をどう思う?」
「せつなの名前?それがどうかしたの?」
「ラブはこの前、自分の名前のこと、教えてくれたわよね」
カメラのナケワメーケとの戦いで、思い出の世界に閉じ込められたラブ。
その中で彼女は、祖父の源吉に再会した。
そして、自分の名前の由来を知った。
「ラブって名前は、お爺ちゃんが私の為に
愛情をいっぱい込めて名づけてくれたものなの」
あの時、ラブは仲間達に思い出の世界での出来事を説明した。
「愛情を持って何かをなしとげる子になってほしい」
それが彼女の名前に込められた源吉の思い。
それをみんなにも聞いてもらいたい、と思ったから。
「それをラブに教えてもらった時、私は……羨ましいと、思ったの」
「羨ましい?」
「だって、私の名前は……」
せつなの生まれた世界、管理国家ラビリンス。
そこは学校も、仕事も、恋愛も、結婚も、全てが管理された世界。
そして名前すらも。
彼女に与えられた名前はイース。
9桁の国民番号でお互いを識別するのは効率が悪いという理由だけで付けられた、固体識別名。
「東せつなは確かに今の私の、キュアパッションとして生まれ変わった名前よ。
でもこれも元は、この世界で正体を隠して行動する為に与えられたコードネーム。
イースもせつなも、ただ必要だから、与えられた名前」
それ以上の意味など持たない名前。
誰かの思いも、家族の愛情も込められていない名前。
「でも、イースだった時の私は、それを気にすることは無かった。
ラビリンスの全ては総統メビウスが決めること。
それが当然のことだったから。
でも、私はこの世界で、名前にも意味があることを知ってしまった。
……知らないほうが良かった、かも」
「え?」
「だってそれは、私には決して手にすることの出来ないものだから」
「……」
「だから、ラブが、美希が、祈里が、
一人一人が愛情と思いが込められている名前を持つこの世界の人達が
とても羨ましくて、そうで無い私が、少し寂しい、そう思うことがあるの」
「せつな……」
「……ごめんね、変なこと言って。さあ、もう寝ましょう。おやすみ、ラブ」
言葉と共に、部屋の中を沈黙が支配する。
その中でせつなは思う。
なんでこんな話をしてしまったのだろう。
みんなに囲まれて、優しくしてもらって、幸せをいっぱい貰っているのに、
私はまだ、人の幸せを羨んでいるんだろうか。
これがサウラーに言われた、私の心の闇なのかもしれない。
そうやって思考を巡らせているせつなを
――キュッ―――
ラブがそっと抱きしめる。
「ラ、ラブ?!」
「せつな、また自分のことを悪く考えてるでしょ?
あたしはいつだって、せつなのことを心配してるんだからわかっちゃうんだよ。
……ダメだよ。そういうのは。
せつなはもっと自分のことを好きにならなきゃ。
そうしなきゃ本当の幸せはゲット出来ないんだよ?
だから、せつなが自分を好きになれるように、私の愛で包んであげるんだからね」
そういうとラブはせつなをさらに抱きよせる。
ちょうどラブの胸元に頭を抱きかかえられるような姿勢になる。
「ラ、ラブ……これはちょっと…恥ずかしいわ」
赤面しながらそう小さな声で抗議するせつなだが、ラブは放してくれない。
(わ……ラブの体、やわらかい。それにとってもあたたかいし……
ラブの匂い……シャンプーの匂いがしてとっても良い匂い……
じゃなくて!)
次から次へと流れ込んでくるラブの情報に思考が押し流されて、完全に混乱するせつな。
だから、
「私は好きだよ、せつなって名前」
その中で発せられた言葉が最初の自分の質問への答えだと、一瞬理解出来なかった。
「え?え?ラブ、今、好きって……」
「うん、好きって言った。
だってせつなと出会ってからずっと呼び続けてきた名前だもの。
初めて名前を教えて貰った時も、せつながイースだとわかって悲しかった時も、
せつなが一人で苦しんでた時も、一緒に暮らすようになって、
せつなの笑顔がいっぱい見れるようになってからも、
ずっと、ずーっと呼び続けていた名前なんだよ?
そこに、私のせつな大好きーーーーーーって気持ちをいっぱい込めてね」
そう言うラブの顔は、いつか見た笑顔。
まだ誤った道を歩んでいた時の自分に向けられた、全てを包み込む、慈愛に満ちた微笑。
あの時は眩しすぎて直視出来なかったその顔が、あの時よりも間近にある。
そこから伝わってくる、せつなを思う気持ち。
それとせつなを思う言葉とが、彼女の心の中の小さな闇を跡形もなく消滅させていく。
「うん……ありがとう、ラブ」
そして後に残ったのは、素直な感謝の気持ち。
それをせつなは、言葉と態度で--ラブを抱き返すことで形にする。
しばしの沈黙。
奏でる音は、寄り添う少女達の呼吸と互いを思う、心の音。
そんな時間がしばらく続く。
「あの……ラブ?!」
先に口を開いたのは、せつな。
「何?」
「そろそろ……放してくれない?本当に……恥ずかしいから」
それは、今にも消え入りそうな声での懇願。
「だーーーーめっ」
でもラブは笑顔で拒否。
「ええ?どして??」
「だってせつな、まだ自分のことを悪く考えてるかもしれないでしょ?
あたしはいつだって、せつなのことを心配してるんだからまだまだ安心出来ません!」
「もう考えてない!考えてないから、だからは・な・し・て!」
「うっ!そんなに嫌がるなんて……せつな、もしかして私の事、嫌い?」
「なんでそういう話になるのよ!嫌いなわけないでしょ?」
「じゃあ大好きってことだよね、じゃあ、ラブさんが大好きなせつなとしては
あたしを安心させる為にもう暫くこのままでいることを受け入れるべきだと思います!」
「その理屈はおかしいわよーーっ!」
「……」
「……」
またしばしの沈黙。
「……プッ」
「……ふふっ」
「あははははっ」
「クスクスクスクス」
笑い出したのは、二人同時。
抱きしめて、抱きしめられた姿勢のまま、暫く笑い合う二人。
「全く、ラブったら……今日だけだからね」
「え?ほんとに?」
「うん。ラブの気持ちをいっぱい貰ったから……そのお返し」
「やったー!これで朝まで幸せゲットだよっ!」
「朝までっていってもお母さんが起こしに来るまでよ。
こんなとこ見られて変に思われたら困るでしょ?」
「ええー、お母さんは別にそういうの気にしないよ?」
「私が恥ずかしいの!……もう寝るわよ!おやすみっ!」
「あ、まって、せつな。その前にもう一つだけ」
「何?」
一度深呼吸。
気持ちを落ち着かせて、首をかしげてこちらを見るせつなを真っ直ぐ見る。
「あのね」
「うん」
「『一瞬一瞬を大切にして、幸せに生きて欲しい』
……これが、せつなという名前の意味なんだよ」
「!」
目を見張るせつな。
「一瞬一瞬を大切にして、幸せに……それが、私の名前の、意味?」
「あたしが込めた思いだけどね、えへ」
それは、ラブが最初にせつなの話を聞いた時に決めていたこと。
思いが無いと言うなら、私が込めてあげよう。
愛情も忘れてないし、当然だ。
せつなの為に、何かをしてあげる時には、いつでもたっぷり詰め込んでるんだから。
「ねえせつな、受け取って、くれる?」
照れくさそうに、ちょっとだけ不安を覗かせてせつなの顔を覗き込んで来るラブの顔。
それにせつなは柔らかい笑みで応えて、
「全く……ラブはいつでも、私の欲しいものをすぐにくれるんだから。
私、いつもいつも貰ってばかりで、心苦しいと思ってるのよ?
それなのにこんなに大きいものを貰ってしまったら、心苦しさがいっぱいになって
押しつぶされちゃうかもしれないじゃない」
「え?それじゃ……ダメ?」
「ううん、そうじゃないわ。今まで貰ったどんなものよりも嬉しい。
最高のプレゼントよ、ラブ。喜んで頂くわ」
「よーし、やったー!これでまた、幸せゲットだね、せつな!」
ガッツポーズを取って喜ぶラブ。
そんな彼女の様子を見ながら、せつなは心の中でさっき貰ったばかりのラブの思いを反芻する。
(『一瞬一瞬を大切にして、幸せに生きて欲しい』か……)
何度も何度も、かみ締めるように言葉を繰り返すなかで、
ラブの思いに応えられるだろうかという一抹の不安がよぎる。
しかしそれをせつなはすぐに否定する。
大丈夫だ、きっと応えられる。
いや、応えてみせる。
だって、思いをくれたラブがいつでもそばに居てくれるのだから。
「ねえラブ」
「ん?」
だからせつなは、ラブが源吉の思いに応えることを誓ったように、誓いの言葉を口にする。
「私、精一杯、がんばるわ」
最終更新:2010年01月11日 21:27