4-568

 天からこぼれた雫、その最初の一粒が、アスファルトに小さな染みを作る。
 やがてそれを追うように、ポツポツと音が生れて。

「雨?」

 黒雲に覆われた空を見上げて、せつなはその愁眉を顰める。
 おばさまの言った通り、傘を持ってくれば良かった。思ってみるものの、後の祭りで。
 降り注ぐ秋雨の中を、せつなは駆け出したのだった。




    Rain Drops








 サーサー。
 文字にすれば、そんな音。激しいという程ではないけれど、霧雨とはとても呼べない。雲に覆われた空に太陽の光は踊らず、街は薄闇に包まれる。
 パチャパチャと歩道に出来た水溜りを踏みながら、せつなは急ぐ。だが未だ家は遠く、制服はだいぶ湿り気を帯びてきていて。

「せつなちゃん!!」

 かけられた声に、彼女は立ち止まる。辺りを見回せば、定休日のお店の軒先に張り出したアーケードの下に、親友がいた。

「ブッキー?」

 こっちこっち、と手招きする祈里の元に、せつなは駆け寄る。彼女も同じように急な雨に降られたのか、その髪は少し濡れていて。

「どうしたの? こんなところで」
「雨宿り、だよ。多分、この雨、そんなに長くは続かないと思うから」

 だから一緒に待ってよ? 微笑みながら言う祈里の言葉に、せつなは空を仰ぎ見る。
 黒の雲に切れ目は無く、はるか彼方まで青の空は見えない。とても、すぐに止むとは思えなかったけれど。

「そうね。そうするわ」

 頷いて、彼女は祈里の隣に並び立つ。どうせびしょ濡れになるなら、無理して今でなくてもいい。それより、せっかく偶然、友達に会えたのだから、少しぐらいお喋りをしていってもいい。
 そのほうが、きっと楽しいから。

「急な雨だったね」

 鞄から取り出したハンカチで髪を拭うせつなに、祈里は空を見上げながら、困ったなぁ、と続ける。
 だがその言葉とは裏腹に、彼女の声は少し楽しそうな響きが混じっていて。

「ブッキー、楽しそうね?」
「え? そうかな」

 首を傾げてこちらを見る祈里の姿に、せつなは小さく頷く。どして? そう問いたげな顔をしている彼女に、祈里はうーん、と考え込む。
 やがて彼女の口から出た問いかけは。

「せつなちゃんは、雨、嫌い?」
「そうね。あんまり好きじゃないわ――――特に、こんな風に急に降って来る雨は」

 恨めしげにせつなは、天を仰ぐ。テレビの天気予報は、曇りだけれど雨は降らないと言っていた。それを信じて彼女は、傘を持って出なかったのだけれど。
 そもそも、ラビリンスで育ったせつなには、雨が急に降り出すということが驚きだった。
 管理国家の名の通り、ラビリンスでは天候も管理されていた。雨だって、必要な時に必要な分だけが降るし、それは事前に全国民に知らされていた。だから、傘を忘れるということはなかったし、急な雨に慌てるなどということもなかったのだ。
 だが、この世界では。

「そういえばラブも、雨は好きじゃないみたいだったわ」
「外に遊びに行けなくなるからでしょ?」

 窓に張り付いて、憂鬱そうにしている彼女の姿が容易に想像できて、祈里はクスクスと笑う。つられて、せつなも少し笑って。

「ブッキーは? 雨、好きなの?」
「わたし? そうだなぁ、濡れるのは、やっぱり好きじゃないけど」

 でもね、と彼女は続ける。

「せつなちゃん。目を閉じて、耳を澄ましてみて」
「耳を?」

 コクリ、と頷く祈里はすでに目をつぶっていて。
 戸惑いながらも、せつなは彼女に倣う。

 ポツポツ。アーケードを叩く雨の音。
 ピチャ、ピチャ。地面の上で雫が跳ねる音。
 パチャン。木の葉から水滴がこぼれる音。

 いくつもの音が重なり合い、旋律が生れる。そこに規則性はなく、それぞれが独立しているにも関わらず、まるで。

「音楽みたいに、聞こえない?」

 感じていたことを、祈里が先に口にする。
 目を開けて隣を見れば、彼女は優しい微笑を湛えながら、こちらを見ていて。
 コクリ、と無言のまま頷いて、せつなはまた瞼を閉じる。
 絡み合う幾つもの音色は、耳に優しく、ゆっくりと心に染み渡っていく。

「素敵・・・・・・」

 思わず、そうせつなは呟く。雨が生み出すさざめきが、こんなにも綺麗で、穏やかなものに感じられるなんて、知らなかった。

「でしょ?」

 祈里は彼女の言葉に満足したかのように、小さく囁く。同じように、目をつぶりながら。

「雨だって、そんなに悪くないよ」


 並んで立つ二人。瞳を閉じて、耳を傾ける。
 自然が生み出す交響曲。呼吸をする度に、冷たく、だがとても清浄な空気が体を内から浄化する。
 少女達の間に会話はない。それでも彼女達の心は、とても満たされていて。

 やがて雨脚は弱まり、オーケストラは去って行った。
 アーケードから零れ落ちた雫が、せつなの足元で小さく跳ねる。また少しだけ、ローファーが濡れる。けれど、それを憂鬱に感じることは、もうなくて。
 どこか満たされた気持ちで、目を開けた二人は。

「――――!!」
「わぁ・・・・・・」

 同時に息を飲む。
 いつの間にか、黒雲には切れ目が生まれ、そこから日の光が差し込む。
 太陽はそこに、奇跡を生み出していて。

 七色の橋が、天にかかる。キラキラ、キラキラと輝き、ゆらめき、少女達の心を奪う。

「ホントね」
「え?」
「雨も――――悪くないわ」

 微笑み合う二人を、爽やかな風が包み込む。

 秋はまだ、始まったばかり。
最終更新:2009年10月08日 20:46