夜が明ける。学校も仕事もダンスレッスンもない珍しい土曜日。美希は、午前8時という、自分にとっては遅すぎる時間に目覚めた。母親は店の準備を始めていて、娘を起こしてくれなかったようだ。
枕元のリンクルンが、差し込む朝日に負けまいと光っているのに気付き手に取ると、メールが1通届いていた。
そんなはずはないのだが、なんとなく昨夜握り締めていた自分の手の温もりがこの電子機器に残っているような気がして、昨夜のことが思い出された。これが祈里の体温であれば、と思わずにはいられない。メールの相手はその祈里であった。
『美希ちゃん、昨日はごめんね。わたしから電話したのにすぐ寝ちゃって……。美希ちゃんはあの後すぐに眠れた?今日、お休みだって言ってたけど、まだ予定入ってないかな?』
受信したのは今から約1時間前。普段の祈里らしい、控え目で遠回しな言い回しのメール。昨夜有無を言わせぬ甘えた声でどうしても会いたいと言った彼女と同一人物とは思い難い。
人は誰しも二面性を持っているものだが、その差が激しい者ほど、無意識のうちに人は強く惹きつけられるのだという。自分もその一人かもしれないと美希は思った。
『おはようブッキー。ごめんね、ぐっすり寝てたみたいで今起きたの。ブッキーこそちゃんと眠れた?ねぇ、よかったら今日、あたしの家に来ない?1時間後くらいには準備できるけど』
美希は思う。あのような時間に予定がないと言ってから、まだ6時間。その間に予定が入るなんてありえるだろうかと。会いたいと言えばいいのにと。会いたいと言ってくれれば、昨夜叶えられなかった我儘を叶えることができるというのに、と。
数分も経たぬうちに、返信があり、では1時間後に行く、という内容であった。予想でしかないが、もう祈里は美希の家に来る準備を終えていることだろう。
1時間。起きたばかりの状態からの身支度に、決して散らかってはいないが人を招くには抵抗のある部屋の片付け。それを1時間で終えられるだろうか。美希は、自分も大概会いたい気持ちを抑え切れていないなと自嘲しつつ、さっさと準備にとりかかった。
ぴったり1時間後に祈里は美希の家を訪れた。行き慣れた恋人の家ということで非常にラフではあったが、随所に花柄や小さなフリルのあしらわれた女の子らしいスタイルで、特にスカートは美希の前では初めて着用したものであった。
もともとファッションには人一倍以上に興味を抱いている美希である。恋人のそれとなれば見逃すはずもない。
「ブッキー、そのスカート、新しい?」
美希は祈里をなんとか綺麗にした部屋に招くとそう言った。語尾をあげ疑問風ではあるが、表情からはそうに違いないという自信が見える。その指摘に祈里は嬉しそうに、そして少しだけ不安そうに顔を綻ばせた。
「うん、今日初めて着るの。どう、かしら……」
「すごく可愛いわ。それによく似合ってる……まさに完璧よ、ブッキー!」
「ありがとう!美希ちゃんにそう言ってもらえるとすごく嬉しいわ……」
水色の座布団に正座を崩して座り、俯きがちに頬を染め、話題のスカートの裾をきゅっと掴む祈里。その姿が美希の目にどう映ったかは言うまでもない。
飲み物を出すべくすぐにまた部屋を出るためドア附近に立っていたのだが、そんなものは二の次だと言わんばかりにすぐさま祈里に歩み寄り、手を彼女の頬に添えた。
「……!……美希ちゃん……」
待ち侘びたように祈里は美希のほうへ顔をあげた。膝立ちになった美希は、躊躇なく唇に唇を重ねる。昨夜はしたくてもできなかった。キスの始まりの合図として軽く唇を食んだ後は、昨夜行為後に感じた寂しさをぶつけるように、深く深くを求めて舌を絡ませる。
甘みを感じるような気さえする小さな舌を追いかけて味わい、溢れていくのも気にせずに唾液を流し込む。スカートを握っていた祈里の手は、気付けば美希の背に回されていた。キスをするために会ったわけではないのに、そうせずにはいられない。
幾度か角度を変えて繰り返し、いざ唇を離してしまうというとき、冷静さを取り戻しつつあった美希は半ば自分の気持ちを押しつけたかのようなキスを後悔していた。その気持ちも祈里を想う故とは言え、もっと祈里への愛が大半を締めた口吻けを贈りたかったのに。
「…飲み物、持ってくるわ」
ぽふん、と、優しい色をしたふわふわの髪の上に掌を乗せる。うん、と言いながらも祈里は一度、ぎゅっと美希に抱き付いた。そっと両腕をほどかれると、美希は立ち上がって部屋を出て行った。
一人残された祈里は大きく深呼吸して、先程の感覚を思い出すように唇に触れた。昨夜の我儘を叶えようとしてくれた美希。祈里が先に眠ってしまっても、文句も言わずに許し、今日も会ってくれている。
怒っていないかと不安になって打ったメールにも、優しい返事が返ってきた。幼い頃からずっと一緒で、気付けばこんな関係にさえなっていた、大好きな美希。彼女に甘えられることはとにかく嬉しい。
見た目だけではなく中身も常にスタイリッシュでかっこいい。かっこいいとは言っても、彼女はその表記の通り女性であり、その良さは彼女が女性であるが故のものでもある。
美希は祈里にとって完璧な恋人だ。しかし美希は完璧な“彼氏”になろうとしている。祈里は美希を彼氏にしたいと思ったことなど一度もない。
だが、完璧な彼氏になろうとして無駄な後悔をする姿すらも、祈里にとっては愛しく可愛らしい。祈里を喜ばせるという意味では、無駄な後悔とも一口には言えないかもしれないのだが。
とにかく祈里の好きになった美希は“女の子”なのである。
「大丈夫よ、美希ちゃん。美希ちゃんはわたしの完璧な恋人よ」
そう言えば美希は安心するだろう。しかし祈里のために苦悩する美希は乙女心以上のものを持ち合わせていて大変に魅力的なのだ。そんな美希を見ていたくて、祈里は彼女にそれを言わない。だから美希のいない今、抱いた蒼色のクッションに向かって呟いたのであった。
終
最終更新:2009年10月13日 23:03