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  香る秋の約束



「いい香り…」
 やさしく降っていた雨が止んで、太陽が再び地を照らし始めたころ、美希は瞳をとじて言葉をもらした。
「金木犀だわ…」
 祈里もおなじように甘い風をあびる。

「もう、秋なのね」

「…美希ちゃんの香り」

「え?」
「わたしの中で、金木犀の香りは、美希ちゃんの香りなの」

「なぁにそれ。アタシ?」
「ちいさいころ…、小学生くらいのときかな」

 祈里は木を見上げながらほほえむ。心のなかの美しいひとこまを思いだしていた。

「ちょうどこの場所で、ちいさな美希ちゃんがこの木を見上げてた」

「そんなことあったっけ?」
「わたし、声かけなかったの。ううん、かけられなかった」

 美希も一緒に木を見上げる。

「だって美希ちゃんがすごく綺麗だったから。妖精かなにかだと思って」

「…妖精?それはまたずいぶんな」
「ふふっ。あの日もたしか雨上がりだったわ」

 そよ風に踊る髪を耳にかける仕草。少女たちはほんのすこし大人になりつつあるのだろうか。
思い出話を、できるほどには。

「あのときの香り――雨上がりのこの空気。覚えてる。美希ちゃんはそのままずっと木の前にいたの」
「…好きなことしてると時間とか忘れちゃうのよね。ほらアタシ、香りにはうるさいし?」

 冗談めいた声色でいうけれど。

「美希ちゃん、いつもいい匂いするものね」
「あ…ありがと」

「でも、香りだけじゃないの」
「え?」

 祈里の睫毛がちいさく震える。

「金木犀の花言葉のなかにね、“初恋”っていうのがあって」

 美希には祈里の言わんとしている気持ちがわかった。

「……祈里…」

「わたしにとっての初恋は、美希ちゃん。…あの日から、始まった」





 蒼い瞳をかすかに揺らして、美希は祈里の手をとった。頬が秋の色に染まる。

「アタシの初恋も…ブッキー。あなたよ」
「ほんとう? うれしい…」

 見つめあっていたけれど、なんだか恥ずかしくて、ふたりして目を伏せてしまった。
けれど祈里が顔をあげるときには、すでに美希の眼差しはまっすぐこちらに向いているのだ。

「いまも初恋は続いてるわ」
「……」

「好きよ、祈里。あなた以外のひとを愛したことなんてない」
「も…美希ちゃん、」

 美希の真剣な表情に祈里はますます紅くなる。

「…わたしも、同じ。美希ちゃんだけが好き…」
恥ずかしくても伝えたい言葉。

 美希は満たされたような笑みをうかべた。そして、言う。

「じゃあ、この木に約束しない?」
「約束?」

「これから先、蒼乃美希は山吹祈里だけを愛します」

「…!」

「ね、」

 祈里を誘う、魅力的なウインク。実をいうと照れ隠しでもあった。

「…山吹祈里は、蒼乃美希だけを、愛します」

「約束ね?」
 右手の小指を差し出す美希。

「うん、約束」
 睫毛を涙でにじませながら、祈里も小指を差し出した。


 秋の深まりを運ぶ風が、木の葉を歌わせる。
ふたりの熱さを知っていたのは、冷たい雨に濡れた金木犀の香気だけ。
最終更新:2010年01月06日 22:38