6-173

美希ちゃんと付き合い始めて1ヶ月がたった。
付き合う前と変わったのは、2人きりの時間がほんの少し長くなったことくらいで、
美希ちゃんのわたしに対する態度は何も変わらない。
むしろ、前よりスキンシップが減ったような気もする。
わたしは、手をつないだり、抱き合ったり、キスだってしたいのだけれど、美希ちゃんは違うのだろうか。


「何?ブッキー」


わたしの視線に気づいた美希ちゃんが、読んでいた雑誌から顔を上げた。
じっと見つめられると、わたしが考えていることが読み取られてしまうような気がして、怖くなる。


「な、なんでもないわ」


慌ててそう言うと、美希ちゃんは不思議そうに首をかしげて、また雑誌に目を落とした。
それを見て、ほっと小さく息をつくと、わたしも持ってきていた動物の本のページをめくった。


ときどきちらりと美希ちゃんのほうを窺いながら、わたしはいくら読んでも頭に入ってこない文字の羅列を目で追った。
しばらくそうして本と格闘していたが、美、という文字が出てきた瞬間、
彼女のことが頭に浮かんできて、それからは全く集中できなくなった。
わたしはあきらめて、静かに本を閉じると、その上に頭を乗せた。


次に気がつくと、体が妙に重かった。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。
わたしの肩にはふわふわのタオルケットがかけられていた。きっと美希ちゃんがかけてくれたのだろう。
わたしは周りを見回して、誰もいないことを確認すると、ぎゅっとタオルケットを抱きしめた。
優しい手触りは、そのまま美希ちゃんの心を表しているようだ。
もう一度、タオルケットを抱きしめてから、わたしはそれを丁寧に折りたたんだ。
手放すのが名残惜しくて、ゆるゆるとその表面をなでていると、美希ちゃんが部屋に入ってきた。


「あれ、ブッキー起きたの?」


彼女は、わたしを見て少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべて言った。


「もう遅いし、今日は泊まってもらったらどうかって、ママが言ってるんだけど、どうする?」


思ってもみない提案に、わたしは戸惑う。
ふと時計を見ると、すでに8時を回っていた。


「でも、わたし準備とかしてきてないし、こんな突然じゃ、迷惑じゃないかしら」


その提案を受けたいという気持ちを押し殺して、わたしは答える。


「そんなことないわよ。ブッキーが泊まってくれたら、その、あたしも嬉しいし……」

最後のほうはよく聞き取れなかったが、美希ちゃんは泊まることに賛成してくれているようなので、
わたしはその言葉に甘えることにした。


「それなら、泊まらせてもらおうかな」
「本当?よかった。実はもうブッキーの家に連絡しちゃってて」


安堵したように息をつくと、美希ちゃんはいたずらっぽく笑った。
つられて笑うと、その拍子にお腹が鳴った。


「ふふ。ごはん、遅くなったけど食べましょうか」


わたしは赤面して頷いた。

夜遅くに食べると太るから、と野菜中心のさっぱりした食事を美希ちゃんのお母さんが作ってくれた。
美希ちゃんと並んでそれを食べると、いつも食べている野菜でさえ、やけに美味しく感じた。


「お風呂、先に入っちゃって。服はあたしの貸すから」
「あ、ありがとう」


差し出された服を受け取ると、わたしは素直にお風呂場に向かった。



お風呂に入っている間も、わたしは美希ちゃんのことを考えていた。
美希ちゃんはわたしのことをどう思っているのだろう。
付き合うことで、美希ちゃんの特別な存在になれると思っていた。
今までとは、違う関係に。
でも、そうではないのかもしれない。美希ちゃんにとって、付き合うということはそんなに重要なことではなくて、
わたしのことも、他より少し仲がいい友達、くらいにしか思っていなかったとしたら……。


にわかに不安になってきて、わたしは急いでお風呂からあがると、美希ちゃんに借りた服に袖を通した。
袖や裾の長さに、美希ちゃんとの体型の差を思い知らされる。


ほとんど走るようにして、部屋に戻る。
ドアを開けると、美希ちゃんは持っていた雑誌を脇に置いて微笑んだ。


「早かったわね。もっとゆっくりしてくれてもよかったのに」

わたしは何も言わずに、美希ちゃんのすぐそばまで行くと、ぐっと顔を近づけた。
彼女は、わ、と小さく声を上げると体を引く。


「い、いきなりどうしたの?ブッキー。あ、そうだ、あたしお風呂入らなきゃ……」

立ち上がろうとする美希ちゃんの腕を、とっさに掴んだ。
びくりと体をはねさせてから、彼女はぎくしゃくした動きでわたしの方を見た。


「なっ、なに?」

戸惑う美希ちゃんの頬が、少し赤くなっているのをわたしは見逃さなかった。
気持ちを聞くなら、今しかない。
わたしは大きく息を吸い込んだ。


「美希ちゃんは、わたしのことどう思ってるの?」


背中に嫌な汗が伝う。


「どうって……ブッキーはあたしの恋人でしょ?」

恋人と答えてくれたことに、少しだけ安堵する。
困ったように笑う美希ちゃんに、わたしはさらに近づいた。


「美希ちゃんは、わたしとキスしたいとか、思ったりする?」


美希ちゃんは一気に真っ赤になって、わたしから目をそらした。


「な、何言ってるのよ。その、あたし、お風呂入ってくるから!」


わたしの手を振り払うと、美希ちゃんは逃げるように部屋を出て行った。
閉じられたドアを眺めながら、わたしはため息をついた。


うなだれて床を見ると、さっきのタオルケットが目に入った。
わたしはそれを引き寄せて、それに顔をうずめた。
タオルケットは、やっぱり柔らかくて、少しだけ美希ちゃんの香りがするような気がした。


早くもわたしは先ほどの行動を後悔しはじめていた。
どうしてあんなことを聞いてしまったのだろう。
あの時は自分のことでいっぱいいっぱいで、美希ちゃんがどう思うかなんて考えもしなかった。
美希ちゃんは突然あんなことを言われて、戸惑ったに違いない。
もしかしたら、気持ち悪いと思われたかもしれない。
わたしのこと、嫌いになってしまったらどうしよう。
美希ちゃんに拒絶されることを思うと、目の前が真っ暗になった。
知らず知らずのうちにあふれてきた涙が、次々とタオルケットに吸い込まれていった。


ドアが開く音がして、顔をあげると、美希ちゃんが立っていた。
とにかく謝らないと、と思って、口を開こうとすると、美希ちゃんが駆け寄ってきた。


「どうしたの?ブッキー。目が赤いわよ?……もしかして、泣いてたの?」


心配そうに、わたしの顔を覗き込む美希ちゃんを見て、胸が苦しくなる。
また困らせてしまった。
さっきのこともあるのに、美希ちゃんはこんなにも優しくしてくれる。
はやく謝って、なんでもないと言わなければ。


「ごめんなさい」


でも、謝罪の言葉は、わたしより先に美希ちゃんの口から発せられた。
わたしは首をひねる。どうして美希ちゃんが謝るのだろう。


「さっきはあんな態度とったりして、でも、ブッキーだって悪いのよ。突然、その、キ、キスとか言うから……」


キス、のところで赤くなってもじもじしはじめた美希ちゃんがあまりにも可愛くて、わたしまで顔がほてってきた。
少しうつむいて、わたしはそれを隠そうとする。


「わたしこそ、ごめんなさい。変なこと聞いて。でも、どうしても聞いておきたかったの。
 美希ちゃん、付き合って1ヵ月もたつのに手も握ってくれないから。そういうの、したくないのかなって」


そう言うと、美希ちゃんは額に手をあててうなだれた。
それから、大きくため息をついて、やれやれと言わんばかりに首を振った。


「あのね、そんなわけないでしょ。我慢してるのよ、がまん。あたしだってブッキーと手をつないだりしたいわよ。
 でも、そうしたら止まらなくなっちゃうような気がして……怖かったの。
 それでブッキーに嫌われるかもしれないと思うと」


美希ちゃんは一息に言い終えると、恥ずかしそうに下を向いた。
胸がいっぱいになって、わたしは思わず彼女に抱きついた。


「ちょ、ちょっとブッキー」


おろおろしながらわたしの肩を掴んで、押し戻そうとする美希ちゃんをより一層強く抱きしめると、
わたしは彼女の耳元に口を寄せた。


「いいよ、止まらなくなっても。美希ちゃんなら」


美希ちゃんの耳がみるみるうちに真っ赤になっていくのを見て、わたしは声を出さずに笑った。
そして、体を離すと、彼女の顔を正面から見つめた。
顔を赤くしたまま、美希ちゃんはぱちぱちと瞬きする。
少しの間をおいて、わたしはそっと目を閉じた。


わずかに上を向いて、背筋を伸ばす。
やけに心臓の音が大きく感じられる。うまく呼吸ができない。
わたしはぎゅっとこぶしを握った。


でも、いくら待っても美希ちゃんからは何のリアクションもなくて、わたしは痺れを切らせて目を開けた。
見ると、彼女は肩のあたりまであげた手をわたしの方に伸ばしかけたところで固まっていた。


しょうがないなあ、と思いながら、わたしは美希ちゃんとの距離をつめる。
こういうときだけ、臆病なんだから。
そういうところも可愛いのだけれど。


わたしは中途半端なとことで止まっている美希ちゃんの指に、自身のそれを絡ませた。
彼女の指がぴくりと反応する。
離れそうになった美希ちゃんの手にさらに深く指を絡めると、今度は彼女もそれに応じた。
隙間なく密着させた互いの指は、二人が同じ気持ちだということをより確かなものにするようだった。
さっきまで感じていた悲しさが、暖かな安心感に変わっている。


さらにわたしが顔を近づけると、あわてて、彼女はぎゅっと目を閉じた。
絡めた指に少し力が入る。
目をつぶって、わたしは美希ちゃんにそっと唇を重ねた。


初めて触れた他人の唇は、柔らかくて、甘くて、ずっとそうしていたいほどだった。
唇を合わせるという行為はこれほどに気持ちいいものだったのだろうか。
それとも相手が美希ちゃんだからなのだろうか。
そのどちらかはわからない。でも、どちらでも構わないと思った。
何せ、美希ちゃんとしかするつもりはないのだから。


実際にはほんのわずかしかたっていなかったのだろうが、ずいぶん長い間そうしていたような気がした。
目をあけると、湯気でも出るのではないかと心配になるほど真っ赤になった美希ちゃんがいて、
思わず笑ってしまった。
けれど、そのまま美希ちゃんが微動だにしないものだから、不安になってきて、わたしはおそるおそる声をかけた。


「美希ちゃん……?」


はっとしてわたしの顔を見ると、美希ちゃんはそろそろと自分の唇に触れた。
そして、ぱくぱくと口を動かしたあと、やっと声を出した。


「あ、その、今度はっ!あたしから……するから」
「ふふ、期待してるね」


美希ちゃんは、まかせて、と言ったけれど、その声は少し震えていた。
今度というのは、ずいぶん先のことになりそうだ、と思うと、
残念な気がするけれど、せっかくの彼女の申し出だから、気長に待とう。
わたしは、奥手な恋人をそっと抱きしめると、待ってるわ、と囁いた。
最終更新:2009年10月27日 21:47