「すごいねー」
「ちょっと、ラブ。みっともないわよ」
はぁ、と大口を開けて天高く聳えるビルを見上げるラブ。そんな彼女を、せつなはゆっくりとたしなめる。女の子が、
そんなに口を広げてたら、はしたないじゃない。
「けど、ホントにすごいわね」
口をキュッと閉じて、せつなは同じようにビルを見上げる。
東京、と呼ばれる都会。その中に数多くある駅の一つに、彼女達はいた。そして、駅の前のビルを見上げて、驚きの
声をあげていたのだ。
「ラブは、東京に来るのは、初めてなの?」
「うん。横浜にはたまに行ったことあるけれど、東京は初めてかな」
二人を呼ぶ圭太郎とあゆみの声に、彼女達は歩き出す。会話を交わしながらも、せつなとラブはあたりを物珍しそう
に眺めていた。
「せつなも、横浜には行ったことあるんだっけ」
「ええ。でも、なんだか雰囲気が違うわね、ここは」
どうして違うと感じるのだろう。思って、はたと気付く。
空が狭いんだ、この町は
それはとてもちっぽけで、だけど輝いていた
きっかけは、木曜日の夜のことだった。
「え? ホテルの宿泊券?」
父、圭太郎の言った言葉に、ラブはキョトンとした表情を見せる。その顔に満足そうにしながら、彼は大きく頷いた。
「そう。東京の夜景の見えるレストランで御飯を食べて、そのホテルに泊まるんだ。家族全員でね」
「ほら、前にお父さんがゴルフのコンペに出たでしょ? そこで優勝した時の景品なのよ」
ああ、とせつなは箸を止めて思い出す。
あれは彼女が初めてコロッケを作った日のこと。約束通り、圭太郎はトロフィーを持って帰ってきた。とても嬉しそうな
顔で、せつなの作ったコロッケを食べながら、
「やー、今日は本当にいい日だなぁ。ゴルフも優勝したし、せっちゃんの美味しいコロッケも食べられるし。まさに幸せ
ゲット、って感じだね」
そう言ってくれたのだ。とても、嬉しかった。
「すっごーい!! お父さん、やるー」
「やー、なになに。皆で行けるように、僕、頑張っちゃったよ」
「それでね、ちょっと急だけど、今週末に行こうかと思うの。二人とも、準備しておいてね」
はーい、と元気に手を挙げるラブの横で、せつなは一瞬、戸惑う。が、その逡巡を感じたのか、すぐにあゆみが声を
かける。
「せっちゃん、お返事は?」
「え? で、でも・・・・・・」
「家族全員で、って言ったでしょ。もちろん、せっちゃんも一緒よ」
「そうそう。ちゃーんと、四人分あるからね」
「――――はい」
胸が熱くなるのを感じながら、彼女はゆっくりと言う。嬉しくて、つい、顔がにやけてしまう。愛されている、そのことを
感じて。
「じゃあじゃあせつな、明日は一緒にお買い物に行こ? せっかくお出かけするんだから、お洒落してかないとね」
「ええ、わかったわ、ラブ」
そうして、シフォンとタルトを祈里に預け、二人は両親と共に東京に出てきた。まずホテルに荷物を置き、圭太郎達と
別れて街に出る。
「あ、見て見て、せつな。あれが東京タワーだよ」
「すごく大きいのね」
「あそこはテレビ局みたいだね。そういえば前に、アタシ達の番組をやってくれたんだよ――――って言ってもプリ
キュアのだけど」
「全国で放送されたの? ちょっと、恥ずかしいわね」
「銀座!! お買い物の街だよ。あ!! あれなんて、せつなに似合いそうだなー」
「そうかしら――――!? ダメよ、ラブ。高すぎて買えないわ」
「ここは、渋谷だよ。こっちだったら、アタシ達でも買えるかな」
「あの犬の銅像、ちょっと可愛いわよね」
「アタシ、一度、来てみたかったんだ、原宿って」
「あの店の服って、美希がよく着てるわよね」
彼女達は、駆け足であちこちを巡る。途中、軽く御飯を食べたりした以外は、ずっと歩き詰めで。
それでも最初は、笑みを浮かべていた彼女。だがそれは徐々に、硬い表情にと変わっていく。
「どうしたの? せつな」
駅前の、大きな交差点。信号が変わって歩き出す人ごみの中、動こうとしないせつなの顔を、ラブは覗き込む。
「顔色、悪いよ? 疲れちゃった?」
「え? ああ、ううん、平気よ、ラブ」
口ではそう言ってみたものの、確かにあまり気分が良いとは言えなかった。誤魔化しは、しかし、いつも一緒にいる
ラブに通じる筈もない。心配そうな顔をする彼女に、無理矢理に笑って見せる。
「ホントに平気だって。だから、心配しないで」
「でも――――」
青に変わった信号が、また赤に変わる。車が、目の前を勢い良く通り過ぎていって。
それでもまだ、眉を寄せて覗き込んでくるラブに、せつなは小さく溜息を付いて、言った。
「ちょっと、ね――――ラビリンスを、思い出したの」
言ってしまってから、悔やむ。そんなことを言っても、仕方がないというのに、どうして。
「ラビリンスを?」
ほら、思った通り。ラブが顔を曇らせる。困らせてしまったことに、せつなは臍を噛むが、放ってしまった言葉を取り
消すことは出来ない。
「なんだかね、機械的で、冷たい感じがするの。あのビルの群れとか、人ゴミとか――――優しさが、感じられない」
信号が青に変わる。
途端にいっせいに動き出す、人の波。その動きは、一個の巨大な生き物のよう。一糸乱れぬとまではいかずとも、
統一された意思の元に制御されているかのよう。その様は、かつての母国に似ている。無表情で没個性な人々が、
整然と並び歩くラビリンスという世界に。
「せつな・・・・・・」
「そんな顔しないで、ラブ。私、こっちの世界に来て良かったと思ってるのよ」
けれど、とせつなは繋げて、少し遠い目でビル立ち並ぶ街頭を眺める。
「クローバータウンじゃなくて、この街に来てたら――――私、キュアパッションになれなかっただろうな」
この街には、クローバータウンに溢れている優しさや幸せを、感じない。暖かさやぬくもりも。
だからきっと、ここでイースは出会えない。それまでの価値観を全て覆せし、自分の人生を変えてしまうような少女とは。
「ごめんね、ラブ。変なこと言って――――困らせるつもりじゃ、なかったの」
「あ、ううん。いいよ、気にしてないから」
でもね、とラブは首を横に振った。
「アタシは、そんなこと、思わないんだけどな。せつなは、せつなだから」
そうかしら? 頭で思った言葉を、彼女は口にはしない。ただ、
「ラブは、優しいから」
そう言うだけ。
ラブが言いたいことは、わかる。私が、イースだった頃から東せつなであって、いずれキュアパッションになっていた
と言いたいのだろう。
だが、彼女はそう思わない。イースは、ラブと出会ったからこそ、東せつなに生まれ変わることが出来たのだ。この街
で、そんな出会いは到底、望むべくもない。
この、ラビリンスに似た、冷たく硬質な、どこか寒々しい東京という街では。
「そうじゃなくって。んー、なんていうかなぁ」
彼女の想いをよそに、ラブはもどかしげに頭をかいている。何かを探すように、その視線が横断歩道へと向けられた
その時、
「あ」
一人の老婆が、足をもつれさせて転んでしまった。おりしも、信号はチカチカと瞬き始め、青から赤へと変わろうとして
いる。
咄嗟に、ラブとせつなが飛び出そうとした瞬間、
「バーちゃん、大丈夫?」
小麦色に肌を焼き、髪を金に染めた少女が、老婆に手を差し出していた。その隣にいた長い黒髪の少女は、老婆が
落とした荷物を拾い集めている。
「ああ、ごめんなさいね」
「いいって。それよかさ、怪我とかしてない?」
「ってか、荷物、重過ぎだよ、おばーちゃん。歳、考えなって」
二人の少女の口調はぶっきらぼうなものだったが、その奥には確かに老婆を労わる気持ちがあって。
すっかり赤に変わった横断歩道を、その老婆は少女達に支えられるようにして渡っていく。ようやく渡りきると同時に、
自動車がいっせいに動き出し、その流れの向こうに少女達の姿は消えていった。
「ね」
「え?」
「もう、わかんない?」
唐突に言われて、戸惑うせつなに、ラブは微笑む。
「どこにだって、あるよ。優しさは、皆の心の中に」
見えなくったってね。ラブは、そう続ける。
「皆の、心の中」
噛み締めるように繰り返して、せつなはもう一度、前を向く。
少女達の姿は、もうそこにはない。だが確かにそこには、善意があった。ぬくもりがあった。それはほんのちっぽけな
ものだったかもしれないけれど、確かに存在していたのだ。
「だから、きっと、ね」
その先を、ラブは言わない。けれど、わかる。
きっと、せつながこの東京に来たとしても、やがて優しさに出会えただろう、と。
優しさに触れて、変わって行っただろう、と。
「そうね、そうかもしれない」
それは、認める。この街でも、もしかしたら。
けれど。
「けれど、やっぱり私、クローバータウンに来て良かったわ」
「どうして?」
キョトンとした顔をする彼女に、せつなは穏やかに微笑んで。
「だって、ラブに会えたんですもの」
東京に来て、ラブ以外の人と出会って、やはりイースはせつなに変わったのかもしれない。
けれど、それはどこまでも仮定の話で、現実にはせつなは、ラブと出会った。そして、生まれ変わることが出来、受け
入れられた。
それはもう、この上もなく上等の幸せ。仮定ですら、それ以上なんてありえないと思ってしまう。
「ラブに会えなくても、私は生まれ変わってたかもしれない。けれど、ラブに会えなかったら、私、ここまで幸せだった
かしら」
「――――もっともっと、幸せだったかもよ?」
「でもそこにラブはいないんでしょ? だったらきっと、その『せつな』は損をしてるわ。ラブと出会う、っていう幸せを手
に入れてないんですもの」
彼女の言葉に、ラブの顔は満面の笑みに塗り潰される。そして、
「へへえー」
せつなの体に、ギュッと抱きついてきた。
「そこまで言われちゃうと、なんか照れ臭いぞー、せつな」
「ホントのことよ、ラブ」
すっかりとにやけた顔で抱きついてくる彼女に、せつなは暖かい視線を向ける。
そして彼女はふと、天を仰ぐ。
夕暮れに染まる空のほとんどが、ビルに隠れて、やっぱり狭いと感じたけれど。
やっぱり、クローバータウンと同じ空だと。
そう、せつなは思ったのだった。
最終更新:2010年03月09日 23:31