私にしか出来ない。美希はそう言った。
何となく、分かる。分かってしまう。祈里が何を望んでいるか。
でも、それでいいのだろうか。私には正しい事が分からない。
でも、祈里が欲しがっているものを与える事が出来るのは私だけ。
それが、本当に祈里の為になるのかは分からないけれど………。
心臓にラブの手の平の感触が残っている。
心は、すべてラブに預けて来た。怖いものなんて何もない。
きっと、祈里にも微笑む事が出来るだろう。
心身を苛まれた祈里との情事の記憶。それを心と体が忘れる事はない。
だけど、私は大丈夫。あれも祈里の本当の姿の一つ。
大切な親友の暗闇なら、それは私にとっても大切な一部に出来るはずだから。
私はリンクルンを手に取る。アカルンを呼び出す為に。
………
………………
灰色の世界。メリハリのあるモノトーンですらない、無限に広がる薄墨の濃淡。
今のわたしがいるのはそんな世界。色もなく、音は水の中にいるように
滲んで膨張し、歪んで聞こえる。
でも、そんなわたしの様子を訝しがる人なんていない。
そんなに注意深くわたしを見て、気に掛けてくれる友達なんて
あの3人の他にはいないから。
(ラビリンスって、こんな感じ……なのかしら?)
心一つで灰色に変わってしまった世界を、かつてせつなが暮らした所に
当て嵌めてみる。
(こんなのがラビリンスって言ったらせつなちゃんに叱られちゃうかな。)
だって、自分以外は何も変わっていないのに。
教室ではクラスメイトがお喋りに花を咲かせている。
自分に話題が振られれば、適当に相づちを打ち、他の子に話題を流す。
ただそれだけの関係。
多分、学校ではいつもと変わりなく過ごせてる。
当たり障りのない雑談や、級友の頼まれ事をこなす。
それですべてが事足りる。
腫れ物扱いすら、されない。腫れて膿を持ち、疼く傷を抱えている事すら
気付かれない。
ラブや美希、そしてせつななら、自分がこんな風になっていたら
放っておいて欲しくても、そうはさせてくれないだろう。
それ以前に、ここまで沈み込む事を許してくれない。
悩みなんて寄ってたかって強制的にでも解決させられたかも。
色のない世界に閉じ籠る事を決めたのは自分自身。
今まで自分がどんなに色彩と温もりに溢れた世界で暮らしていたか
思い知らされる。
学校から帰ると、する事もなく冷えたベッドに突っ伏す。
もうせつなの香りもとうに消えてしまった。
けど、瞼を閉じれば有り有りと確かな感触を伴い、祈里だけのせつなが蘇る。
記憶の中のせつなを思う時だけ、鮮やかに色彩を纏って世界が変わる。
白磁の様にひんやりと滑らかなせつなの肌。
それが桜色に染まり、硬く強張っていた肢体が祈里の愛撫で
柔らかく解れてゆく。手の平に、唇に熱く吸い付き、そのまま永遠に
絡み合っていたい衝動に駆られる。
黒目がちな瞳に涙の膜を張り、望まぬ快楽を受け入れ、全身を戦慄かせる。
引き結ばれた紅唇は、何も付けなくてもいつもしっとりと艶めいて、
味わう祈里をうっとりとさせた。
白い歯の間から赤い舌が覗き、隠しきれない甘さを含んだ声がこぼれる。
それは耳から脳髄を蕩けさせるようななまめかしさで祈里を狂わせた。
その声音で名前を呼んで欲しかった。
でも体が快楽を受け入れた後は、もうせつなの中に祈里はいない。
せつなはいつもラブの幻影に抱かれていた。
だからせつなが達しそうになってくると、祈里は一切の声を発しない。
それまでは、散々に言葉でいたぶっても。強制的に祈里に愛を囁かせても。
我を忘れ、蕩けてしまえば口にするのはラブの名前だけだろうから。
息を弾ませ、胸を上下させるせつなの目に正気の光が戻ってくると、
決まって彼女は虚空を睨み、唇を噛み締める。
そこに、自分を犯し続ける憎い相手がいるように。
自分にのし掛かったままの祈里の存在を故意に無かった事にしようとするように。
せつなは、そうやって祈里への負の感情を毎回毎回、逃がしていたんだろうか。
祈里を、憎まずに済むように。
せつなはどれほど泣いても、祈里に憎悪の言葉を吐く事はなかった。
どうして、笑顔だけで満足出来なかっんだろう。
決して、手に入らない事は分かっていただろうに。
禁断の果実に手を出せば楽園を追放される。
聖書の頃からの決まりきったお約束なのに。
もぎ取ったところで、果実は食べてしまえばそれでお仕舞い。
唇を滴る芳しい果汁も心までは満たしてくれない。そんな事も知らなかった。
ラブの太陽のように弾ける眩しい笑顔。
美希の澄んだ青空のような晴れやかな笑顔。
せつなの、花がほころぶような可憐な笑顔。
自分はどんな風に笑っていたのだろう。もう、思い出せない。
「後悔なんて……してないもん。」
枕に顔を埋め、硬く目を閉じたたまま、祈里は呟く。
「謝ったりなんか、しない。」
だから気付かなかった。部屋の中に深紅の光が満ちた事に。
「そうなの?よかった。謝られたって困るもの。」
祈里の心臓は、冗談抜きで数秒止まった。
もうこの部屋では絶対に聞くはずのない声を聞いたから。
ようやく動き出した心臓を宥めながら、枕から顔を上げる。
ミシミシと音を立てて体が軋む。
ロボットのようにぎこちない動きで声のした方に視線を向け、体を起こす。
もしそこにいたのがヒグマや雪男でも、これほど動揺しない自信があった。
あり得ないだろう。
だって、彼女自身がもう来ないと言ったんだから。
「………せつなちゃん……。」
どうしてここに?理由を探るより前に、全身の細胞が歓喜に震えていた。
幻ではない、確かな質量を持った姿。空気が伝える体温。
モノクロの世界に瞬く間に艶やかな彩りが刷かれてゆく。
せつなが祈里の椅子に浅く腰掛け、背もたれに身を預けていた。
「安心した。ラブや美希の前で謝られたりしたら、どうしようかと
思ってたの。」
だって、面と向かって謝罪なんてされたら許さない訳にはいかないじゃない?
せつなの形のよい唇が紡ぎ出すのは氷の破片を含んだ刃。
薄く紅唇の端を持ち上げ、清楚とも見える微笑みを浮かべている。
「謝罪なんて、そんなものいらないもの。」
私があなたを許す事なんてないと思ってね?
せつなは傲然と祈里を見下ろす。少し前まで、立場は逆だった。
皮肉なものだ。ただ、座っている位置が入れ替わってるだけなのに。
せつなはベッドの上で怯え、祈里は女神のように震える囚われ人を
ねめつけていた。
支配されていた。身も心も。
目の前で身を硬くして震えている小さな少女に。
今となれば分かるのに。どれほど祈里が怯えていたか。
必ず訪れる終わりに。終わりの後に待っている、終わりのない責め苦に。
せつなと再び同じ空間にいる。その喜びが祈里の全身に行き渡る前に、
せつなの言葉が脳に届く。
上昇した体温が急速に下がり、指先が冷たくなる。
何も驚く事などないはずなのに。まかり間違っても、優しい言葉や
親しみの籠った表情を貰えるはずなどないのに。
祈里は自分の卑しさに身を捩りたくなる。
期待していた。せつなからの甘い温かさを。
叶わぬ想いを抱えた祈里の辛さを労ってくれるのではないかと。
「だって、せつなちゃんが、好きだったんだもの………。」
それなのに、言葉が勝手に唇を離れて行く。
今になって、こんな事言っても何もならないのに。
「せつなちゃんが、欲しかったの。」
せつなはモノじゃない。
そう、ラブに言われたばかりなのに。どうして、こんな事しか言えないのだろう。
「わたし、せつなちゃんがいれば…他に何もいらないよ……。」
だからお願い。わたしを見て。
「嘘ばっかり。散々私をおもちゃにしたくせに。」
楽しんでなかったなんて言わせない。
今さら綺麗な言葉で取り繕わないで。
せつなの瞳に影が落ちる。憐れむような、蔑むような。
薄く微笑んだまま、せつなは祈里の哀願を一蹴する。
「……わたしの事、嫌いにはなれないって言ってくれた……。」
容赦のないせつなの爪に祈里の柔らかな部分が毟り取られる。
祈里はせつなの視線にすがり付く。
せつなを愛してる。弄びたかった訳じゃない。
それだけは、信じて欲しかった。
「じゃあ、そうしてあげるわよ?」
「……え………?」
「あなたのモノになってあげる。これから二人でどこかへ消えましょう?」
せつながリンクルンを振って見せる。
「本当に、何も分かってないのね。」
誰も知らない場所で、二人きりで生きていくの。
あなたを守ってくれる人も、頼れる人もいない。何一つ持たず、誰にも告げず
ここから出で行ける?
私がいれば他に何もいらないんでしょう?
だったら、出来るわよね?出来るなら、連れて行ってあげる。
そこで、あなただけを見ていてあげるわよ。
私には、本当にそれが出来るもの。
せつなは本気で言っている。それが分かり、祈里の背筋に霜が降りる。
だって、それはせつなはそれを既に経験しているから。
命すら奪われ、体一つでさ迷う事を余儀なくされたせつな。
もし、ラブに迎え入れられなかったらどうなっていたのだろう。
それを思った瞬間、祈里は底の見えない穴に引き込まれるような
感覚に、全身が総毛立った。
祈里がせつなから奪ったもの。それは一時、体を貪るだけの事ではなかった。
せつなが底知れぬ闇から這い上がり、ようやく掴んだもの。
祈里にとっては持っているのが当たり前で、存在を意識する事すらなかったもの。
人は息が出来なくなって、初めて自分が空気に包まれていることを意識する。
祈里が、せつな以外はいらない。そう思えたのは余りに当たり前に
幸せに包まれていたから。
せつなを自分だけのものに出来る。
二人だけで見知らぬ場所で。
祈里も何度も夢想した事がある。
胸を締め付ける途方もなく甘美で、少しばかりのやるせなさを含んだ妄想。
現実には起こり得ないと分かってるからこそ浸る事の出来る、
無邪気で幼稚な一人遊び。
「馬鹿な子。」
せつなは祈里に歩み寄り、惚けたように自分を見つめる祈里の顎に指を掛ける。
「こちらに来て学んだことの一つがね、豊かな人ほど欲張りって事。」
どうしてあんなに欲しがるのかしら?両手にも抱えきれないくらい
沢山持っているのに。
腕から溢れてこぼれ落ちてもお構い無し。
こぼれた分まで、また余分に掴み取ろうとするの。
ねえ、あなたは何でも持っていたじゃない。
温かい家族。分かり合える親友。未来への夢。それを叶える事の出来る環境。
出来の良い頭。可愛らしい容姿。
他にもたくさん。
それなのに、なぜ私まで欲しがるの?
私の他には何もいらない。そんなの嘘。
あなたは何一つ捨てられはしない。
だって自分がどれほどの物を持っているか。そんな事、考えたことすら
ない人なんだから。
「あなたは欲張りで、傲慢で、残酷な子供よ。」
自分が持っていないから。それだけの理由で、他の子の片手にも満たない
少ないおもちゃも取り上げられるんだから。
あなたは私から、ラブへの想いと、初めて出来た親友を奪い取ろうとしたの。
打ちのめされる、と言うのはこう言う事なんだろうか。
罪を理解してるつもりだった。
償う為、自分の辛さから逃げていないつもりだった。
何一つ、理解していなかった。単なる独り善がりな自己満足。
泣いてはいけない。そう自分に課した罰さえ忘れ、祈里の頬は溢れる涙で
幾筋もの模様が画かれていた。
せつなは細く繊細な指で祈里の顔中をなぶる。
瞬きすら忘れた瞳から流れ落ちる涙を頬に伸ばし、しどけなく開いた唇を
形の良い爪で弾く。
祈里はされるがままに、せつなを見つめていた。
「……どうすれば、いいの……?」
許して欲しいなんて夢にも思わない。
ただ罪の深さに溺れたくない。
どうすればいい?教えて欲しい。どうすれば、溺れずに済むの?
どうすれば………ほんの少しでも償えるの?
「奪ったものを、返してくれればそれでいいわ。」
ラブへの想いは自分で取り戻した。ラブがもう一度与えてくれた。
「私の親友を、返して。」
ブッキーはいつもおっとりと優しく微笑んでくれたの。
彼女といると、ゆったり穏やかな気持ちになれた。
我が儘で身勝手なあなたなんていらない。
ブッキーを、返して。
「………無理よ……。」
また、以前のようにせつなに微笑むなんて出来ない。
ラブの隣で、ラブの愛情で包まれてるせつなと、今までと同じように
並んで歩けと言うのだろうか。
「やりなさい、祈里。」
それ以外のものは受け取らない。あなたは笑わなくてはいけない。
私や、ラブや、美希の為に。
あなたの気持ちなんてどうでもいいの。
だって、これは罰なんだから。辛くなければ意味がないでしょう?
あなたは見ていなければいけないの。私が幸せになるところを。
微笑んで、祝福して、そしてあなた自身も見付けるの。
私を手に入れる以外の幸せをね。
せつなの顔が、ゆっくりと降りていく。
祈里は自分の唇がせつなの唇で塞がれるのを、感じた。
何度も味わったはずの唇。
それなのに、初めて触れ合うかのような甘美さに、頭が痺れる。
魔に魂を奪い取られる瞬間は、こんな感じなのかも知れない。
穢れのない天使の口付けのように穏やかなのに、天使には持ち得ない
官能を揺さぶる背徳感。
舌の先すら絡まないのに、粘膜が擦れ合う淫靡さに体の奥から潤いが降りてくる。
無意識に腕が上がり、せつなの腰を抱き締めようとしていた。
「駄目よ。」
柔らかく、しかし短くせつなが拒絶する。
唇を重ねたまま言葉を発したので、開いた隙間で歯が軽く触れる。
「あなたから、私に触れるのは許さない。」
祈里はビクリと震え、所在なげにダラリと両腕を垂らす。
せつなは唇を離し、祈里の唇を指でなぞる。
祈里は自分の唇を這っている白い指の腹をちろりと舐めた。
せつなが咎めないのを見て、指に舌を絡め口腔内に引き込む。
人差し指と中指を音を立ててしゃぶり、指の又に舌を這わせる。
「触らないでと言ったはずよ。」
しばらく祈里の好きにさせた後、指を引き抜き祈里のシャツで無造作に拭う。
潤んだ瞳で見上げてくる祈里。
その胸中は多分に糖分を含んだ痛みに溢れていた。
せつなの側で、せつなの幸せを見届ける。
決して触れられない。二度と、過ちは冒せない。
祈里の背筋に粟立つように震えが走る。
一瞬で終わる許しより、緩やかに永く続く痛みと胸苦しさを。
それが、せつなのくれた罰。
また一筋、涙が流れ落ちる。
悲しいからではない。ようやく、救われた。
痛みを抱き、罰を孕んで生きていく。せつなが逃げ道を示してくれた。
祈里が壊れないように。笑う事に罪悪感を覚えないように。
「今度は、玄関から来るわね。」
ラブや美希と一緒に。
せつなが淡く微笑みを残し、消えて行った。
もう、泣いても良いんだ。後悔か、安堵か、何の涙かは分からない。
それでも、声が枯れるまで祈里は泣いた。
せつなは、祈里がせつなを愛し続ける事を許してくれたのが分かったから。
あなたを愛しています。
例え、指一本触れる事が許されなくても。
………
……………
(私、絶対アカルンの使い方間違ってるわよね。)
せつなは苦笑する。もう何度、自分と祈里の部屋を往復しただろう。
ベッドに腰掛け溜め息をつく。
その途端に、今まで大人しくしていた心臓が胸の中で暴れだした。
せつなは左胸を掴み、顔を歪める。跳ね返る鼓動を抑えようとしながら、
瞳を閉じる。
あれで良かったのか分からない。
ただ、自分は知ってる。
罪を犯した人間は許されるだけでは救われない事を。
罰を与えて欲しい。償いたい。例え、何の意味もない自己満足だとしても。
誰が許すと言っても、自分で自分を許せなければ、穏やかな眠りは訪れない。
彼女を、祈里を罰する事が出来るのは、自分だけだ。
(祈里………笑って…?)
例え、償いの為の無理強いでも。
あなたは偽りの微笑みだと感じるのかも。
でもね、私は知ってる。笑顔は幸せを呼び寄せてくれるって。
あなたが自分を騙して、心ない表情を浮かべているつもりでも。
笑顔はいつか本物になれる。
だって私の事、好きになってくれたあなたは、本当に素敵な笑顔を
私にくれてたもの。
だから祈里。最初は嘘でもいいの。
きっと、次に会った時は笑ってくれるわよね?
『せつなちゃん!』そう、呼んで手を振ってくれる。
あなたには、それが出来るって、私は信じてるから。
最終更新:2010年01月11日 15:31