7-22

 美希にお礼と別れを言うと、せつなは桃園家へと歩き出した。
 アカルンで帰れば早いのだが、月が綺麗だったので何となく歩きたい気分になり、舗装されたアスファルトの小道を黙々と歩く。歩きながらせつなは考える。

 ラブとのこれまでの様々な出来事。イースとして使命を帯び、コードネーム『東せつな』として近づいた出会い。少しずつラブを知っていき、自分が自分で無くなっていく感覚。ラブとメビウス、その両方への相反する想いで心がふたつに裂けてしまいそうだった。
 スタジアムのあの日、ラブはそんな自分を抱きしめてくれた。壊れかけた心ごと、強く強く。

 美希と話して本当に良かった。ラブへの揺るぎない想いに気づくことが出来て、今、せつなの感情は澄みわたっていた。

「せつな…ちゃん?どうしたの、こんな遅くに」

 声のした方を向くと、街灯に照らされ、驚いた表情でこちらを見つめる祈里の姿があった。

「やだブッキー、偶然ね。どうしたの?」

「コンビニの帰り…せつなちゃんは?」

「美希の家で話し込んじゃって、すっかり遅くなっちゃったの」

「そう…もし良かったら、遅くなりついでにもう少し話さない?」

 そう言いながら祈里が指差したのは、24時間営業のファミリーレストランだった。



 適当に空いている席に座ると、すかさず店員が水を持ち注文を取りに来る。

「私はカフェオレ…せつなちゃんは?」

「じゃあ、同じものを」

「カフェオレふたつ下さい」

 店員が去ると、せつなは笑顔で祈里に話しかける。

「珍しいわね、ブッキーがわたしを誘うなんて」

 せつながどこまで気づいているのか心配だったのだが、杞憂だったようだ。どうやら自分には疑いは持っていないらしいとわかって、祈里は心の中でホッと安堵のため息をついた。

「そんなこと…ないわよ?最近あんまり話してなかったし、話したかったの。…ラブちゃんは元気?」
「ん…元気、と言いたいところだけど、あんまり元気ないかな」

「…喧嘩でもした?」

「喧嘩でもないんだけど…そうね、美希にも聞いてもらったし、祈里にも言っちゃおうかな」

「なあに?」

「ラブね、いるみたいなの…ほかに好きな人が」

 驚きで、一瞬身体が震えてしまった。だが、そんな祈里の動揺に、せつなは全く気づいていない。

「それでこの前、美希と丘で出会って、嫌な気持ちを忘れるみたいにして、その…美希と…しちゃったの…キスを」

 頬を染めながら恥ずかしそうに告白するせつなに、祈里はただ、ただ、拍子抜けする。ラブという恋人がありながら、美希とキスしてしまったなどと、よりにもよって私に話すなんて。よほど私を信頼してくれているのだろうか。
 そう思うと、罪悪感が急激に祈里の中を駆け巡った。


 そんな祈里の胸中など、まるで知る由もないせつなは話を続ける。

「…さっき、美希に好きって言われたわ。わたしが誰を好きでもわたしのことが好きだって、美希はそう言ってくれた。

 そのおかげでわかったの。わたしね…ラブが好き。ラブが今誰を好きでも、これから先誰を好きになっても、やっぱりラブが好き。この気持ちだけはずっと変わらない。イースだった頃から、ずっと…。

 ラブはわたしに愛をくれたわ。愛すること、愛されることの素晴らしさを教えてくれたの。
 ラブはわたしにこの世界での居場所をくれた。いつの間にか…ラブのそばに居ることが、ラブの存在そのものが、わたしの居場所になってた。

 だから…今度はわたしがラブの居場所になりたいの。ラブがフラフラって何処かに行ってしまっても、いつだってわたし、ラブを待っていたい。駄目って言われても勝手に待ってる。そうしたらラブは、たまにはわたしのところにも帰って来てくれるかなって」

 せつなの言葉に打ちのめされ、祈里はしばし、呆然としていた。
 せつなは何て…何て子なのだろう。裏切られてもなお、愛し続けていくと言うのか。
 自分にこんな愛し方ができるのだろうかと、祈里は自問自答してみる。答えは一目瞭然だった。できるわけがないわ。敵わない…。
 自分のそれと比べるには、せつなの愛はあまりにも大きくて、盲目で、純粋すぎた。
 ラブとの関係に置いて、祈里は常に、『自分』が先にあった。
 自分が好きだから、好かれたい。自分が逢いたいから、逢いに来てほしい。自分が…、自分が…。
 だけど、せつなはそうじゃない。いつだってラブを重んじている。
 最初から叶わない恋だったんだ。だって、こんなに凄い女の子がライバルだったんだもの。

 堪えきれずにこぼれ落ちた涙を、せつなに気づかれないようにそっと袖でぬぐうと、祈里は偽りのない言葉を口にする。

「うん、ラブちゃんはきっとせつなちゃんのところに帰って来る。私、信じてる!」

「…ありがとう、祈里」

 ブッキー、ではなく祈里、と。せつなは確かにそう言った。
 自分に寄せられた親友に対する深い愛情を確信して、祈里は思う。ラブとの秘密を墓場まで持って行くのだと、そう心に誓った。ラブや美希や自分に向けられた、こんなにも穏やかなせつなの愛に報いるために。



「じゃあね、おやすみなさい」

 別れを告げ、再び歩き出したせつなを見送ると、祈里はリンクルンを取り出した。

『…もしもし』

 ラブの声がいつもより低く響くのは、電話越しのせいばかりではないだろう。

「今、せつなちゃんに会ったの。…久しぶりに色々話したよ」

『…そっか』

「せつなちゃんたらね、私が裏切ってること、まるで気づかないの。そしてね、ラブちゃんがフラフラしても、いつでも帰って来れる居場所になるんですって。全く…スケールが違うよね。大きすぎるよね…」

 電話の向こうで、ラブが嗚咽を洩らし始めていた。

「私、わかった。ラブちゃんを一番愛してる人が誰なのか。…だから、今夜でおしまいにする。ラブちゃんを好きな祈里は、今夜でおしまい。明日からはまた、元の幼なじみのブッキーに戻るね」

『祈里…ごめんね…ごめんなさい…』

 ラブの嗚咽が洩れ聞こえ、胸が焼け付くような苦しさに襲われるが、それでも祈里の決意は変わらない。

「駄目だよ!ブッキーって呼んで。私たち、今までよりもずっと仲良くなろう。せつなちゃんの愛に恥じないような、すて…すてきな…親友に…なろうね」

 最後まで言えた…涙で声がつまりながらも、ラブちゃんにちゃんとお別れが言えた。

「さようなら…私のラブちゃん」

 ラブが何か言う前に通話を終わらせる。月の光に浮かびあがった祈里の頬には、幾筋も幾筋も涙の跡が伝っていた。






「ただいま」

 せつなが桃園家の玄関のドアを開けた。パタパタとスリッパの足音がして、笑顔のあゆみが迎え入れる。

「おかえり、せっちゃん。遅くまでお邪魔して、美希ちゃんにちゃんとお礼言ってきた?」

「はい…レミおばさまがよろしくって言われてました。あの…ラブは?」

「それが珍しいのよ。お腹空いてないから夕御飯いらないって。部屋で宿題してるわ。せっちゃん夕御飯は?」

「美希のところで色々頂いてきたので、あまりお腹が空いてなくて…わたしも部屋で宿題してきます」

 あゆみに夕食を断り、せつなは階段を上った。階段を上り終え、廊下を進み、ラブの部屋の前に立つ。はーっと大きなひと息を吐いてから、ゆっくりと3回ノックをした。

コンコンコン

 わかってはいたが、やはり返事はない。

「ラブ、わたしよ。…入るわね」

ガチャリ

 ドアを開けると、部屋の中は薄暗く、窓からは月明かりが差し込んでいる。その明かりに照らされ、床に体育座りをしているラブが見えた。背をベッドにもたせ掛け、両腕で膝を抱え込み、顔は俯いていてその表情は見えない。
 せつなはラブのそばに行き、隣に腰かける。

「ねぇラブ…何も言わないでわたしの話を聞いてくれる?」

 こくん。ラブの頭が少しだけ頷いて、せつなの言葉を聞いていることを示した。

 その仕草を確かめると、せつなは凛と前を向き、隣でうなだれる少女に向かって口を開いた。




「わたしね…美希に好きって言われたの。すごく嬉しかった。わたしも美希が好きよ。
 でも、どこか違うの。わたしの『好き』と美希の『好き』は、同じようで、全然違ったの。
 わたしの『好き』はラブの形なの。ラブにしか当て嵌まらないみたい。
 だけど、ラブの『好き』の形は、今変わろうとしてる。わたしの形から、別の形に…。
 だけど、わたしなら形を変えられる。あなたの望むどんな形にもなる。だから…だから…これから先も、ずっとあなたのそばにいさせて…」

 声にならない嗚咽で、ラブの肩が震える。

「それだけ言いたくて…じゃあおやすみなさい、ラブ」

「待って!」

 自室に戻ろうとするせつなの手首を、ラブが咄嗟につかんだ。
 顔を上げたラブの瞳は、涙で睫毛まで濡れて、くしゃくしゃに崩れている。

「ごめん、せつな、ごめんなさい…。あたし、今までちっともわかってなかった。どれだけせつなが大切な人だったのか、今初めてわかった。あたし…あたしね」

 言いかけたラブの唇に、せつなが人差し指をそっと当てる。

「いいのラブ、いいの…何も言わないで…ぎゅうってして…」

 ラブはせつなの細い腰を引き寄せ、その身体を強く強く抱きしめた。

「もっと強く、ぎゅうってして…」

 せつなの身体はこんなに細かっただろうか。ずいぶん長い間、せつなを抱きしめていなかった気がして、ラブはその腕により一層の力を込める。

 ふっと、ラブの胸にふたりの幼なじみ達の幻影が去来する。
 ごめんね、みんな…。あたしが我が儘言って欲張ったから、みんなを泣かせて傷つけてしまった。みんなみんな、あたしのせい。
 だけど、これからは…。
 暗い道でさ迷う自分に、月の光のように、祈里がたったひとつの方向を指し示してくれた。そして、腕の中にいるひとの大切さにようやく気づけたのだから。
 もしもまた迷うことがあるなら、その時のために、祈里が捧げてくれた想いを背負って、これから先も生きていく。弱いあたしを戒めてくれるだろう、十字架のような彼女の心を背負って。

 窓から差し込む月明かりに照らされ、ふたりは抱きしめあう。心の中の様々な傷も罪も、頬を伝う涙も、重ね合わせた唇の熱さも、月だけがそのすべてを見ていた。


最終更新:2010年07月25日 21:27