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 いのり、いのり。
 舌足らずな声が這った。
「なあに、シフォンちゃん」
 寝そべっていたシフォンに手を伸ばし、胸の前で抱きながら祈里は優しい眼を向ける。シフォンはきゃっきゃと笑うだけだった。横にいた美希がシフォンの顔を軽くつつく。やはりシフォンはきゃっきゃと笑った。
「なんか、夫婦みたいだね。ブッキーと美希たん」
 美希の長い髪が窓ガラス越しの陽に薄く輝いて見えた。
「ね、せつな」
 念を押された気がして、「そうね」とせつなは言った。
「美希たんが、ブッキーの旦那さんだね」
「えー? アタシもウェディングドレス着たーい」
 式は祈里の通う学校の講堂では挙げられないか。町の端に神社がある。和服も捨てがたい。等々と口々に話す中で、シフォンは笑っていた。
 せつなはおよそシフォンの表情が泣くか笑うかしかないことに気付いていた。細かなものを除けば、それこそがシフォンだった。
「私たちの赤ちゃんみたいな存在だよ」とラブはそう説明したことがある。
 子供、か。卵子と精子が合体し受精卵ができる。やがて発生を続けて胎児が形成されていく。数億の中で自分という個体が命を授かるというのは考えてみれば凄いことだ、と学校で教わった。確率的には確かにそうだと思ったが、他のクラスメイト同様に、せつなにはそういう実感がなかった。おまけにせつなは、誰と誰の配偶子が接合して自分が生まれたのかも知らない。家族がいないとはそういうことだった。しばしば胎内の音に似ていると言われているテレビの砂嵐で、赤子は安心し、泣き止むと言われている。ただし、せつなは違っただろう。科学は人間を希薄にする。技術の行き過ぎたラビリンスが、まさにそうなのだ。
「はい。せつなさん」
 祈里の声に顔を上げると、白い腕がシフォンをこちらに差し出していた。
「せつなが花嫁さん役ね。あたしは、お婿さん」
 最近、学校の授業でこういう学習をしたことを思い出した。六十センチほどで三千グラムぐらいの赤ん坊の人形を抱いた。白い布に包まれていたその人形は、単なる数字とは違って、ずっしりしていたのを覚えている。どう、と聞かれて、重たいわ、と答えた。赤ん坊の眼はシールでできていた。
 せつな、せつな。
 シフォンは軽かった。相変わらず声を上げて笑っている。授業でも、こんな風に抱いたわ。部屋が少し暗くなった。陽が雲に隠れたらしい。
 急に風が吹くように、少し考えた。このまま落としたらどうなるのか。ぱっと、急に両腕を広げて、肩より上にあげる。シフォンは膝の上に落ちてその大きな頭を打つ。そうして、次は球体間接の人形が身を捩らせて階段を転げ落ちるのと同じ。シフォンは泣くだろうか。打ち所が悪ければそれもままならないかもしれない。こんな小さい姿のまま、痛い思いだけ残して逝くのか。………
 シフォンを抱く腕を下げた。ほとんど膝の上であやしている恰好になる。
「せつな、せつな」
 気がつかないうちに外の太陽がまた顔を出している。ああ、だから、そんなことを考えたのね。唐突にせつなは独りで諒解した。いつか自分の子どもができたときも、この気持ちは忘れてはいけない。
「さ、せつな。座って座って」
 促されるままに回転椅子に腰掛けると、右肩に温かい感触が乗った。正面にはデジタルカメラを構えた美希と、その隣で微笑んでいる祈里がいる。
 せつなは肩に置かれたラブの手にそっと首を傾けて、瞼を下ろした。
 閉じた視界が電子音を合図に一瞬白く光って、また赤黒く戻った。


 空は電球を飲み込んだ蛇の腹の色をしていた。足早に流れる雲で繰り返す明暗が、太陽の胎動のように思えた。
 ポケットに入ったプラスチックの健康保険証を爪で撫でると、どこかで車のクラクションが鳴った。振り返ったりしてみたがどの車か分からなかった。交通量の多い道路の脇を歩くのは慣れていない。
「この辺は、まだ少ないほうだよ」都会のほうは、もっと凄いんだよ。とラブは笑う。
 知らないこの道は、産婦人科の帰りだった。脇には絶えずビルディングがあり、それに陰る路地がある。じっと見るほどに針金虫が這い進むようにずんずんと路地が建物の隙間に入り込んでいく。光の届かない向こうを見ながら、せつなはラブに尋ねる。この道、先には何があるの。
「行き止まりだよ」
 と、ラブは言った。
 反対側に繋がっている、ということもあるらしいが、せつなはそれを聞いても何も言わなかった。
 それきり、せつなは路地に眼を向けるのをやめた。雲がまた出しゃばるときにだけ、ちらと瞥見した。
「ねえラブ、これは何?」
 やがてあるとき、古い店の軒先でせつなは足を止めて、膝あたりほどの信楽焼きの狸を屈んで見つめた。その狸の腹は白く大きく膨らんでいて、へそが贅沢すぎるほど出張っていた。
「あ、これはねえ」ラブが横に並ぶ。「商売繁盛のお守り」
「これを置くと、お店にたくさん人が来てくれるようになるんだよ」
 そうなの、とか、へえ、といった相槌を打つ一方で、せつなの人差し指は、うっすらと筆跡のある狸の腹を触っていた。ざらりと小汚い感触があった。
 またこのとき、指を返してその汚れを見るまでの間、せつなは少し以前のことを思い出していた。
「ここ二三日、ラブの様子が変なの」
 いつもの公園、パラソルのない丸テーブルの上、小さく噛んだストローを指先で撫でながら美希と祈里に打ち明けた。その日はよく晴れていたが、夜は雲が厚かった。
「どんな風に?」という質問から、美希と祈里にラブの様子をこと細かに伝えた。せつなは随分と必死だったようだ。つまり幾日かラブの口数が少なかっただけで寂しいと感じたし、独力での解決よりも先に相談相手を必要としたのだった。
 一通り質疑応答を交わした後で、美希は祈里に目を向けた。祈里は美希の隣に腰掛けていた。
 そうなるとやっぱり、という美希に、あれだよね、と祈里は迷いもなく頷いた。なんとなく悪戯っぽいその二人の雰囲気に「あれって、なんのこと?」とせつなは業を煮やしたように見えたのかもしれない。せつなには『あれ』が何のことか皆目検討がつかなかった。
「あれよ。女の子の日」
 ストローについた歯形が増えていたのを、指の腹が覚えている。
「女の子の日?」と首を傾げると祈里が美希に耳打つように言った。せつなはまだそういうことを知らないのでは、といった内容のことだった。こっちの世界にはまだまだ知らないことのほうが多い。
「ああ、ごめんね」と言ってから急に声を小さくして、今度は美希がせつなに囁いた。生理よ、きっと。彼女からは石鹸の匂いがした。
「セイリ?」
 月経、というものも、学校で教わっていた。当時まさにタイムリーで、ちょうど保健の授業で学習し終えたところだった。あとそれに続く、妊娠や出産といった事項、避妊と中絶などを数回の授業を通して習い、実際の出産の映像を見たり実寸大の赤ん坊の人形を取り扱ったりする実習授業のようなものをする予定だったのだ。実際、その通りに授業は進んでいったのだが、とにかくこの時点で、せつなは月経現象についての知識と理解を持っていたのである。
「そうなの。ラブには、生理があるのね」
 二次性徴とか排卵とかいった単語がせつなの頭の中を巡り、体内受精、着床、胎盤の形成、体内での発生、陣痛、出産と、アナログな生命誕生を一通り、せつなは思い起こした。教科書に載っていた、両腕を広げた母のような子宮の模式図が、体に宿る、母親になる、ということの暗示だと思った。爪が立てられたまま、せつなはそれを引きずっている。
「それは」
 回想を終えて、せつなは黒ずんだ指先を同じ手の親指と擦り合わせて消した。
「幸せなこと?」結局両の指が汚くなっただけだった。
「そうだね。商売してるんだから、儲かったらそれはそれで嬉しいと思うよ」お金儲けだけ考えるのは良くないとも思うけどね、とラブは付け加える。
「帝王切開」
 という言葉が急に脳裡に浮かんだが、狸の置物には大きな睾丸袋があった。
「本当は、こういう話は食べ物のあるところじゃしないんだけどね」
 美希が苦笑いをしていたのを思い出す。立って、わけもなく首を上に向けると、赤い提灯が四つ見えた。左から二つ目の提灯、その真ん中より少し下のあたり、わずかに破れているところに透明なビニルテープが貼ってある。四つの提灯には、らあめん、とそれぞれ一文字ずつ書かれてある。全てまだ明かりを孕んでいなかった。全部、点くだろうか。あるいは中身が抜かれているのではないか。もう、じきに暗くなる。
 またラブと他愛ない会話をしながら、家に帰ろう。ラブの横で、再び帰路についた。
 空に広がる灰色の亀裂から陽が出ている。それでも、今に雲が陽の出口を縫合するだろう。いつかと同じ空模様だった。
「幸せってたくさんあるのね」
 なら、代わりはいくらでもある。せつなは知っていることをわざわざ口に出すことはしなかった。
 犬の小便でレントゲンの色に濡れた電柱が眼に入った。
最終更新:2010年01月06日 00:18