み-277

風がビリビリとガラスを震わせ、大粒の雨が忙しなく窓を叩く。
耳の奥でごうごうと響く海鳴り。
何故こんなに耳元で大きく響くのか、とぼんやり考えるせつなはふと気が付いた。
これは海鳴りではなく、二人の体を流れる血潮の音なのだ、と。


「あぁぁ…っ、ラブ、ラブっ…!!」
「ごめん。ごめんね、せつな…」
閉じた幼い肉体を無理やり抉じ開けられ、その中を食い荒らされる。
熱く、柔らかく、蕩けるような甘い苦痛と、逃げたしたくなるような鋭く突き刺さる快楽。
痛み、快感、未知の刺激に押し流されまいとせつなは必死にラブにしがみ付く。

目も頭も使い物にならないほど霞んでいた。
それでも手探りでお互いの滑らかな肢体をまさぐり続ける。
柔らかく乳房が潰れ合い、興奮に充血した蕾への快感に、
どちらからとも付かない甘い悲鳴が上がる。


「あっ、あっ、あっ、あっ、やっ…ラブっ!離れないで……」
「待ってね…せつな、すぐだから……」
重ね合っていた肌を離され、せつなはラブに縋り付く。
体を起こしたラブはより深く感じ合う為にお互いの一番奥を絡みつかせて来た。
ぬるり、と舐め合うような感触に裸身の全てが総毛立つ。
繋がった場所を軽く前後させただけでガクガクと腰が砕けそうだった。


「ーーーーッッ!……んぅ…はっ、あん…っ」
身を捩り、悶えるせつなを押さえ込み、ラブはゆるゆると腰を使う。
現実味が無いほど整った、人形のように端正なせつなの顔。
今は涙に歪み、時折惚けたような表情さえ見せている。
爛れた愛欲には無縁だった清らかな体にはラブの欲望の残滓が淫らな模様を描いている。
初めて知る感覚。快感と呼ぶには激し過ぎ、苦痛と呼ぶには甘過ぎる。
見えない力で腰の奥から揺さぶられるような浮遊感。
まるで体がゆるく固めたゼリーになってしまったようだった。
達する。と言う言葉も知らぬまま、せつなの意識は何度も火花を散らし、
その明かりが消える間もなく新たな火種がくべられてゆく。
やがてその光はだんだん大きくなり、せつなも、ラブも部屋全体まで飲み込むほどに膨れ上がる。
目の眩むような熱と目映さに呼吸すら忘れそうになり。
そして、それは弾け、砕け散りながら暗闇に吸い込まれてゆく。


苦痛さえ甘美な嵐の中、せつなの意識は幾度となく波間へ投げ出され、
やがて温かな水底へ沈み込んで行った。


しとしとと密やかに囁く雨音の中でせつなは目を覚ました。
唸るような風は成りを潜め、時折サワサワと静かに濡れた木々を揺らしている。

ふと心細さを感じ、せつなは自分を抱き締める。
傍らで温もりを分け合っていたはずの半身はどこへ行ったのだろう。
一糸纏わぬ姿で眠ったはずなのに、今は余り肌触りが良いとは言えない
パジャマの上だけを身につけていた。


(……ラブ…どこ…?)


不安に胸が締め付けられる。
ベッドにはまだ二人分の体温が残っている。
一人切りの寝覚めがこんなにも居心地が悪いなんて思った事はなかった。
まるで、夕べの事はすべて夢。そう言われているようで。


「あっ、せつなぁ、起きたの?」
不安と心細さに泣きたくなっていたところへラブがひょっこり顔を覗かせた。
屈託のない晴れやかな笑顔。歌うように弾む朗らかな声。


いつものラブだ。
躊躇いがちに掠れた声でもなく。
嵐を飲み込んだように戦慄く瞳でもない。
いつもの、元気な可愛いラブ。


「まだ外暗いよ。もっと寝てても良いのに。あっ、今お風呂入れてるからね。」
ニコニコと細められた目。愛らしく口角を上げた唇。まるで、何事も無かったような。

せつなの胸の奥がぎゅっと引き絞られる。
昨日とは逆。今度はせつながラブの目を見られない。
力無く目を伏せ、視線を落とす。
その瞳に飛び込んで来るのは自分の素肌。
白い肌を彩る鮮やかな花弁。ずきりと痛む体の中。
細胞のすべてが叫んでいる。
夢などではない、と。


でも、ラブは。
ラブは、無かった事にしてしまいたいのだろうか。
突如舞い降りた偶然に嘘を被せ、嵐に身を委ねる言い訳にした。
一夜限りの。一夜限りだからこそ、飛び込む事の出来た嵐だったのだろうか。


パジャマの襟を握り締め、滲みそうになる涙を堪える。
求められたのは夢の中の事だったのだ。
ずっと続く夢などありはしない。
これでいい。もう温もりは体の一部として溶け込んでいるのだから。
この温かさを抱いて生きて行けばいい。それで何一つ、失うものもない。
これ以上の幸せは夢見る事すらおこがましい。
泣いてはいけない。ラブが笑っているのだから。
ラブがそう決めたなら……


「せつな。何考えてるの?」
「……別に、何も…」
「ウソ。」


隣に座り、体を寄せてくる。
首筋にラブの唇の気配。うなじをくすぐる吐息に体の奥のこごった澱が溶け出す。
昨日までは知らなかった感覚。
せつなは自分の体に棲みついた欲望におののいた。
暴れ狂うような嵐の記憶。
心が宥めようとしても体が叫んでいる。
もう、無理だと。

こんな物を抱えて、一人で生きて行けるはずがない。


「あのね。どうしてそうなるかなあ。」
自分自身を抱き締めたまま硬く身を縮めているせつなにラブは呆れたように溜め息をつく。
子供をあやす仕草で頭を撫でられ、せつなは恐る恐る顔を上げた。
覗き込んでくる瞳。その奥にあるのは、慈しみ、この上なく大切な物を愛しむ凪いだ海。
力が、抜けた。強張っていたのは数分にも満たないだろう。
それなのに魔法が解けるように緊張から解き放たれた心と体はぐずぐずと奇妙な音を立てて崩れる。


「困った癖だと思うんだよねぇ。」
首に腕を回し、泣きじゃくり始めたせつなをよしよしと宥めながらラブは呟く。


「……何が、よ…。どして、何でも分かってるって顔してるのよ…」
ほんの少し強がる余裕が出てきたせつな。
まだがっしりとしがみ付いたままの姿では迫力も何もあったものではない。
格好悪いと思いつつも、耳に滑り込むラブの声が心地好すぎて離れる気になれない。


「いっつも咄嗟に考えるのは一番嫌な事。」


一番悲しい事。
一番辛い事。
一番起こって欲しくない事。
せつなが、一番考えたくないような結果。
いつも真っ先にそれを考える。
期待しないように、癖になってる。
最初から何も持たなければ失う物など無いから。
手に入れ、胸に取り込んだ後に毟り取られるのは痛すぎるから。


「ごめんね。こんなに早く目を覚ますと思わなくてさ。」
一人ぼっちで目を覚ますなんて寂しかったよね。
不安にさせちゃったんだよね。
ずっと抱き締めてれば良かった。

心の中を撫でられながら、せつなはラブの胸で甘える。
こんなにも心を覗かせていたのかと恥ずかしくなりながらも。
いつからこんなに無防備になってしまったのか。
少し前までは考えを読まれるなんて屈辱でしかなかったのに。


安堵に少し緩んだせつなの腕をほどき、顎に指を掛ける。
濡れた睫毛にまだたっぷりと潤んだ瞳。
ラブは未だに信じられない面持ちで、手に入れたばかりの恋人を見つめる。
涙に潤んだせつなは、まるで朝露を含んだ大輪の花のようだ。と、
柄にもなく照れくさい形容を思い付く。
せつなは世界で一番綺麗。昨日までずっとそう思って来たけど、今日は昨日の何倍も綺麗に見える。
この調子で行ったら、一週間もすれば宇宙の単位を超えてしまいそうだ。
そんな馬鹿馬鹿しい事を真剣に考えているのが、なぜか可笑しいとは感じない。


「これが恋は盲目ってヤツなのかなぁ…」
「…?…なにが?」
「笑うから言わない。」
「笑うも何も意味が分からないんだけど…」
「…せつなが可愛すぎてどうしようって意味だよ…」
「ーーー!」


カアッと一瞬で頬を朱に染め上げたせつなが思わず顔を背けようと身を捩る。
そこへ、ふんわりと唇を被せるような柔らかい口付け。
始まりの、息せき切って噛み付き合うような拙い口付けとは違う。
お互いを求める事を誓い合った者同士の、ゆったりと甘い秘め事。
ベッドに倒れ込み、それぞれの指で相手の輪郭を辿ってゆく。
そこにある肉体の質感を確かめるように。
温もりにうっとりと酔い痴れながら、ラブは一人胸に忍ばせていた思いを反芻する。


本当は、せつなの不安は間違っていなかった。
これっきりにしよう。そう思い、抱いたのだから。
一晩だけ。思い切り、気の狂うほど愛して、求め合って。
泣いて、泣かせて、一つになるまで蕩け果てて。
気の済むまで抱き合ったら。朝になったらすべて忘れよう。忘れて、友達に戻る。
心行くまで想いを遂げれば、きっときっぱり諦められる。
そう出来ると思ってしまった。


「………無理に、決まってる……」
「…………ラブ……?」
「好きだよ、せつな…」
「…私も…好き。好きよ……」


好き。好きだよ。好きよ。大好き。
離れられる訳がない。
こうなる事は分かっていたはずだ。
だから、壁一枚隔てた場所にいながら手すら握らなかったのに。
不意にふれあう指先にさえ、我を忘れそうなほどお互いを欲していた。
一度向き合い、その瞳にお互いの想いを映し合ってしまえば…。
触れるのを堪えられるはずはなかった。
触れ合ってしまえば、より深く求め合う事を止められない。
求め合ってしまえば、もう、戻る道は消え失せてしまう。
分かりきっていた。


それなのに、降って湧いた偶然を知らぬ振りなんて出来なかった。
神様が落としてくれたかのような奇跡に、あらがう術などあるはずがない。
気の触れそうなほどにもがいていた想いが、たった一晩の夢で終わる。
そんなあり得ない誘惑を囁く愚かな魔物に捕まってしまった。


「…っあ、ーっあぁ…ラ…ブ…んっ、つっ…」
「…ごめん、ごめんね…」


ごめんね、せつな。


夜明けまでもう少し。
一晩中貪り尽くしながら、欲望を刻んだ体。
もう一度愛でるように味わいながら、ラブはせつなに何度も謝る。


ごめんね。あたし、本当は諦めようとしてた。想いを捨てようとしてた。
でも無理だったよ。せつなから離れるなんて。
せつなが、他の誰かのものになる。そんなの、考えただけでおかしくなりそうなのに。
せつなは、それでも丸ごと全部受け入れようとしてくれてたんだよね。
何も言わずに着いてきて、それで、あたしが何かしてもしなくても…黙って…
黙ってあたしの好きに出来るように。
きっとせつなにはあたしが何考えてるかなんてお見通しだったよね。
だから、起きてすぐあたしを見て辛くなったんだよね。
辛くて、笑おうとしても笑えなくて。
せつな、あたしすごく嬉しかった。
だって、いつものせつななら絶対笑うのに。辛くても、悲しくても、自分の気持ちより
いつでもあたしを優先しようとしてたでしょ?
でも…せつな、泣きそうになってた。
あたしと離れたくないんだ、って。
それが分かって、あたし叫びそうなくらい嬉しかったんだ。


だから


許してね、せつな。
ほんの一瞬でも、一度繋いだ手を離そうとしてしまった事を。

でもね。嵐の中で抱き合いながら、あたし覚悟決めたから。
ううん、覚悟じゃなくて…当たり前の事を確認しただけかな。
もうぜったいに離さない。せつなが嫌だって言ったって逃がさない。
ずっとずっと、数えきれないくらいの夜明けをせつなと過ごす。
それ以外の生き方なんていらないから。


せつな。あたし、この事はせつなに言わないよ。
黙ってあたしのすべてを、せつなを捨てようとした事まで受け止めてくれたせつなに
負担に思って欲しくないからね。
あたしがせつなの為に何かを犠牲にしてるなんて感じて欲しくないから。
だから、これから囁くのはこれだけ。


貴女だけを愛していきます。


ずっと感じていて欲しいから。


いじらしいほど一途にラブの存在を求めてくる腕。
瑞々しい肌をお互いの自由にさせながら、これを無かった事に出来るなんて
驕っていた自分は底無しの愚か者だと思った。
逃げられない。逃がさない。
手を繋いだ瞬間から運命は決まっていたのに。


乱れた呼吸を静めながら、ぴったりと肌を寄せ合う。
もう風も雨も止み、夜も明けているだろう。
どれほど溶け合ってもまだまだ足りる気がしない。
白らんでいく空が少し恨めしい気さえする。
いくらなんでも、もう帰る支度をしなければならない。
分かっていても、あと少しだけ。そう、未練がましくぐずぐずと
汗ばんだ肌を押し付けあっていた。


「…せつな、どうしたの……?」
無心に体を絡め合っていたせつなが、ふと窓に視線を移す。
そのまま魅入られたように窓を見つめ、呟く。


「…見て。ラブ、すごい……」
「……?」
言われるままに、せつなの瞳の先を追う。
そして、息を飲んだ。
ベッドから滑り降り窓を開ける。
雨の名残を含んだ湿った風が髪を梳きながら通り抜けて行った。
そこにあるのは嵐の余韻を残しながらも、晴天へと向かってゆく朝焼けの空だった。
まだ雲は灰白く霞み、海は波高く白い飛沫を空に投げ付けている。
しかし、生まれたての太陽を胸に抱いた雲はその腕の隙間から幾筋もの光を溢し、
その輝きは空を不規則な銀色に煌めかせている。
海はその光の帯を求めるが如く、低く高く波を差し伸べていた。
飛び散るしぶきは煌めきを潜り抜けると耀く小さな宝石となって
また海へと溶け込んで行く。
天高く突き抜けるような晴れやかな青空ではない。
どこまでも続く澄みわたった紺碧の海でもない。
しかしそれは紛れもなく、蒼穹へと続くであろう、嵐の後の奇跡。
嵐の晴天の間。ほんの一時にしか巡り会えない神々しいまでの一幅の絵のようだった。


二人でなら。


光の割合を刻々と増やしてゆく空に心を奪われながら、ラブは考える。
二人でなら、この奇跡の空のように歩いて行ける。
青空がなくても。嵐の海でも。ずっと手を繋いで。


奇跡の空を潜り抜けた二人なら。
いつか必ず誰も見たことのないような美しい景色に辿り着ける。
そう、心から思えるから。
最初から、悩み、迷う必要など何もないではないか。
ただ、目の前の奇跡を信じればいいだけなのだ。


曇りを祓う陽光の笑顔でラブはせつなに向き合う。


「帰ろっか。お家に。」


もう、ひっそりと手を繋ぐような事はしなくてもいい。
一つに溶け合った心と体は、いつでもすぐそばにあるのだから。
最終更新:2010年08月30日 21:40