潮風に吹かれてせつなの髪が舞う。
爽やかな磯の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
たっぷりの水分を含んだ空気がやわらかく肌をつつむ。
大きくひらいた二つの瞳が喜びと感動でキラキラと輝く。
「綺麗……」
せつなは一言そうつぶやいて、再び言葉を失った。
寄せては返す不思議な水の動き。
止まることのない美しい視界のリズム。
大きな波は水際で弧を描く白のライン。
小さな波は海面を揺らして描くアート。
足元は美しく透き通る無色。
浅瀬は空を落としたような淡い水色。
徐々に色を濃くしていき、中海は煌くような碧青。
波の高低で色を繋ぎながら、外海は原色の真なる青。
真っ白な砂浜。澄み渡る青空。背後に広がる山と深緑の木々。
初めて見たわけではないけれど、やっぱり思い知らされる自然の美しさ。
祖国が発展と共に失ってしまったもの。世界からも――そこで暮らす人々の記憶からも。
こんな景色と共に生きていくことができるなら、人の心もどこまでも美しくなれるのかもしれない。
あんな風に――――
お日様の申し子のような輝きを放つ少女。
海の美しさを人に例えたかのような少女。
柔らかい砂浜のような包容力を持つ少女。
せつなは先に飛び込んではしゃいでいる親友を見つめて微笑んだ。
そして波打ち際をゆったりと歩く。早朝の日差しは優しく、水はひんやりと冷たい。
あまりにも綺麗で気持ち良くて、なんだかすぐ飛び込んでいくのがもったいない気がした。
濡れた砂の上の散歩。一足ごとに軽く沈んでは押し返してくる。肌をくすぐるような心地よい海水
の流れ。寄せては返す波の動きは、まるで自分を海に誘ってるように感じられた。
しばらく歩くと、足元に煌く石を見つけた。それはよく見たら貝殻だった。色は薄いピンク色。
宝石のようにキラキラと輝きを放つ。傷一つ無い滑らかな曲線。やさしいカタチ。
せつなはそれを水着のポケットに大事にしまいこんだ。
「せつな~~早くおいでよ~~」
「せつなちゃん、一緒に泳ごう」
「はは~ん、確か泳げないんだっけ?」
「馬鹿にしたわね~とっくに克服したんだから!」
クスッと笑ってせつなはみんなの元に駆け寄った。いや、泳ぎ寄った。
大切な仲間の輪の中にいられるのは無上の喜び。でも、時々ひとりの時間を持つようにしていた。
夢中になると見えなくなるものもあるから。一つでも多く、たくさんの喜びや幸せを見つけたかった。
とは言っても、カナヅチ呼ばわりされては黙っていられない。
美希の挑発に乗ってせつなはクロール勝負をすることになった。ラブのいる地点から祈里の地点
まで約五十メートル。
ラブの合図で一斉にしぶきをあげる。最初の十メートルほどはほとんど差が無かった。しかし、
軽やかな美希のフォームに比べてせつなのそれには力が入りすぎていた。
また、途中で息継ぎを失敗してしまい、むせて大きく時間をロスしてしまった。ぐんぐんと差が
付いていき、結果はせつなの惨敗だった。
「アタシの勝ちね。まあ、付け焼刃にしては頑張ったほうね」
「波に慣れてなくてちょっと海水を飲んじゃっただけよ。次は負けないわ!」
「せつなちゃん落ち着いて。美希ちゃんも煽らないの」
「いいじゃん、もう一回やろうよ」
二本目の勝負も惨敗。しかし、いくらか距離が縮まっていた。せつなは海水独特の高い浮力を活
かして、大きなフォームで速度を上げていく。海での息継ぎのコツも掴んだようだ。
そして懲りずに三本目の勝負を求めるせつな。軽口を叩きながら受けて立つ美希。今度は惜敗と
言えるくらいの接戦となった。
ブッキーの静止も聞かずに四本目の勝負を行う。その中盤でついにせつなが美希を抜いた!
その直後に――――
「せつなっ!」
美希が気が付いてすぐに助けに向かう。せつなは足が痙攣して思うように動けない。
冷たい水と不慣れな競泳。悪条件の中で高い運動神経を使って強引に動いたため、体が付いて
いかなくなったのだ。
せつなは美希の肩を借りてテントに戻る。祈里が手際よく手当てをする。
「ごめんなさい――つい夢中になって」
「大丈夫、このくらいならすぐ良くなるよ」
祈里のマッサージで足の痛みと震えが引いていく。念のためにとテーピングで固定してもらう。
「これで安心よ」と微笑む祈里の言葉でみんなの顔に笑顔が戻る。とは言ってもすぐに泳げるように
なるわけではない。
あゆみが見かねて声をかけた。
「せっちゃんにはわたしが付いておくわ。みんな遊んでいらっしゃい」
「あの――おばさん、アタシが一緒にいます」
遠慮するあゆみを美希が押し切った。陽に焼きすぎるのも困るからと言われてあゆみも引き下がっ
た。
楽しい時間の邪魔をしてしまった。責任を感じて小さくなって座るせつな。隣に美希が立つ。
こちらも話しかける言葉に迷っていた。
「さっきはごめんなさい。悪気じゃなかったの」そう言うつもりだった。でも、出てきた言葉は
その反対だった。
「前から思ってたけど、せつなって負けず嫌いよね」
「ごめんなさい」
「意地っ張りだし、頑固だし」
「………………………………」
「結構自己主張は強いほうなんじゃない?」
「そこまで言う? 美希は私のことが嫌いなのね!」
せつなは怒って勢いよく立ち上がる。しかし痛みからバランスを崩して美希の胸に倒れこむ形に
なった。
赤くなって慌てて離れようとする。でも美希はそのまませつなの頭を優しく抱いた。水着一枚だけ
隔てた胸に顔をうずめる。
ひんやりした冷たさとじわっと伝わってくる温かさ。そしてやさしい心音。体から力が抜け抗う
ことができなくなる。
「楽しかったんでしょ、自分を出すのが。いつも――そうしていればいいじゃない」
「私は何だって自由にやらせてもらってるわ。でも――――ありがとう」
美希の態度と言葉に秘められた優しさに気が付いて胸が熱くなる。
自分を抑えてしまうところがある。そう言われているせつなの素の感情を引き出すために、心の底
から楽しんでもらうために言った言葉だった。
でも、楽しんでもらいたいのはせつなも同じ。名残を惜しむように軽く抱きしめ返してから、
せつなは美希を突き放した。
「せつな?」
「もう平気よ、少し散歩してくるわ。美希はラブたちのところに行って」
また少し、一人になりたくなった。このままだと優しさと愛情に溺れてしまいそうになるから。
それは止めどなく押し寄せて、決して引くことのない波。
海のように広くて深くて美しくて――――
でも、それに慣れてしまいたくなかった。身をゆだねるのが怖かった。
どれもこれも、自分には過ぎたものだと思うから。自分を幸せにするために帰って来たわけでは
ないのだから。
日差しが強くなり、熱を持った砂が素足を焼く。せつなはサンダルを履いてこなかったことを少し
後悔した。
足の裏の痛みに耐えられなくなって波打ち際に向かう。波が押し寄せて、痛みと共に引いていく。
足の先だけ濡れる位置で腰を落とした。
波の音に耳を澄ませる。言葉では表現しきれない不思議なメロディ。波の音にはヒーリング効果が
あるって祈里が言っていたのを思い出した。
聴いているうちに、ほんとうに気持ちが落ち着いてきた。そして、波の音にまぎれて子供の泣き声
が聞こえたような気がした。
せつなは声の主を探すために立ち上がる。もう足の違和感はほとんどなくなっていた。
水際から少し離れた場所で小さな男の子がベソをかいていた。手には小さなスコップ。
大波でも来たのだろう。足元には大きな水溜まりが出来ていた。
その隣で流されて形を失った砂の山。それは子供が作ったとは思えないくらい大きなものだった。
「どうしたの?」
「壊れちゃったんだ。僕のお城――せっかく凄いのできたのに」
「そう。――なら、もう少し後ろで作り直しましょう」
「もういいよ。どうせ作り直しても、また壊れちゃうんだもん」
小さな悲しみがせつなの心を刺す。かつて彼女もそう思っていた。儚く脆く、すぐに失われるよう
な物に執着するのは愚かだと。でも――そうじゃない。
伝えたいと思った。喜びや幸せは、結果じゃなくてその過程に宿るものだってことを。
「そうね。でもこの海と砂浜は、ここに素敵なお城が出来たことを覚えてるんじゃないかしら」
「海も砂も覚えてなんてくれないよ!」
「だったら、私が覚えておいてあげる」
「お姉ちゃんが? ほんと?」
「約束する。だから無駄なんて言わないの。そして、あなたも覚えておくのよ。楽しかったこと
――――全部ね」
「うん!」
「じゃあ一緒に作りましょう!」
その子は現場監督にでもなったみたいに鼻高々に指示を下していく。機嫌が見る見るうちに良く
なっていく。
こちらまで楽しくなって気持ちが弾んでいく。
さっきのよりもずっと大きなものを作るんだ。そう言って張り切ってどんどん砂を継ぎ足していく。
しかし、どうしても途中で崩れてしまう。
せつなは助け船を出すことにした。濡れているといってもしょせんは砂。粒同士の結合は弱く、
衝撃を与えればすぐに崩れてしまう。
“足す”のではなく“削る”のだと。
波の来ない場所を深く掘る。湿った砂地が出てきたら、波際から海水を吸った砂を運んでくる。
まずは目的の大きさより一回り大きい砂の山を作る。
出来たらバケツで海水を運んできて念入りにかける。奥の方までしっかりと濡れるように。
そして削って行く。上から順に、慎重に、少しづつ形を整えていく。
始めてから一時間ほど経過しただろうか。通りがかる人が立ち止まるくらいの立派な砂のお城が
完成した。
「すっごい! すごいよおねえちゃん。僕こんな大きなお城見たことないよ」
「私は手伝っただけよ。これはあなたが思い描いて形にしたもの。素敵よ」
せつなはおとうさんのカメラを借りようと思案する。記念写真を撮ろうと思ったのだ。
だけど――やっぱりやめることにした。
崩れるから砂のお城なんだ。砂が乾き、形を失うまでのわずかな時間だけ存在するから美しいの
だろう。
写真を撮れば、そこにずっと形は残る。でもその分、この子の心には残らないのかもしれない。
なんだかそんな気がした。
「ね、これを見て。さっき見つけたの」
「うわ~お姉ちゃん。それ、すっごく綺麗」
「そう、良かった。これ、あなたにあげる」
「えっ! いいの?」
「ええ、何か記念があると思い出しやすくなるでしょ。一緒に作った砂のお城のこと、この貝殻と
一緒に覚えておいて」
「うん。お姉ちゃんも覚えておいてね。僕のこととお城のこと。約束だよ!」
指切りげんまん嘘ついたら針千本の~ます♪
約束の歌。誓いの歌。厳しいけど優しい歌をその子から教わった。ならば、自分はこの歌と一緒に
覚えておこうと思った。
美希と別れて二時間ほど過ぎただろうか。みんな心配してるかもしれない。名残惜しいけど、
その子に別れの挨拶をしてテントに戻ろうとした。
「お疲れ様、せつな。いいことしたね!」
「せつなちゃん、ラブちゃんみたいに見えたよ」
「せつな、さっきは無神経なこと言ってごめん」
「みんな……。――勝手に離れてごめんなさい」
いつから見られていたのだろうか、恥ずかしくて顔が赤くなっていくのが感じられる。
みんなから顔を背けるように、もう一度あの子の方を見た。お母さんらしき人の手を引いてお城を
自慢していた。
得意満面の――幸せそうな笑顔で。
「さっ、行こう、せつなっ。今からスイカ割りするよ」
「今度は、せつなに華を持たせてあげてもいいわよ」
「言ったわね! 私に勝てると思ってるの?」
「あはは、食べられるように形だけは残してね」
名誉挽回。今度こそ上手にやって盛り上げようとせつなは張り切った。
海で冷やしたスイカを砂の上に置く。頭には目隠し、両手には太い棒が握らされる。
誰が最初に割るかを競うゲームらしい。
最初はラブ、もう全然方向が違う。あれでは一日やっても割れないだろう。なんだか可笑しくて
みんなで大笑い。
次は美希、方向は近かった。しかし距離を二メートルも間違っていては、やはり割れるはずも無い。
祈里の番、こちらは方向が正反対。ラブの方に歩いていってラブが逃げ回っていた……わざとやっ
ているのかしら。
そしてせつなの番。距離を覚えておく、五メートル二十センチ。目隠しをして体を回される。
一回転~二回転~五回転、誤差修正十五度。
このくらいで鍛え上げられた三半規管は狂わない。棒の長さは一メートル三十センチ、ここだ!
脱力状態で棒を振り下ろす。高速の打ち下ろし! 当たる瞬間に、柄を硬く絞るように握り込む。
命中と同時に棒を引き、衝撃だけをスイカに伝える。
丸い棒で叩いたにもかかわらず、スイカは砕けずに真半分に綺麗に割れた。
拍手喝采。いつの間にか知らない人たちにまで取り囲まれていた。
後から聞いた。一巡目は難しさを体験して、面白おかしく笑うんだって。二順目から目隠しをした
人を周囲から声で誘導するんだって。時に嘘も付きながら。
そう言われてみると、自分はおとうさんとおかあさんにも回さずに割ってしまったことになる。
また――やってしまったらしい。あまりにも楽しくて夢中になってしまった。でも、みんなの本当
に嬉しそうな表情を見ていたら、これでいいんだって思えた。
それからも色んな遊びをした。ビーチボールにフリスビー。パッションキャッチってからかわれた
けど……。
夕方になるとバーベキューの準備。
せつなは不思議に思う。
わざわざ不便な海辺に食材を持ち込んで、真水の調達にも苦労するような場所で砂まみれになり
ながら夕飯を作る。
なんて無駄で――――なんて楽しいんだろう。
一緒に居るみんなの――――なんて楽しそうなことなんだろう。
「どうしたの? せつなちゃん」
「バーベキューって、とっても楽しい……」
「なあに、それ? はじめてみたいな顔して」
「だって、ダンス合宿では食べ損なったし、修学旅行はラブの様子がおかしくて――」
だから、また出来て嬉しい。
美しい自然の中で、友達と家族と一緒にいただく夕ご飯。自分の人生にこんな時間があるなんて、
本当に夢のようだと思う。
日が暮れるまでに帰り支度を整えることが出来た。荷物を車に積み、出発しようとしたところで
さっきの男の子がこちらに駆けてきた。
せつなが迎えると、眩しいくらいの笑顔で両手に乗せたものを差し出した。
「おねえちゃん、これ、あげる! 何かお礼したかったんだけど、なかなかいいの見つからなかっ
たんだ」
「私のために、ずっと探してくれてたの? ――ありがとう、大切にするわ」
大きな巻貝、耳にあててみると海の音が聞こえた。静かに心に染み渡る不思議な響き。
後でブッキーが教えてくれた、これは貝のささやきというらしい。
本当は体内の音が貝に反射して聞こえるのだとか。でも、人も海から生まれたのだから、海の音と
言えるのかもしれないって。
また一つ、せつなの宝物が増えた。かけがえの無い思い出を携えて。
「あ、見て美希ちゃん、ラブちゃん、せつなちゃん」
「アタシ――海で見るのは初めて……」
「うわ~こんなになるんだ」
「素敵ね。太陽から橋がかかったみたい」
赤い夕日が海面に沈んでいく。水平線から岸近くまで、海面に一本のキラキラ光ったオレンジ色の
光線が走る。空を緋色に染めて海に煌く宝石の光を宿す。
海に映る太陽が浮き上がって繋がり、二つの夕日が一つになる。幻想的な光景をみんなで見守った。
日は沈んでも記憶は消えない。心象風景の一つとして、私たちの心を形作る力となるだろう。
せつなは、その思い出を大切な人と共有できることに感謝した。
やがて暗闇に包まれ、車に乗り込み帰路につく。
せつなは思う。どんなに楽しい時間もやがて過ぎ去ってしまう。だからせめて、みんな覚えておこう
って。
綺麗なもの。優しい出来事。楽しい思い出。ひとつひとつ大切に、心の中の宝箱に大切にしまって
おこうって。
そしていつか、伝えて行きたい。広げて行きたい。守って行きたい。
そう――ラブのように。美希やブッキーのように。おとうさんやおかあさんのように。
みんな――――ありがとう。
最終更新:2010年09月28日 22:45