み-305

頭に木霊する美希の声。震える怒声。痛々しい泣き声。底冷えする皮肉。
そして、すべてを諦めたような力の無い呟き。
強く優しく、物分かりの良い美希しか自分達は欲していなかったのだろうか。
励ましてもらった。相談に乗ってもらった。気持ちをぶつけさせてもらった。
ただ、黙って側にいてくれた。
いつだって美希はラブの、祈里の、せつなの気持ちに寄り添おうとしてくれていた。
美希にどれだけ救われたか。数え切れないくらいなのに。


それでも、心の隅にあった冷めた感情。
所詮、当事者ではないのだから。
外側から眺めているだけの部外者だから。


魂に牙を立てられ、血を啜られるような思い。
心を握り潰され、毟り取られるような痛み。
美希には分からない。
自分達の気持ちなんて理解出来ないだろう。
そう、殻の外に美希を閉め出してはいなかったか。


「あたしね、思ってた。思おうとしてた。一番ブッキーが悪いんだって」
「うん…」
「それで、一番馬鹿なのはあたし」
「………」
「一番傷付いたのはせつな。それで、それでね。美希たんは……」
「…………」
「……関係ないって…。こんなゴタゴタ、美希たんには迷惑なだけだろうって…」
「……うん…」
「ブッキーさっきから、うん、しか言ってない」
「うん……」


ひっぱたいてくれた美希の熱い手のひら。
優しく髪を撫でてくれた綺麗な指。
毅然と叱ってくれた声。
何も言わず包み込んでくれた温かな膝。
どうして忘れていられたんだろう。


「ねぇ…美希たん、何か用があったんじゃないのかな?」
突然訪ねて来たわけではあるまい。
自分達の物思いに耽り、外の気配に気付かなかったのは迂闊としか言いようがないが
常の美希なら来る前に電話なりメールなりしそうなものなのに。
ラブの言葉に祈里は痛みを堪えるような顔になる。


「…約束、してたの……」
項垂れ、祈里は背中を丸める。


「美希ちゃんの部屋でね、一緒に勉強しようって…。」
「へ?じゃあ、なんで……」
自分を部屋に上げたのか、そう言いかけてラブは口をつぐんだ。祈里の自嘲があまりにも深そうで。


「忘れちゃったの。ラブちゃんの顔見たら」
ラブが訪ねて来てくれた。会いに来てくれた。例えどんな理由でも。祈里を詰る為だとしても。
ラブが自分から祈里の元へ足を運んでくれた。
舞い上がった。有頂天になったとすら言える。そして。
そして、美希とのささやかな約束など一瞬にして頭から消し飛んでしまった。


「…ブッキー…」
祈里は鞄に手を伸ばし、中を探る。底の方まで落ちていたリンクルン。
チカチカと点滅する光を見て、祈里は一層苦し気に顔を歪める。
何度着信があったのだろう。メールも何通も来てるに違いない。
多分、そこにはいつまで待っても現れない祈里を心配する美希が沢山いる。
この間の買い物。せつなとのやり取りを美希に詳しくは話していない。
それでも美希は何かあったのだと察してくれてる。
ずっと気にかけてくれていた。
電話で、メールで、放課後待ち合わせてお喋りして。美希は無理に聞き出そうとは決してしない。いつも祈里から話すのを待ってくれる。
今日だってきっとそう。
少しでも祈里の心が晴れるように何時間でも付き合うつもりだったに違いないのだ。
連絡も入れず現れる気配の無い祈里にどれほど気を揉んでいたのだろう。
何かあったのかと心配し、出ない電話や返信の無いメールに焦れて。
それならいっそ、と直接訪ねて来たのだろう。


そして、その結果がこれ。
聡い美希は瞬時に理解したに違いない。
祈里は美希の顔を見るまで、いや、顔を合わせた後でさえ約束の事なんてすっかり忘れていた事に。
美希に詫びる事すらせずにひたすら言い訳を並べ、ラブを庇う姿に
どれほどやるせない思いをしただろう。


リンクルンを開く勇気がでない。
メールに溢れているであろう祈里への労りと思い遣り。
それに対峙するには今の自分は愚かすぎる。
その美希の思いを直視する資格など無いように思われた。


「…ねえ、ラブちゃん…」
泣き笑いの形に顔を歪めて祈里が問う。


「わたしって、昔からこうだったのかな……?」
結構、良い子のつもりだった。
少し前なら先約があるのを忘れるなんて考えもしなかった。
学校でだって目立つ存在ではないけど真面目にやってて友人だっている。
獣医を目指してるんだから勉強だって頑張ってる。
誰かの役に立ったり、人に喜んでもらう事が自分の喜び。
せつなの事は。せつなにしてしまった事は、そんな自分がおかしくなってしまったからだと思っていた。


「ラブちゃん、わたしね。せつなちゃんが好きで。好きで好きで好きで好きで………」
狂ってしまったのかと思っていた。
自分の中にあんなにも激しい感情があるなんて信じられなくて。
体を突き破りそうな激情を持て余して。
他の事は何も考えられなくなって。
苦しくて、苦しくて。無理矢理にでも奪えば、解放されるのかも知れない。
だから……。


「でも、違った。全部、何もかも…間違ってた」
やった事も、言った事も、今までも、たった今だって。自分が良い子だったって思ってた事も。
きっと昔から我が儘で自分勝手な人間だったんだ。
自分のやりたい事、欲しいもの。手に入れる為ならどんな事だって出来る卑怯者だったんだ。


恵まれてただけ。
恵まれ過ぎてて、自分がどんな人間か直視せずに済んだだけだったのではないのか。
いつだって欲しい物は手の届く場所にあった。
何かが欲しいと思う前に与えられてた。
両親は躾には厳しく無駄な贅沢はさせなかったが、お金で買える物には元々それほど執着が無かった。
物も愛情も空気のように体を包んでいるのが当たり前で、誰もがみんなそんなものだと思っていた。
自分は与える事に喜びを見出だす人間。
大切な人に笑顔になって貰うのが何よりの幸せ。
そう、信じて疑いもしなかった。


でも違った。
今までの自分を思い返す。
誰かの幸せの為に痛みを堪えて宝物を差し出した事は無かった。
欲しくてたまらない大切な何かを誰かに譲った事も無い。
もし自分の一部とも言えるほどかけがえのない物を手放しても、
それを手にした相手が喜んでくれるなら構わない。
そんな風に思えただろうか。


「無理だよね。だから…こうなってる…」
自分の考えに祈里は茫然とした。
いつだって人に与えていたのは手放しても惜しく無いもの。
身の回りに有り余るおこぼれを上から投げ落として悦に入っていただけではなかったか。
感謝の言葉や眼差しを心地よく浴びたいが為に施しを与えていただけではないのか。


恐ろしい。足元がガラガラと音を立てて崩れていく。
どれほど傲慢な笑顔を振り撒いていたのか。
自分では労りねぎらうつもりで掛けた言葉は本当に相手に届いていたのだろうか。
何もかもが偽りに彩られている気がした。
これっぽっちも優しくなかった自分自身。
せつなの言った通りだ。
馬鹿で、傲慢で、欲張りで。しかもそれを今の今まで実感してはいなかった、残酷なほど幼い自分。
そんな自分にせつながくれたのは、途方もなく甘く優しい罰。


笑顔で側にいる事。
せつなの幸せを見届ける事。


やっと分かった。情けないほど自分を甘やかしていた。
一度だって、本気で自分をどうしようもない人間だと思った事は無かったのだから。
せつなは、そんな祈里でも何とか乗り越えられるだろう甘い甘い償い方を教えてくれたのだ。
せつなの為ではない。祈里が罪に押し潰されてしまわない為に。


「どうしてそう極端なのかなあ……」


よっこらしょ、とラブが祈里の横に腰掛ける。
青い顔で項垂れる祈里の頭をコツンと小突いた。


「天使か悪魔か、どっちかでなきゃいけないってコトないでしょ。
誰だってその間でふらふらしてるもんじゃない?」
「……でも………」
祈里はゆるゆると首を振る。
確かにそうだ。誰にだって天使のように優しくなれる時、悪魔のように残忍になれる時がある。
それでも、と祈里は思う。
いざという時。何か危機や困難に直面した時、天使か悪魔かどちらかにしかなれないなら、
ラブは間違いなく天使になる事を選べるだろう。
大切な人の為に。もしかしたら、見ず知らずの他人の為にさえ我が身を
投げ出せるのがラブだと知ってる。
でも自分はどうだろう。少し前までなら、自分だって天使になれると無邪気に信じられた。
でも、今は…。
息が苦しい。自分が身勝手で利己的な人間だと認めるのがこれほど痛いと知らなかった。
苦痛から逃げ出す人間だと思われたくない。
でも、初めて愛した人を、姉妹のような親友達を裏切り傷付けた自分を
真っ当な人間だと考えるのを己の心が拒んでいた。

お前に愛や信頼を口にする資格は無いのだ、と。


「ねぇ、ブッキー。あたしそんなにイイコじゃないよ…」
ラブはポリポリと頭を掻きながら溜め息をつく。
「今日だってさ…別に、せつなのカタキ取ろうとか、そんなんじゃない」


だって、そうでしょ?こんな事、せつなが喜ぶ訳ない。
余計に苦しませるだけだって考えなくたって分かるもん。
それなのにさ……


「恐かったんだ、あたし」
「……恐かった…?」
「なんか、色々薄れていくのが……」


辛かった。悲しかった。痛くて苦しくてどうしようもなかった。
ただ息をして、生きていくのすら難しい気がしていた。
それでも時間が経つにつれ、少しずつ傷が癒えて行くのが感じられた。
せつなの笑顔に祈里が応え、美希が側にいてくれる。
同じ場所で笑っている自分がいる。楽しいと感じている自分がいる。


何もかも無かった事にしてしまいたい。
また四人で笑いながら過ごして行きたい。
このまま月日が流れ、すべてが遠い過去になってしまえば……。


「ホントは…そうなれば一番いいのかも。ゆっくり傷を治して、ゆっくりお互いを許し合って…」


でも、それは嫌なのだ。とラブは拳を握り締める。


悪夢にうなされるせつなを見る度に、せつなの中に残った祈里の影を感じてしまう。
苦しむせつなを見るのが辛いだけではない。
悔しいのだ。
ずっと大切に守っていきたかった。
手のひらにくるみ込み、胸で温めてきた宝物。
それに理不尽な力で大きな傷を付けられた。
その傷さえ愛しい、そう思えるほど大人にはなれなかった。
穏やかに過ごす四人での時間にふと痛みを忘れている自分に気付く。
束の間の安息に、もしかしたらこのまま。このまま、元に戻れるかも知れないと淡く胸が温まる。
それでも目の前の傷はそれを忘れさせてくれない。
一瞬でも忘れようとした自分が許せなくなる。


忘れたい。忘れられる訳がない。
許したい。許したくない。
戻りたい。出来るはずない。
もし奇跡が起きて時間を戻せたとしても…。
また同じ事が起こるかも知れない。


だって心は変わらないのだから。
どれほど時間を遡ってもせつなを好きな自分は変わらない。
祈里だってそうだ。
そしてせつなも。きっとまた好きになってくれる。
そう、躊躇うことなく信じられるのに。


なのに立ち止まったまま足掻いている。
せつなは血を流しながらも、その傷を抱いていくと決めたのに。
共に歩む為に前を向いているせつなが眩しかった。
せつなが選んでくれた。
私はあなたのもの。そう言ってくれた。
相応しくありたいのに。
薄汚れた嫉妬にもがく姿なんか見せたくないのに。


せつなと祈里が悪夢と言う名の逢瀬を重ねている。
そんな風に感じる自分が堪らなく矮小でいたたまれないのだ。


「馬鹿だよねぇ……。せつなはあたしが好きって言ってくれてるのに。
せつなの隣にいて恥ずかしくないようになりたいのに」


やってる事は逆ばっかだよ。


せつなの中の祈里は消せない。
それなら祈里の中のせつなを真っ黒に塗り潰してしまえばいい。
せつなと同じ目に。別の存在を祈里の奥深くに無理やり捩じ込んでしまえば…。


「何でだろうね。やっちゃった後でないとどんだけ馬鹿か分からない…」
多分、それも間違い。
やってしまった後でも理解なんて出来てないんだろう。
分かったつもりになるだけ。
美希を、傷付け蔑ろにしていた事を今まで気付けなかったように。


「あたしさあ、ブッキーも好きなんだよねぇ…」
「………ラブちゃん…」
「ブッキーもあたしが好きでしょ…?」


コクリ、と頷く祈里を見て、あんなことされたのに、とラブは苦笑いする。
でも本当にそうなのだ。
きっと、途中で止めて貰えなくても。この先悪夢にうなされたとしても。
ラブを嫌いになる自分は想像出来なかった。
羨ましくても、妬ましくても、ラブさえいなければ、とすら思った事はなかった。


「困ったよねえ。恋敵なのに」
「……せつなちゃんも、そうなの…?」
だから、これほどまでに庇ってくれる。
おずおずと尋ねる祈里にラブはあからさまに嫌な顔をする。
この程度の事で一緒にするな、そう顔に書いてあるのがありありと読み取れた。
また不用意な言葉を口にしてしまった事に祈里は身を縮める。


「せつなはブッキーが好きだよ。あたしの為に許さないだけ」
「…………………」
「あたしが…あたしが、ブッキーを許してしまわないように頑張ってるの知ってるから……」
「許して…しまわない、ように……?」
「……ホントに、分からない?」


くしゃくしゃになった表情を隠すようにラブは抱えた膝に顔を埋める。
祈里は頭を振りながら滲んできた涙を必死に堪えていた。
分からないはずはない。
ずっと前から分かっていた。
ラブもせつなも許してくれている。
祈里自身が自分を許せないから罰を与えてくれてただけ。
自分よりもずっとずっと傷付いているはずの二人が、更に我が儘に付き合っていてくれてただけなのだ。


想う相手を諦める。それがどれほど難しいか分かるから。
目の前で微笑む愛しい相手に指一本触れられない。
自分ではない、他の誰かの腕の中にいる想い人をただ見ているだけ。
それがどれほど心を引き絞られるかが分かるから。


ラブにはせつながいる。
せつなにはラブがいる。
それだけで、他に何もいらないから。
だから、すべてを許して痛みを堪えてくれていた。
堪えようと耐えてくれていた。
そして、少し零れ出してしまったのだろう。


荒れ狂う思いの塊をせつなにぶつける訳にはいかない。
それならば自ずと向ける相手は決まっている。


祈里には、傷付いても耐える義務があるのだから。


「ねえ…あたし達、もっと大人だったらこんな風にはならなかったのかな…。
もっと大人だったら、こんな馬鹿な真似、せずに済んだのかな…」


何の覚悟も出来ていなかった。
痛みを引き受ける覚悟も。
大切な人を傷付ける覚悟も。
どんな結果であろうと受け入れる覚悟も。
ただ何もせず、流れに身を任せる覚悟すら。
見苦しく足掻き、自棄になって刃を振り回す。
後で更なる後悔が待っているとも知らずに。


「美希たんに、謝ろっか。二人で…」
「……でも…」


今さら謝罪に意味なんてあるのだろうか。
(アタシは許さないから。)
(これ以上、失望させないで。)
美希の凍えた声が頭を巡る。
裏切ってしまった、どんな時も真っ直ぐに手を差し伸べてくれ続けた人。
美希の瞳から放たれた氷の矢。
そんな視線を幼馴染みに向けなければいけなくなった美希に詫びる言葉なんかあるとは思えなかった。


「許してもらえなくても、さ。悪い事した時は謝らなきゃ」
「ラブちゃん…」


それにね、謝ってもらいたいもんなんだよ。許す、って言ってあげられなくても。


はぁ…。と、深く溜め息をつくラブを祈里は横からそっと見つめる。
ラブは何度こんな溜め息をついて来たのだろう。


「ごめんなさい」
「あたしにはもういいよ。さっき言ってもらったし」
「分かった」
「ああ、でも許した訳じゃないからね」
「うん。それも分かってる」


許す。とは言ってはいけない。
それはラブの意地なのだろう。
祈里は何となくそれを感じ取り、そのラブの気持ちが何故か嬉しかった。
祈里が叶わなくともせつなを想う。
その想いが続く限り、ラブは祈里を許すとは口には出さないつもりなのだ。


許しを請う為に謝るのではない。
少しでもマシな人間になりたいから。
的外れな謝罪しか出来ないかも知れない。
美希やせつなの気持ちなんて分かっていないのかも知れない。


それでも、言葉にしなければならない。
伝わらなくても。撥ね付けられても。
相手を思い、気持ちに寄り添う努力を放棄する言い訳なんてどこにもないのだから。


「ラブちゃん、わたし、謝りたい。美希ちゃんにも、せつなちゃんにも…」


初めて、そう口にした。
みっともなく掠れた声。怯えを隠せない震える唇。
謝罪はいらない。許したくない。せつなには、面と向かってはっきりそう言われた。
やってしまった事を謝るのではない。
余りにも愚かだった自分に気付けなかった事を謝りたい。


せつなが好き。多分、これからも。
美希が大切。それなのに守ってもらって当たり前になっていた。


せめて罪を償うに足る人間になりたい。
甘え、頼り、寄り掛かったままその事に気付きもしない。
そんな人間のままでいて良い訳がない。


急に強くはなれないのは分かっている。
でもせめて…自分の弱さや愚かさから目を背けずに。
一つ一つ、ほんの少しずつでも気付いた事を糧にして行きたい。

もう一度、友達と呼んでもらえるように。




み-362
最終更新:2010年10月20日 22:55