四人は大凧を公園に運んできていた。運ぶこと自体は大変ではなかった。
その大きさに比べて、驚くほどに軽いのだ。それでいて、とても頑丈にできている。あらためて大変なも
のだと感心する。
せつなは緊張した面持ちでタコ糸を握る。凧の骨組みは強靭で、生地も和紙ではなく布地だった。糸もと
ても丈夫な素材で作られていた。
揚げ方の簡単な説明は聞いていた。でも、それは主に怪我をしないための配慮であり、成功を願った助力
ではなかった。
ラブと美希が左右から凧を支える。引っ立てと呼ばれる役目だ。凧の糸が張った瞬間に上に押し上げるよ
うに離す。
祈里は尾っぽ係りだ。尻尾が絡まないように束ねて、凧の浮上と共に手を離す。
揚げるのはせつな一人。それがせつなから切り出した約束だった。
周囲には軽く人だかりができていた。
ジャージ姿の女の子が、大きな凧を抱えて揚げようとしているのだ。人目に付かないようにするなんて不
可能だった。
中にはおじいさんの姿もあった。大凧揚げは危険を伴う。観衆が近寄り過ぎないようにロープを張ってい
った。
「ラブ、美希、ブッキー、準備はオーケーよ。行くわ!」
『オーライ!』
十分な準備運動を終えたせつなが助走のモーションに入る。
ラブたちはカウントを数える。
「「「3――2――1――」」」
『GO!!』
勢いよくせつなが走り出す。放たれた凧が上昇していく。周囲から歓声が巻き起こる。
しかし、それも長くは続かなかった。
風が弱くて浮力が足りないのか、せつなの揚げ方に問題があるのか、たちまち失速して落下してしまった。
がっかりする人々。表情一つ変えないおじいさん。せつなたちは黙々とスタート地点に凧を戻す。
容易なものではないことくらい、始めからわかっていた。
大切な凧を傷付けないように、慎重に準備してから再び走り出す。
しかし、やはり十メートルも揚がらないうちに落下してしまう。
せつなたちはあきらめず、何度も何度も繰り返した。
飽きたのか、諦めたのか、観衆は一人、また一人と去っていく。
開始から一時間が経過したところで、せつなの足がもつれて転倒した。三人が駆け寄る。
せつなの息は上がり、足も腕も震えていた。
大凧の抵抗を受けながら全力で走る。それはタイヤをいくつも引いてダッシュを繰り返すようなものだ。
体力には自信のあるせつなにも、相当に過酷な負担であった。
「せつなちゃん、もうあきらめよう。こんなの一人で揚げられるわけない」
「大凧って、何人かで協力して揚げるんじゃなかったっけ?」
「せつな……。大丈夫?」
「あきらめないわ。無理をお願いするんだから、こっちも無理を通さなきゃいけないの」
せつなは立ち上がり、ふらふらと落下した凧を取りに向かう。
全長四メートル。大凧としては小さな部類に入る。体格のいい慣れた男性なら、一人で揚げてしまう人も
存在する。
でも、せつなの体は女性の中でも決して大きい方ではなかった。まして凧揚げなんて、生まれて始めての
経験だった。
その後も、休憩を挟みながら凧揚げは三時間も続いた。空が暗くなり、これ以上は無理と判断する。
「気は済んだか? 根性は認めてやるがもう諦めろ。凧は返してもらうぞ」
「待って――――ください! まだ降参はしていません!」
「まだやるつもりなのか?」
「期限は決めてないはずです。揚がるまでやります!」
「――――好きにしな。凧は壊しても構わねえが、怪我だけはするんじゃねえぞ」
「ありがとうございます」
せつなは寒い中を一日中付き合ってくれた、ラブと美希と祈里にも丁寧にお礼を言った。
明日からは、なんとか一人でやれるように工夫するからって。
みんな何かを言いかけて、その言葉を呑み込んだ。せつなは一度言い出したら、決して聞くような性格で
はなかったから。
夕刻の桃園家の食卓。
色鮮やかなお刺身が並ぶ。今夜は手巻き寿司だった。
熱々のお吸い物から湯気が立ち昇る。とても楽しい食事になるはずだった。
だけど――――そこに、せつなの姿はなかった。
「ラブ、せっちゃんはどうしたんだ?」
「どこか、具合でも悪いの?」
「そうじゃないんだけど……。凄く疲れてるみたいで、部屋に戻るなり寝ちゃったの」
「凧揚げね、女の子の遊びじゃないのに……。無理して体を壊さなきゃいいけど」
「起こせないのか?」
「ごめん、起こしたくない」
いつもなら、花が咲いたように明るい桃園家の食卓。でも、せつなが一人いないだけで凄く寂しくて。
みんな口数も少なく、静かに食事を終えた。
コンコン コンコン コンコン
時間を開けながらの三回のノック。あゆみがお盆を抱えてせつなの部屋の前で待つ。
普段なら、寝ていても足音だけで目を覚ますような子だ。よっぽど疲れているんだろうと思った。
「おかあさん、ごめんなさい。こんな時間になってるなんて……」
「いいのよ。お雑煮を作ってみたの、これなら消化もいいわ」
一階に降りてちゃんと食べると言うせつなに、あゆみは部屋で食べることを促す。
少し二人で話したいと思ったのだ。
美味しそうにお餅を食べるせつなを、あゆみは優しく見つめる。
別に病気って訳ではないのだから、目が覚めれば元気なものだった。
食べている中で、せつなの手のひらが赤く擦り剥けていることに気が付く。少し血がにじんでいるようだ。
あゆみは救急箱を取りに戻り、手当てをしながら今日の出来事を詳しく聞いた。
「そうだったの。できるなら止めたかったけど、それじゃあ無理ね」
「心配かけてごめんなさい」
「いいのよ、わたしも職人の娘だもの」
「源おじいさまって、どんな方だったんですか?」
「その方と似てるわよ。一針一針心を込めて縫いこんでいくから、畳には価値があるんだって」
「職人って、幸せに対して妥協しない人のことなのね」
「そうね、機械縫いの畳や絨毯なんかとは最後まで相容れない人だった」
そして、そんな自分が時代から取り残される存在であることにも気が付いていた。
だから、圭太郎に跡を継ぐことを勧めなかったんだって。
心が痛む。ここにも――――居たんだ。幸せの輪から外れそうになりながらも、懸命に頑張っていた人が。
きっと、おじいさんと同じような寂しさを感じながら畳を縫っていたんだと。
その技術が自分の代で途絶えることを知りながらも、決して最後まで信念を曲げなかったんだと。
「おかあさん。私はおかあさんが買ってくれたこのベッドも好きだし、ラブの畳のベッドもどちらも好きよ」
「うん、そうね。それでいいのよ」
「凧もおじいさんのためだけに揚げてるんじゃないの。何一つ上手くいかない凧揚げが、楽しいと思ったの」
「せっちゃんを手こずらせるなんて、その凧も相当なものね」
「うん、だから――――思い切ってぶつかってみる。凧にも! おじいさんにも!」
せつなは瞳を輝かせてあゆみに宣言した。精一杯がんばるわって。
あゆみも、それでこそわたしの娘よって、そう言ってせつなを抱きしめた。
そして、紙袋をせつなに手渡す。
それは、圭太郎がデパートを駆け回って探してきたもの。柔らかい羊の毛皮で作られた手袋だった。
これなら手の感覚を妨げずに、糸の摩擦から手を守ってくれる。彼もまた、せつなが諦めないことを確信
していたのだった。
早朝の公園。せつなは凧を支えるための台を作ろうとしていた。棒状で地面に差込むタイプだ。
物干し竿の台座のような形状で、少し引っ張れば倒れてしまうように浅く差し込む。万が一にも凧を引っ
掛けないための配慮だった。
しかし、いざやってみると思うようにいかない。昨日よりも更に浮上具合が悪いように感じた。
手を離す瞬間に、軽く上に押し上げてもらう。ほんの小さな力なのだが、それがないことが原因だと思え
た。
そんなところまで器具で再現はできない。無い物ねだりをしても始まらない、今ある状況で頑張るだけだ。
何度も繰り返し挑戦した。
「あ~もうやってる。せつな、早いよ!」
「見てられないわね、ほら貸しなさい!」
「待たせてゴメンね、せつなちゃん」
「みんな……。どうして?」
「せつな抜きで遊んでも楽しくないよ」
「今日だけじゃ済まないかも知れないわよ?」
「いいわ、冬休みが終わるまでだって付き合うわよ」
「昨日だって、結構楽しかったよ」
みんな、せっかくの休みを返上して付き合ってくれるという。
せつなの胸が温かくなる。勇気が湧いてくる。そう、四人一緒で出来ないことなんてあるわけがないんだ!
「「「3――2――1――」」」
『GO!!』
十メートル、二十メートル、徐々にではあるが揚がる距離が高くなっていく。
しかし、そこまでだった。どうしても風に乗り切らずに落下してしまう。
あるいは、せっかく風に乗ってもバランスを崩して横滑りして落ちてしまう。
おじいさんが言っていた、職人の教えを思い出す。
(迷わず、一心に数をこなせ。後は指が教えてくれる)
一心に数をこなす。でも、それだけじゃ駄目だ!
指が教えてくれる? 指?
今までは、凧の動きを目で追って操作しようとしていた。それではタイミングがどうしても遅れてしまう。
指が握っているのは糸。何のために四十三本もの糸が取り付けられているのだろう?
操作するために決まっている。バランスを取るために決まっている。その四十三の糸を束ねる一本を自分
は握っているんだ!
凧の動きは――――風の動きは糸が教えてくれる。それを指で感じとるんだ。そのために数をこなすんだ。
凧が大きいからって、自分の操作まで大雑把になる必要は無い。
大きくたって、繊細に作られている。そんなのわかっていたはずなのに。
感じろ! 空と自分とを糸で繋ぐんだ。
糸がたるむ前に引いてやる。糸が引っ張られる前に送ってやる。
これは大空と自分との綱引きだ。綱引きのコツなら知っている。ただの力比べなんかじゃないって!
ほんの小さな風を逃がさずに掴む。風に対処するんじゃなくて、風を予測して操る。
徐々に、しかし、目に見えて凧が大きく揚がるようになって行く。
そして、ついに高く、高く舞い上がった!
「やった! 揚がった!!」
「せつなっ!」
「せつなちゃん!」
グングンと高度が上昇する。糸を送る速度が追いつかない。
そして、突風!
せつなの腕がもげそうなくらい強く引っ張られる。両手で支えるものの、体が一瞬浮き上がり引き倒され
る。
そして、そのままズルズルと地面を引きずられた。
「痛ッ――――!」
「せつなっ! 糸を離して!!」
せつなは決して離さない。そのまま数メートル引きずられて凧は落下した。
「くっ、後少しだったのに……」
「せつな、大丈夫?」
「平気よ、少しコツがつかめた気がするの。次は上手くやってみせるわ」
「良かった、でも明日にしよう。もう遅いよ」
せつなは惜しそうにしたが、あゆみのことを思い出して今日は引き上げることにした。
これ以上、心配をかけるわけにはいかないから。
そして、三日目の朝。これまでとは違う、自信を漲らせた表情のせつなが立つ。
目を閉じて静かに時を待つ。風の音を聞いているのだ。
そして、風の流れが変わる。目を開き――――走り出す!
弾かれるように、速く――――鋭く!
「「「3――2――1――」」」
『GO!!』
ラブと美希が勢いよく凧を上に投げ出す。祈里が足をほぐすように広げて離す。
せつなは凧を引きながら糸を操る。
時に引きながら、時に繰り出しながら。
そして、突風!
体重の無いせつなは、力で支えることができない。
右の持ち手を左で支える! 浮き上がった体を空中で丸める!
体が落下する力を利用して、更に凧を引き上げる。
丸くなって座り込み、地べたを這うようにしてコントロールを立て直す。
高く――――高く――――高く――――凧が大空に舞い上がる。
一定以上の高度に達した凧は、抜群の安定感を見せる。
もう、バランスを崩すことはないだろう。
しかし、引き上げる力は強烈だった。有無を言わせない、大空を翔ける風の強大な力。
せつなは、腕が千切れそうになるような痛みに懸命に堪える。
握力も徐々に無くなり、限界を感じた時だった。
「おめでとう、せつな。もういいよね?」
「せつなは立派に一人で揚げきったわ、アタシたちが証人よ!」
「おめでとう、せつなちゃん!」
ラブ、美希、祈里がせつなの持つ糸を一緒に支える。
力負けしなくなった土台に支えられて、大凧は更に大きく飛翔する。
ブ――ン! ブ――ン! ブ――ン! と勇ましい音を鳴らしながら凧は飛び続ける。
後から聞いた話だが、これは風箏(ふうそう)と言って、和凧の特徴であり自慢なんだとか。
パチ パチ パチ パチ パチ パチ
パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ
パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ
あちこちから拍手が巻き起こる。
始めは無理と諦めて去っていった見物人たち。
しかし、せつなはあきらめなかった。その姿に自分を恥じ、こっそりと見守っていたのだ。
大凧を一人で揚げようとしている少女がいる。それが口コミになって、その数は何百人にもなっていた。
そして、その中から一人の老人が歩み寄った。
「よくやったな、お嬢ちゃん。いや、せつなちゃんだったな」
「おじいさま! 見ててくださったんですか!?」
「始めからずっと、この三日間通して見てたぜ。ここまでやるとは思わなかったがな」
「じゃあ、凧を――――また、作ってくれますか?」
「ああ、俺にも火が付いちまったしな。最高の凧をこしらえてやる」
「ありがとうございます!」
「やったね、せつなっ!」
「おめでとう、せつな!」
「わたし、信じてた!」
四人、いや、五人が喜びあう中、たくさんの観衆がその周りを囲んでいく。
昔、凧で遊んだ思い出がよみがえった大人たち。
初めて凧が飛ぶ姿を見た小さな子供たち。
本来は男の子の遊びだった。
それを女の子が懸命に頑張って、巨大な凧を揚げた姿に己を恥じたのだろう。
あるいは血沸き、肉踊ったのだろう。
「その凧、僕にも作ってもらえませんか?」
「あっ、ずるい! 僕も!」
「じっちゃん凧作んのか? 俺のも頼むよ!」
「へっ、待ってな。家から山ほど持ってきてやるからな」
涙ぐんで喜ぶクローバーたち。そして、おじいさんの声も涙声だった。
「僕もやろうかな」
「それじゃあ、私も!」
「あらあら、お父さんたちまで」
「男の人って、こういうのに熱くなるのよね~」
「そこがいいんじゃない!」
圭太郎と正、あゆみにレミに尚子までいた。みんな、せつなたちを見守っていたのだ。
お疲れ様って、労いの言葉をかけていった。
「ふん、この街もまだまだ捨てたもんじゃないね」
「なんだ居たのかよ、梅干ばばあ」
「居て悪いかい? 凧じじい」
「ああ……。俺は凧じじいだ」
駄菓子屋のおばあさんも居た。きっと、ずっと見守ってくれていたのだろう。
ダルマのように着こんだ服装がそれを証明していた。
そして、盛大な凧揚げが行われた。
大小さまざまな凧が、ところ狭しと舞い上がる。
工房の無数の凧もすっかり空っぽ。その分、おじいさんの意欲は充実感で満ちていた。
クローバーたちも、思い思いの凧を揚げている。
おじいさんが、今度は小さな凧を揚げているせつなに話しかけた。
「やってるな、せつなちゃん。凧揚げはどうだ?」
「とても楽しいです。普段は見上げるだけの空が、手を繋いでいるみたいに身近に感じられて」
「それが凧揚げの魅力よ。わかってるじゃねえか」
「それに、コツをつかめたように思うんです」
「ふん、そこはわかっちゃいねえな。俺から見ればまだまだよ。見てな!」
おじいさんは手にした凧を顔の高さまで持ち上げる。
そのまま引きもせずに、スッと凧を離す。
落下するよりも先に、軽く手首をしゃくる。そのままスルスルと糸を送っていく。
まるで魔法でも見ているかのようだった。
おじいさんは一歩も動いていない。手も、小さく軽く数回振っただけだ。
それなのに、凧は空に吸い込まれていくかのようにグングンと高度を上げていく。
あっという間にせつなの凧を追い抜いてしまった。
「すご……い! おじいさまは作るだけじゃなくて、揚げるのも名人なのね!」
「当たり前よ! よく知りもしないものを作れるかってんだ!」
自信満々のそのセリフがおかしくて、せつなはクスッっと笑った。
そして、私もそう思いますって、力いっぱい返事した。
よく知らないものは、作ることもできなければ、広めることだってできはしない。
だから、自分はこの街に帰ってきたのだから。
幸せを学ぶために。みんなを笑顔と幸せで一杯にするために。その輪を大きく大きく広げていくために。
私――――精一杯がんばるわ!
最終更新:2011年10月09日 23:19