殺眼の魔剣 紫陽の花Vol.3

クエスト☆☆☆☆☆

『はぁっ……はぁっ……』
 生物が到底棲めるとは思えぬ温度の洞窟を動く影が二つ。
 その速さからみるに、どうやらその影は走っている様である。
 こんな暑さの中を走るなど、正気の沙汰ではない。
 事実、先行する影に遅れて着いて来る影はかなり遅い。
 繰り返すが、咽返るような熱気が支配するこの地で走るという行為を行う方が愚かなのだ。
 ただ“そこ”にいるだけで体力を奪われる。
 そんな場所を走る者が居る事自体が間違いであると言える。
『嬢ちゃん、もうちょっとでキャンプや。それまで頑張り』
『はぁっ…はぁっ……』
 先行する男からの言葉に対し、後ろの影は無言。
 喋っている余裕等無かった。
 ただ前にいる男についていく事だけで精一杯だった。
 背格好を見る限り、男の“嬢ちゃん”という言葉通り女なのだろう。
 この劣悪な環境の中、いくらハンターと言えども女の身では厳しい。

 女という事を言い訳にする心算は無いのだが、自分を気遣う男と返事が出来ない自分。
 どちらの方が体力があるかは一目瞭然だった。
『次のエリアにモンスターがおらんかったら、ちょっと歩こか。
あんまり急いでフィールが追いつかれへんかったら意味無いしな』
 女に返事ができない事が分かってはいるのだろうが、男が独特のイントネーションで言葉を発する。
 表情から見るにこの男も余裕はなさそうだった。
 男の顔は紅潮し、額からは滝の様な汗が流れている。
 ━━━男の自分が女の前でだらしの無い所を見せるわけにはいかない。
 そう言ったのは目の前にいるこの男だ。
 ならば自分を気遣う言葉を掛けてくれるのも、スピードを落とさずに走り続けるのもそういった考えからなのだろうか。
(暑いのなら暑いって言えばいいのに……)
 少女は言葉にはせず胸の中で言う。
 暑い寒いに男女は関係ない。
 嬉しい事も悲しい事も同じ、突き詰めていけば何事にも男女など関係はない。

 ふと、独り別のエリアに残った男を思い出す。
 あの状況を考えれば、あの場所で戦った方が良い様に思えた。
 自分が足手まといなのは変えられぬ事実だが、それでも一人よりは二人の方が楽に戦えるだろう。
 ひょっとすれば一人なら負けてしまう事もあるかもしれない。
 ならば何故彼は自分と仲間を先に行かせたのだろうか。
 ━━━女である自分に“良いところ”を見せようとしたのだろうか。
 そんな考えが浮かび、リシェスは首を横に振った。
 いくら自分が女と言っても、彼にはオルタンシアという少女がいる。
 恋人なのかどうかは分からないが、あの少女が彼を想っているのは間違いない。
 恐らく彼も少女の気持ちには気が付いているだろう。
 そんな相手が近くにいるというのに、わざわざリシェスの気を引く必要はない。
 彼が女好きという可能性もあるが、そんな風には見えなかった。
 では何故彼は独り残ったのだろう。
 それが分からなかった。

 過酷な環境、通常よりも遥かに強いモンスターがいるこの上位の狩場で。
 独りになるなどという行動は馬鹿げている。
 自分はまだ駆け出しのハンターだが、それでも彼の取った行動は愚かだとリシェスは思った。
(ルー……)
 独り、と言えばルインは無事だろうか。
 彼の事だ、恐らく無事だろう。
 きっとルインならば独りでも大丈夫、そう自分に言い聞かす。
 胸が締め付けられるのは暑さの所為だけではないようだ。
 前を走っていた男が急に立ち止まる。
 何かを確認しているようだが、それ何を意味するのかは分からなかった。
『ヤバイな……』
 男が明らかに不機嫌そうに舌を鳴らす。
 怒っている━━━わけではないようだが、不機嫌なのは間違いない。

『はぁっ……はぁっ……?』
 何が“ヤバイ”のかを聞きたかったが、まだ喋る余裕などない。
 代わりに表情で、疑問をぶつけてみる。
『嬢ちゃん、暑いやろうけどもうちょっと我慢してな』
 熱気が支配する洞窟の中、彼の様子を見るに進む様子は無いようだ。
 彼の目の前には人が通れる程の穴が開いている。
 恐らく次のエリアに進むための洞穴なのだろう。
 その洞穴を前にして彼は足を止めた、それは━━━
『モンスターがいるの……?』
 呼吸を整え、声を絞り出して質問する。
 彼が足を止めたという事は、恐らくそういう事なのだろうが。
 もしその通りなら、またこの熱気の中を全力で走らなければならない。
 だがもうそんな体力は残ってはいない、というのが素直な感想だった。

 唯でさえ暑いこの洞窟の中を走ってきたのだ。
 通常であればこの程度の距離くらいは問題は無いが、この灼熱の熱気が彼女の体力を予想以上に奪っていた。
 そしてもう一つ。
 この狩場にきてからずっと感じていた不快なものがある。
 それは匂い。
 咽かえるほどの匂いがこの地域全般を包み込んでいる。
 卵の腐ったような、鼻に衝く匂いにはどうしても慣れることが出来なかった。
 加えてこの暑さの中の走りこみである。
 いつ胃の中の物が逆流してもおかしくはなかった。
 ━━━仮にも自分は女なので、そういった事はなんとしても避けたかったが。
『モンスターだけならまだええんやけどな……』
 言った男の頬を汗が伝う。
 その表情を見る限り、男にはまだ余裕がありそうだった。
 男は額の汗を腕で拭うと、「ちょっと休憩やな」と苦笑いを浮かべた。

 彼とはどれほど体力に差があるのだろう。
 彼も自分も同じ大剣使いだ。 
 男女の膂力の差は仕方が無いとしても、体力なら━━━
 と考えかけてリシェスは首を振った。
 自分がそれほどの体力をつけれたとして、それは何年も先の話だ。
 それも想像以上の訓練をしたとしてだ。
 何よりも今それが無いのなら意味は無い。
 そんな事を考えるだけ無駄なのである。
『彼氏が心配なん?』
『え……!?』
 予想外の質問に驚く。
 考え事をしていたので、確かに暗い顔はしていると思ったが、まさか彼からそんな質問が出るとは思わなかった。
 それよりも恋人ではない、というのを先に訂正した方がいいのだろうか。
 様々な考えが頭の中を巡り━━━
『あの人は心配じゃないんですか……?』
 口から出たのはそんな言葉だった。

 リシェスの言葉に男は驚いた表情を━━━いやどちらかと言えば呆気に取られた様な表情を浮かべた。
 先ほどの質問に対して自分も恐らくこんな顔をしていたのだろうとリシェスは思った。
 そして、男が急に笑い出す。
 男の笑い声が洞窟に反射したが、その声はすぐに流れる燃える岩にかき消された。
『あの人ってフィールの事か?俺があいつの心配なんてするわけないやん!』
 何がそんなにおかしいのだろうか。
 彼も、独り残ったあの人も同じチームのはずだ。
 仲間の心配をしない方がおかしい。
 文句を言おうと思った瞬間、男の顔が突然険しくなった。
『嬢ちゃんはまだ分からんやろうけどな、これだけは覚えとき。
……どんな窮地に追い込まれても仲間を想う気持ちなんて当てにならん。
自分を助けるのは自分の力だけや。
どんだけ想うとったって力が無ければ相手を狩ることは出来ひんし、相手から逃げる事も出来ん。
その想いがどれだけ強くてもな……』

『どうしてそんな……』
 何か言わなければと思うのだが、男の眼がそれを許さない。
 男の赤い目が、深い色をしたその目がじっとこちらを見ている。
 睨んでいるわけでもなく、ただじっとこちらを見ているだけだ。
 しかしリシェスは何も言う事ができなかった。
『どんだけ祈っても守る事なんて出来るわけないねん……』
 男の瞳が溶岩の朱と交わってさらに深くなる。
 その目に映っていたのは後悔の念か、それとも悲しみの色か。
 男の気持ちを量る事はリシェスには出来そうには無かった。
 きっと彼女がどんな言葉を投げ掛けても、男に届くことは無いだろう。
 “この世界”で生きているのだ、悲しみを背負うハンターは多い。
 両親を失った自分やルインもそうだし、ウォーレンも時折悲しそうな表情を浮かべる。
 独り残ったあの男も恐らくそうなのだろう。
 だがどんな悲しみでも、人と共有する事は出来ない。
 人にとっての悲しみは、その者だけのモノなのだ。

『………』
 何かを言おうと思うのだが、言葉が浮かんでこない。
 男の目からリシェスが視線を外した瞬間、不意に男が背中を向けた。
『お、もう行けそうやな。あんまりグズグズしてたらフィールに追いつかれてしまうし、もう行こか。
━━━嬢ちゃん、さっき俺が言うたこと忘れんときや』
『……はい』
 男の言葉に俯きながら答える。
 男の言葉に納得したわけではなかったが、男の言っている事は正論だ。
 どんな窮地でも相手を思う気持ちなどが守ってくれるわけがない。
 助けれるのはその場にいる人間と自分自身だけなのだから。
 それは分かる。
 分かるからこそ、リシェスは何も言えなかった。
『でもな嬢ちゃん……』
 男が深く息を吐く。

『━━━信じたれへんのとはまた話が違うで?』
『え……?』
 次のエリアに進もうと歩き始めた瞬間、男が呟いた。
 大きな声ではなかったので聞き逃してしまいそうだった。
『俺はあいつの事は心配してへん。そもそもそれは俺の役目ちゃうからな』
 頭に街で待っているであろう銀髪の少女が浮かんだ。
 本当は彼女もこの場所に付いて来たかったのではないだろうか。
 ようやく想い人に逢えたというのに、また街で相手が帰って来るのを待たなければならない。
 それはどんな気持ちなのだろう。
 もし自分が行くと言わなければ、彼女はこの場所に来たのだろうか。
 一通り考えを巡らせてみて、リシェスはため息をつく。
 考えなくても分かる。
 きっと彼女は今不安な気持ちで一杯だろう。
 次の狩りで“彼”は帰ってこないかもしれない。
 如何に“彼達”が強くても狩りにおいて絶対などない。

 ひょっとしてもう二度と逢えないかもしれない。
 そんな気持ちを抱きながら彼女は街で待っているのだ。
『でも……』
 それと男の言葉は関係ない。
 いくら“彼”を心配し想う者がいたとして、仲間である者の心配をしないでいいという理屈にはならない。
『━━━恥ずかしいからあいつには言わんといてな?』
 前に進むのを止め、振り返らずに男が言う。
 リシェスはそれに頷くだけで応えたが、男はその沈黙を答えと受け取ったのか続きを話し始めた。
『俺はあいつを信頼してる。たぶん俺等のチームはみんなそうやと思う。
誰かがやられるなんて思ったことも無い。どんな状況になっても、どんな敵と戦っても。
俺等はきっと勝つと思うし、絶対生きて帰る。
あいつらだってそう思ってる……と思うねんけどな』
 そう言って男は笑う。
 その笑い声に前にいたイーオス達が気付いたのか、こちらを振り向いた。
 それでも男は笑うのをやめなかった。
 ひょっとしたら照れ隠しなのかもしれない。

『まぁなんや、俺等の仲間は絶対帰って来るって信じてる。
だったら……だったら“心配なんてする必要ない”やろ?』
 男が背負った大剣を抜き放つ、瞬間男の手にした鉄の塊から鋭い爪がいくつも飛び出した。
 男が手にしているのはアッパーブレイズという剛剣だ。
 リシェスの持つ大剣とは異なり、鉄系の素材を主とした武器である。
 マカライト鉱石などの希少金属の他に、火竜やドスランポスの鋭い爪を使用している。
 その威力はまさに大剣の面目躍如と言ったところだろう。
 今のリシェスには到底手の届かない武器である。
 その姿に感嘆の息を漏らした。
『イーオスか……ちょっとへばってきてるけど、こんくらいなら問題ないやろ。
━━━心配するのが悪いとは言わんけどな。心配したって意味はあれへん、それは覚えとき。
それやったら信じたる方がええやろ?』
『………』
 言うが早いか男は大剣を振りながら走りだす。

 その時にはイーオス達もこちらに完全に気が付き威嚇の声を上げていた。
 凄まじい熱気の中、男が走る。
 だがそれは全力疾走ではない。
 この熱気の中、全力で走ろうものならイーオス達と戦う前に倒れてしまう。
 こちらに向かってくるイーオスの数を目で数えながら、距離を計る。
 数は三匹ほど、しかし最初の一体に斬りかかるタイミングを間違えるわけにはいかない。
 ハイドとリシェスが持つ大剣は重量故に切り返しがどうしても遅れる。
 特にイーオスなどの素早い鳥竜種を相手にするには向かない武器だ。
 タイミングを外す訳にはいかない。
 外せば次の瞬間にはイーオスに喉を喰いちぎられる。
 先頭は走っていたイーオスと男がぶつかりかけた瞬間、イーオスが宙に浮いた。
 ━━━跳ねたのではない。
 男がその大剣で以って“切り上げた”のだ。

(あの体勢から……!?)
 宙を舞うイーオスの目に輝きはすでにない。
 男は一瞬にしてイーオスを絶命せしめたのだ、それも信じられない方法で。
 女のリシェスであっても大剣を振り上げる事はできる。
 腰を落とし、踏ん張れば超重量の大剣であっても振り上げれるのだ。
 だが、男がやってのけたのはそんなレベルのモノではない。
 走っている途中で、その速度を落とさずに切り上げたのだ。
 凄まじい膂力、目の前で起こっている事だがリシェスは目を疑った。
 リシェスが大剣を振り上げれる理由の一つに、彼女の剣が骨系の武器である事がある。
 しかし男の手にしているのは鉄系のアッパーブレイズ。
 同じ大剣でありながら、彼女のアギトとは重さが違う。
 それを男はいとも簡単に振り上げ、イーオスを吹き飛ばしたのだ。

『はッ!』
 男は息を吐き、アッパーブレイズの柄を握る手に力を込める。
 振り上げられたアッパーブレイズが空中で角度を変え左側にいたイーオスに襲い掛かる。
 斜め上、視界の外から高速で振り下ろされる大剣がイーオスの首に喰らいつく。
 イーオスが苦しそうな鳴き声を上げる。
 首からは鮮血が噴出すが、男はその大剣を止めることなくイーオスを地に叩き伏せた。
 溶岩に蒸発させられた血が異様な匂いを発する。
 鼻を衝くような匂いに咽びそうになる。
 男の一撃は全て必中にして必殺。
 大剣の戦い方としては理想そのものだ。
 目で見たところで真似できるわけではないが、リシェスはハイドから目を離せなかった。
 迫る最後のイーオスにも動じる事無く男は剣を凪ぐ。
 二体目のイーオスが刃に刺さったままであったが、アッパーブレイズの速度は落ちない。
 飛び上がろうとしたイーオスの足をアッパーブレイズが捕らえる。
 空中でバランスを崩されイーオスは為す術も無く地に落とされた。
 足をやられ立ち上がる事も出来ない。
 最後にイーオスが見たのは振り上げられた大剣だった。

 嫌な音がしてイーオスの頭にアッパーブレイズの刃が食い込む。
 リシェスはその瞬間思わず目を背けた。
 ━━━何度経験しても慣れない、命を奪う瞬間は。
 自分がハンターで、“そう”する事が自分の役割だと分かっていても、慣れる事はできなかった。
 矛盾している。
 自分でもそう思うし、分かっている。
 慣れる事が出来ないなら、ハンターなど止めてしまえばいいのだ。
『……どうしたん、嬢ちゃん?』
 リシェスの表情が曇っているのに気が付いたのか、ハイドがリシェスの顔を覗き込む。
 こんな所で暗い表情をしていれば誰でも気にはなる。
『調子悪いんか?キャンプまでもうちょっとやから、それまで頑張り』
 幸いハイドは体調が悪いのだと勘違いしたのか、あまり追及はしてこなかった。
 彼等上位のハンターに“今思った事”を言えば、恐らく馬鹿にされる。

 それはリシェスの勝手な思い込みだろうが、そうされるであろうという確信はあった。
 友人のエレノアにでさえ呆れられているのだ。
 多くの命は奪って、上位に上ってきた彼等ならきっと“そういう事”にも折り合いをつけているだろう。
 彼女の悩みは彼等にとって過去のモノだ。
 問いかければ、多少のアドバイスをしてくれるかもしれない。
 しかし多くの場合彼女の悩みは否定される。
 狩る側にいながら、狩られる命を憂う悩みというのは狩場において足枷にしかならない。
 そして皆それを分かっている。
 だからこそ否定されるのだ。
「━━━そんな事は忘れてしまえ」
「━━━自分達はハンターなのだから」
「━━━狩らなければ狩られるのは自分だぞ」
 口を揃えた様に返ってくるのはそんな答えばかりだった。

『よし、ここを抜けたらベースキャンプや』
 ハイドの明るい声でふと我に返る。
 視線を上げると暗い洞窟に差し込む眩しい光があった。
 その光が差し込んでいるのは人が通れる位の小さな穴。
 ベースキャンプはモンスターが通れない様な道がある場所に作られると聞いたことがある。
 この小さな穴も恐らくその為に選ばれたのだろう。
 長い間洞窟の中に居た所為か、差し込む光がやけに眩しく感じる。
 この洞窟から出れば少しは暑さが柔らぐのだろうか。
 そんな事を考えていると、自然と歩みが早くなる。
 それはハイドも同じだったのか、彼との距離が縮まる事はなかった。
『くぅ~!!生き返るなぁ!!』
 光の差し込む出口を潜ると、視界が真っ白に覆われる。
 立ち眩みにも似た感覚に襲われながら、ゆっくりと目を開けるとそこは先程までの死の世界とは正反対の世界が広がっていた。

 どこまでも広がる青い水平線。
 その彼方には蒼穹の空にかかる雲と、広大な海との境界線が見える。
 自分がつい先程までいた死の世界とは天と地の差だ。
 あの火山の洞窟が地獄ならば、この風景は天国にも等しい。
 頬を撫でる潮風がとても心地良かった。
(あぁ、気持ちいい……)
 心の緊張が緩んでいくのが自分でも分かるが、どうする事もできない。
 ルインや目の前にいる男の仲間は未だあの死の世界の中。
 自分達だけが休んでいて良いはずがない。
 しかしその思いとは裏腹に力が抜けていく。
 だが誰も彼女を非難したりしないだろう、どんなハンターにも休息は必要だ。
「休める時に休んでおくのも必要な事だ」
 自分にそう言い聞かせ、リシェスは目を閉じた。
 静かな波の音の狭間に鳥の声が聞こえる。
 空を見上げると、白い大きな鳥が遥か水平線の彼方へと羽ばたいている。
(エレノア、どうしてるかな……?)
 街に残してきた友人は今何をしているだろう。
 街でウォーレンと散策でもしているのだろうか。
 それとも二人で狩りに出かけているのだろうか。
 いくら考えても友人の状況を知ることは出来ない。
 ならば、せめて無事に再び逢える様祈ろうと、リシェスは再び目を閉じた。
クエスト☆☆☆☆☆<Side Eleanor>
 青い空を白い鳥が羽ばたいていく。
 仲間を呼んでいるのだろうか、鳥が鳴く。
 高く、美しいその鳥の鳴き声は蒼穹へと吸い込まれていった。
 どこまでも青く澄み渡る空。
 そこにかかる雲は少なく、快晴と言ってもよい。
 だが今はそんな事を気にしている場合ではない。
 目の前の驚異に全神経を集中させなければ。
 この広い大空は我が物だと、この空を統べるのは自分だという様に飛ぶ影が一つ。
 優雅に空を舞う様は、まるで外敵等いないというかの様だ。
 事実彼等の種族には天敵はいない。
 強いて挙げるのならば━━━
 いや、挙げる必要等ない。
 我等ハンターは彼等の天敵になど成り得ないのだから。
『………』
 ゆっくりと地に足をつける空の王者の姿に息を飲む。
 ボウガンを持つ手が静かに震えていた。

 怖い、恐ろしい。
 何故こんなモノと戦わなければならないのか。
 最初にこの生物に戦いを挑んだ者は恐らく気違いか何かだろう。
 強固な鱗を貫ける武器があろうとも。
 強靭な爪を防ぐ防具があろうとも。
 脆弱な人の身ではその“衝撃に耐えられない”。
 どれだけ丈夫な武具を纏おうと、中身は耐えられないのだ。
 まして今の自分にはその武具すらない。
 駆け出しのハンターが持つ武器と、申し訳程度の防具だ。
 愛銃のアルバレストは先日の狩りで壊れてしまった。
 修理をするにしてもボウガンの場合は、新しい物を造るのと大差は無い。
 故に素材を集め新調する事にした。
 初めて手にしたボウガンだったので想い入れがあったが、どうしようもなかった。
『……くッ!』
 戦わなければ。
 空の王者はすでに地に降りてきている。

 しかし足が動かない。
 心臓が今にも飛び出しそうなほど鼓動しているのが分かる。
 その音を聞くだけで気分が悪くなりそうだった。
(何故……どうして……?)
 自分に問いかけるのはそればかり。
 どうしてこんな事になったのか。
 自分と共にドンドルマの街に来た友人は別のハンターと狩りに出掛け、残されたのは自分とハンマー使いの男。
 ━━━そして、友人を連れて行った男の仲間。
 その男は有名なハンターであり、ガンナーだった。
 当然その男に興味があった。
 この広く大きなドンドルマの街ならいざしらず、自分のいた村では他のハンターと出会えるなど滅多に無い。
 ましてやガンナーなど尚更だ。
 同じガンナーならばアドバイスの一つでも貰えるかも知れない。
 当然の期待だった。

 同じガンナーなのだ、立ち回りの一つでも聞ければいい。
 その一つのアドバイスが一にも十にもなる。
 そう期待していた。
 だが━━━
『人から聞いた狩猟など役に立つものか』
 男はそう言って静かに席を立った。
 数分後戻ってきた男の手には小さな紙。
 こちらが男の意図を読めずに見つめていると、男は小さくため息を吐くとこう言った。
『狩りの方法が知りたいなら教えてやる。わしのやり方でいいのならな』
 男が手にしているのはクエストの受注用紙。
 本来はクエストボードに貼ってある物だ。
 ハンター達はこの用紙を持って他のハンターの狩りの募集に応じる。
 それを男は持ってきたのだ。
 “狩場に出ろ。そうすれば猟法を教える”と。

 そして今の状況に至るわけである。
 この狩場に独りの状況が、である。
 男は教えるどころか、自分を独り狩場に放り出しただけである。
「まずは戦え、まずはそれからだ」
 そう言った男は今は何処にいるのか分からない。
 当然自分が見える範囲に居る━━━と思いたいのだが。
 ハンマー使いのウォーレンも男と同じく周りに居ない。
 独りで戦わせろ、と男が無理やりに反対する彼を連れて行ったのだ。
 ━━━まずは戦え。
 そう言われてもどうすればいいのか分からない。
 飛び出していって撃てばいいのだろうか。
 否、そんな事をすれば次の瞬間に待っているのは死だ。

 自分に剣士であるリシェスやルインの様に動き回る事はできない。
 ガンナーである自分は彼女等とは違い、走り続けられる体力は無い。
 その上鈍重なヘヴィボウガンを担いでいるのだ。
 重たい武器、という点では大剣使いのリシェスとは同じではあるのだが。
(どうすれば……?)
 無闇に飛び出すことはできない。
 しかし“飛び出していかなければ戦う事もできない”のだ。
(一体どうすれば……?)
 考えている間にも時間は過ぎていく。
 空の王者もいつまでもこのエリアにはいないだろう。
 地形だけ見れば、この《エリア4》は飛竜と戦うのに適している。
 障害物の無い開けた場所であるこのエリアは、戦闘を行うのに十分すぎる場所だ。

 障害物に身を隠す、といった戦い方は出来ないが“そんな事”はどうでもいい。
 飛竜との戦闘において大事なのは、常に相手を視界に入れておくという事である。
 飛竜を見失う、という事はそれは即ち死を意味する。
 生態系の頂点に立つ飛竜の力は圧倒的だ。
 細い木や、藪の中に逃げ込んだところで意味は無い。
 それらの遮蔽物ごと薙ぎ払われるのが“オチ”である。
 飛竜よりも大きな岩などなら、砕かれる心配も少ないだろうが、今度はこちらが相手を見失う。
 相手からこちらが見えないのなら、こちらからも相手が見えない。
 当然の理だ。
 ではどうするのだろうか。
 飛竜にとってハンターの攻撃は大した事は無い。
 一撃で飛竜に致命傷を与えられる程の武器をハンターは持っていないのだから。
 それに引き換え飛竜の攻撃は、その一つ一つが“死”である。
 その巨躯に轢かれただけで、その息吹の一つを受けただけで、或いは尾の一振りで。
 ハンターは一瞬で命を奪われる。

 だからこそ同時に飛び出していく、という訳にはいかない。
 ほんの少しでも攻撃を受ければそれは死に繋がるのだ。
 飛竜とハンター、共に命を賭して戦う者同士だが、条件は対等ではない。
 しかしそれを不条理と呼ぶことはできない。
 戦いを挑んでいるのは人なのだから。
 勝てない戦いならば挑まなければよい。
 ━━━しかし人は挑んだ。 
 己の恐怖を隠すための“小さな武器”と、自らの脆弱さを守る“鉄壁”で。
 恐怖を払拭する武器は持っている。
 身を守る防具もある。
 ならどうするのだろうか。
(私は……!)
 愛銃を握り、エレノアは深く息を吸い込み、同時に岩場の影から飛び出す。

 飛竜の鱗は貫けないかもしれないが、武器はこの手にある。
 飛竜の爪にとっては紙同然かも知れないが、防具は身に纏っている。
 ならば━━━
『後は飛竜の前に立つだけ……!』
 そう、後は目標である飛竜を確認する事。
 敵が見えないのなら攻撃する事はできない。
 敵が見えていないのなら攻撃をかわす事もできない。
 ならば、飛竜の行動を全てを視る。
 どんな小さな動作も見落とさず、確認し続ける。
 それが飛竜との戦いでもっとも重要な事だとされる。
 生物の頂点たる飛竜も、自然の摂理には逆らえない。
 走る前、飛ぶ前。
 動こうとする瞬間、その前には必ず“予備動作”が存在する。
 人とてそれは同じではあるが━━━
『同じであるなら避けれないはずは無い』

 飛び出した少女を見つめる眼鏡の男が呟く。
『………』
 男の傍らには壮年の男が居たが、彼は返事をする事も無く少女を見つめていた。
 壮年の男の眼光は厳しく、それはまるで眼鏡の男を睨んでいる様であった。
 いや、恐らく睨んでいるのだろう。
 理由は聞かずとも分かる。
 火竜の目の前に飛び出していった少女の事だ。
 少女に独りで戦う様、指示したのはこの眼鏡の男。
 この男こそがエレノアに“死にに行け”と命じたのだ。
 空の王たる火竜に一人で、それも駆け出しのハンターが挑むなど馬鹿げている。 
 いくら自分達がここで待機しているからといっても、そんなものは気休めにもならない。
 少女が危なくなった瞬間、飛び出して行ったとして果たして間に合うのか。
 ウォーレンはわざと音を立て、奥歯を噛み締めた。

 その音はガラフにも聞こえたはずだ。
 しかし彼は顔色一つ変えずに少女の動きを見ている。
 少女の動きは単調だった。
 敵の攻撃を避けるのに必死でボウガンを組み立てる事もままならない。
 ボウガンを組み立てれないのなら、少女には攻撃する手段がない。
 そうして逃げ回っているだけでは、いずれ少女の体力が尽きる。
 このまま少女を放っておけば、近い内に少女の敗北が確定する。
 敗北が確定してしまえば少女に待っているのは死だけである。
 “そう”ならない為に仲間が、自分がいるのだが━━━
 今の自分に許されているのは静観のみ。
 少女が命を賭けて戦っているのを、ただ見ていることだけだった。
 それは男の指示であったことだが、彼女が望んだ事でもあった。

 彼女が望んだ、と言えば語弊があるかもしれないが。
 それでも彼女は男の指示を了承した。
 即ち━━━自らの力のみで空の王と戦う事を。
 ならば他の誰であっても手助けをする事は許されない。
 “それ”が出来るのは彼女が助けを求めた時と、残酷な神が彼女を薙ぎ払う時だ。
 しかし彼女は最後の最後まで助力を断るだろう。また助けて、と泣き叫ぶことも無い。
 エレノアという少女はそんな人間だ。
 頑固、というのだろうか。それとも彼女のそれは強情なだけだろうか。
 どちらにせよ彼女が助けを必要とするその瞬間まで、自分には彼女を見守る事しかできなかった。
『………』
 いつでも飛び出せる様に右手でハンマーの柄を握る。
 飛竜相手では熟練のハンターですら一瞬で命を落とす。
 その一瞬の予兆を見逃すわけにはいかない。
 自分がそのタイミングを誤れば、彼女を守る事は不可能に近いのだとウォーレンは自分に言い聞かせた。

 ふと横目で眼鏡の男を見る。
 何をするわけでもない。少女の危機に飛び出す、という様子すらない。
 眼鏡の男もガンナーであったが、彼の相棒は彼の背で折り畳まれている。
 少女の危機を感知してからボウガンを組み立てても遅い。
 それは飛び出したウォーレンが間に合うかどうか、という問題でもある。
 しかし今にも飛び出そうとしているウォーレンと、ただじっと見つめているだけの男とでは雲泥の差があるように感じる。
 どんな優秀なガンナーでもボウガンを組み立てるのには数秒を要する。
 数秒もあるならば、ウォーレンはエレノアの下へと辿り着くだろうし、彼女は命を落とすだろう。
 にも関わらず男は少女の危機に備えるわけでもなかった。
 その様子が妙にウォーレンを苛立たせた。
 距離にして数十歩、自分達から少し離れた場所で少女は懸命に戦っている。
 自分達がもう少し近づけばリオレウスに気付かれるかもしれない、そんな距離だ。
 しかしその距離がとても離れているように錯覚する。
 少女の下に急いで駆けたとして、後一歩。
 そう━━━後一歩届かない事もある。
 ハンマーを握る手が汗で湿っていく。
『恐怖は判断を誤らせるぞ』

『……何?』
 狩場における最大の敵は“恐怖”。
 どんな人間で、どれだけ高名なハンターになっても“それ”だけは克服できない。
 克服した、と言うのならそれは精神異常者か、“死んだ者だけ”だろう。
 人は失う事に恐怖を覚える。それは金や物の様な目に見えるモノであったり、友情や愛といった目に見えないモノ。そして命。
 命を失う事は生きている者全てが抱く恐怖だが、“モノ”を失う恐怖感は人だけなのかも知ない。
『………』
 返答を期待していたわけでは無いが、それでも聞き返したのに何も答えないと言うのは腹が立つ。男の方が自分より格上のハンターであるが、ハンターとしての経歴も、生きてきた時間の長さも、どちらも自分の方が上なのだ。
 敬え、とは言わないが、せめて同じハンターとしては見て欲しいと思うだろう。
 そんな事を思うのは自分が古い人間だからだろうか、とウォーレンは心の中で笑う。
(自分の方が年上……か。そう思う事もあったな)
 こんな時に自分の年齢やハンターとしての経歴を出す事はそれこそ、“自分が格下だと”言う様なものだ。
 狩りをしてきた土地が違うだけで、この眼鏡の男と自分とはそう大差ない筈。
 にも関わらず年齢等を持ち出せば、まるで自分はそれでしか勝てないかの様でないか。
 こんな時は━━━否、こんな時こそ、自分のハンターとしての腕を誇るべきなのである。
『恐怖は判断を誤らせる。それはあいつも━━━お前もだ』

 眼鏡の男の言葉は謎かけの様に感じる。そうする事によって、相手を試しているのかもしれない。だが、そんな言い方をしていれば誤解を招くこともあるし、何よりも自分の真意を相手に伝えにくい。
 十の言葉で相手に説明したとしても、十の内五も理解してもらう事はできない。相手によるが、大体三から四を理解してもらえれば良いほうである。
 そして残りの意味を理解してもらうのに、また十の言葉を使わなければならないのだ。
 数多くの言葉を駆使し、人は初めて人に真意を理解してもらえる。否、実際人の真意を理解できる者など居ないのかもしれない。多くの賢人達が本を著し、後世に伝えるべき世の真理を遺してはいるが、その殆どは理解されないまま風化する。
 ひょっとすれば人の言葉の何と不完全な事か、と嘆く者も居たかもしれない。
『………』
 男の言葉の真意は何だろうと、ウォーレンは考えた。
 あいつとはエレノアの事、そしてお前とは自分である。考えなくてもそれは分かる。
 年下の男にお前呼ばわりされるのは少し抵抗があったが、それを今気にしていても仕方が無い。問題は“何の判断を誤るのか”である。
 判断の誤りは狩場では死に直結する。一瞬の迷いですら命取りになりかねないのだ、それを誤るわけにはいかない。
 自分が計りかねるもの、またそれを回避するにはどうすれば良いのか。ウォーレンは再びエレノアに視線を送り、意識を集中させた。

クエスト☆☆☆☆☆

 どこまでも続く水平線。もしも一人でこの海原に漕ぎ出せば、あっという間に孤独に支配さるに違いなかった。果てしなく続く蒼い海と白い雲が交わる彼方にはいつまで経っても辿り着かないという幻覚を見るかもしれない。
 それよりも問題なのは“揺れ”と孤独だ。彼女達が今いるラティオ活火山に面する海は、南エルデ地方にある内海ではあるが、海である以上揺れる事は避けられない。
 アプトノスの荷車に揺られるのとは訳が違う。時に緩やかに、時に船を転覆するほどに。その激しい揺れに気分を害する者も少なくないという。
 そして真に耐え難きは孤独である。それに打ち勝てるほど、人は強くは無い。
 無限に続くとも錯覚させる海原に自分が唯独り存在しているかの様な孤独感。あぁ、きっと自分には耐えられないだろうな、と少女は笑ってみせる。
 自分が独りになる事など思い帰して見れば、数える程しかない様な気がする。自分の傍には常に仲の良い友人がいたから。両親が死んで、寂しい想いを重ねる夜もあったが、友人が傍にいてくれたお陰で乗り越えてこられた。
 そんな友人も無く、ましてや人もいない海原の真ん中では、数日も持たずに発狂してしまうだろう。
 逆に言えば、船乗りはそんな孤独に打ち勝てるものでなければなれないのかもしれなかった。
 海の色を吸い上げたかのような色を映していた空は、ぼんやりと茜色に染まりかけていた。
もうすぐ日が暮れるのだろう。
『あの小僧……やりやがった……!』
 支給品ボックスと呼ばれる箱を整理していた男が声を上げたのは、そんな時分になってからだった。

 男の声は怒気を帯びており、男が怒っているというのは容易に想像できた。男の頬が紅潮しているのは斜陽せいだけではないだろう。
 リシェスは男の気配にただならぬ物を感じ、先程まで男が漁っていたアイテムボックスに視線を向けた。
 ハンター達の休憩場所とされるキャンプには二つの箱が設置されている。一つは赤い色をした【納品ボックス】。これはその名の通り、ハンターがクエストで採取してきた素材などを入れるもである。今回のクエストは採取ではなく討伐なので当然中には何も入っていない。
 この納品ボックスはリシェスもよく利用していた。フライダムの村に居た時には、討伐のクエストが少ない事もあり、どちらかと言えば採取クエストばかりを請け負っていた。
 薬草とアオキノコを調合し、回復薬と呼ばれる物を納品するといったものもあれば、森に生えている特産キノコを納品するものもあった。
 納品ボックスは討伐のクエストを受けれない初心者のハンターの方が利用する機会も多い、採取だけならば恐ろしいモンスターと戦う必要もないからだ。
 しかし中には上級ハンターでさえも苦戦するような物を要求されるクエストもあるのだという。
 そしてもう一つが、男の目の前にある【支給品ボックス】である。
 こちらは納品ボックスとは違い、青色で染められている。中に入っているのはその名が示す通り、ギルドからの支給品である。納品ボックスと同じ様に安直なネーミングであるが、その役割は馬鹿にできない。

 クエストに出発するにあたってとりわけ必要な物をギルドが支給してくれるのだ。本来ならば必要な道具はすべからく自分で用意するべきである。それを必要最低限とはいえ、ギルドが支給してくれるのだ。
 これが有り難くない筈がない。クエストを受注し、目的地のキャンプに着いたら、まずは支給ボックスを確かめろ。駆け出しのハンターはそう教えられる。
 ギルドから支給される道具を上手く利用すれば、その分必要な道具は減り余計な出費を抑える事もできるし、時には【携帯シビレ罠】や【爆弾】といった貴重品なども支給される事もあ
る。故に駆け出しのハンターに限った事ではなく、熟練ハンターもこの支給品ボックスを軽んじる事は無い。
『ど、どうかしたの……?』
 男の怒りがこちらに飛び火せぬように、リシェスは恐る恐る声をかける。だが男の怒りの炎は余程激しく燃え上がっているのか、リシェスの声に男が気付く様子はない。

 男の肩越しに、先程まで男が見ていた支給品ボックスを覗き込む。中には綺麗に整頓されたギルドからの支給品が入っていた。荒らされた形跡があるわけではないが、どこか違和感を感る。
 クエストに出発した人数分用意されている応急薬。それと携帯砥石が数個。火山に出発するためか、クーラードリンクまでもが支給されていた。
 その他にはというとガンナー用の弾が何種類か入っているように見えたが、リシェスにはそれが何の弾なのかは分からなかった。仮に分かったとしても、今このパーティにはガンナーは
いない。折角支給されている物ではあったが、使い道は無いため弾種が何であろうと意味はな
い。
 しかしこの違和感はなんだろう。
 綺麗に並べられた支給品。その中に何かを感じる。
 この男が怒っている理由もきっと“それ”なのだろう。
『どうかしたのか?』
 あと少しでそれに気が付けそう、という瞬間。まさにその瞬間に声をかけられた。

 その声に驚き、振り返る。そこに居たのは数刻前に別れた男。自分達を先に行かせるために
、単身ドスイーオスを引き受けてくれた男である。
『フィールか……』
 男の声にハイドは振り向きもせずに言う。仲間が帰ってくるのは当然だと彼は言っていた。
ならばハイドが振り向かないも当然なのかもしれない。
 振り返って仲間の安否を気遣う必要もない。帰ってくるのは当然なのだから、無事に帰って
こないはずがないのだから。
 事実振り返った先に居た男は、特に外傷もなく立っていた。灼熱の火山で戦闘をしたのだか
ら当然汗は掻いてはいたが、ただ“それだけ”だった。
 彼の装備は別れた時と同じままの様に見える。土埃はおろか、返り血さえもついていない。
 これでは本当ドスイーオスと戦闘をしてきたのか、と疑いたくなるほどだった。
 だがそれは嘘ではあるまい。
 フィールから感じる気配、鉄錆の香り。リシェスも多少なりとも戦場を潜り抜けてきたのだ
から、それくらいは分かる。

 彼は間違いなくドスイーオスと戦闘をし、そして無傷でこの場所に帰ってきたのだ。それが
どれほど難しい事なのかは言わずとも分かる。
 無事に帰って来る。
 言葉にすれば僅か数文字。だがそれがどれほど難しい事か。
 たったそれだけの言葉を実際に体言しようとして叶わなかった者がどれほどいるのだろうか
。それもまた語るに及ばぬ事である。
『支給品ボックスがどうかしたのか?』
『まぁ見てみぃ』
 言ってハイドが鼻を鳴らしながら支給品ボックスの中を指差す。
『……数が足りないな』
 リシェスが感じた違和感。それはギルドから“人数分支給されているはず”のアイテムが足
りないという事。
 ギルドの使者が人数勘定を間違うはずがない。
 つまりそれは━━━
『そうや、数が足りん。残っている支給品は応急薬と携帯食料に携帯砥石、それに通常弾と貫
通弾と弓に使うビンやな。弾やビンは当然いらんやろ、あの小僧は剣士なんやからな。……ク
ーラードリンクは残していってるみたいやな』
『え……?』

 ハイドの言葉に息を飲む。彼は、ハイドは今なんと言ったのだろうか。
『ルーが……?』
 この支給品ボックスからアイテムを持ち出したのはルインだと言うのだろうか。だが考えて
みれはそれは当然行き着く答えだ。
 この火山の狩場にいるハンター、無くなった支給品。
 ギルドが数を間違えるはずは無い。ならば誰かが持ち出したに違いないのだ。
『ルーは生きてる……?』
 安心からか思わず漏れてしまった言葉にハイドとフィール、二人の視線が集まった。
怒っているわけでもない、呆れているわけでもない。二人の表情はただ厳しかった。
『……?』
『嬢ちゃん、ここから支給品を持って行ったんは嬢ちゃんの連れやろう。あいつは俺等からは
ぐれた後、無事に独りでキャンプに辿りついてアイテムを持っていった。だがな“それから”
どうなってるかは分からへんで?』
『それはどういう……』
『フィール、お前ドスイーオスは仕留めたんか?』
 ハイドの問い掛けにフィールは首を横に振るだけで答える。

 それはルインが生きているという事に影を落とすような答えだった。
 この狩場に未だドスイーオスが生きている。それは単独で行動するルインはもとより、自分
達にとっても好ましくない状況だ。ましてルインはここにドスイーオスがいる、という事実を
知らない。それが彼にとってどんな不都合を起こすのかは想像に容易い。
『だったら……!だったら早くルーを捜しに行かないと!!』
 今にも駆け出しそうになるリシェスを、ハイドは自分の体で阻む。傍から見れば、逃げ出そ
うとしている女を取り囲んでいる悪漢に見えなくも無い。
 だが男の表情は奥歯を噛みしめ、悔しさを湛えている様であった。まるで捜しいけない事を
悔やんでいる様にも見える。
『あかん、“今から”は捜しには行かせへんで』
『どうして!?早く見つけないとルーが!!』
 早く助けに行かなければ危ないかもしれない。そう思った時、すぐに行動できなければ焦り
が生まれる。自分一人が焦ったところでルインを助けれる訳もないし、ましてや彼をすぐに見
つけられる自信もない。
 そんな状況で飛び出しても意味は無いのだが、溢れる気持ちはそれを理解できない。
 目の前の男が遮る道を、男達を振り払って通り抜けられるとは到底思いもしなかったが、彼
等にルインを捜しに行く気が無いのなら自分が行かねばならない。

 今ルインを救えるのは自分だけ。そんな思いがあったのかもしれない。
 だが━━━
『……どうしても行くというなら止めはしない』
『フィール!お前……!!』
 予想しなかった答え。てっきりこの男もハイドと同じく自分を行かせないだろうと思ってい
たのだが。
 それはハイドも同じだったようで、彼に不満の声をあげる。ハイドの顔は怒りで赤く染まり
、彼は今にも爆発しそうだった。
『だが今出て行ってどうする?あいつを見つけられるのか?……それは間違いなく無理だろう
な。ここの地理も掴めていないし、あいつがどこに居るのかも分からない。そんな条件で捜し
たところで見つかるわけが無い』
『………』
 不満そうな視線を向けるハイドをフィールは片手で制し、言葉を続ける。
 彼の言葉に納得はできない、だが理解はできる。フィールの言葉は間違っていないからだ。
 この状況でルインを見つけるのは絶望的だ。
 ルインに合流する気があるのなら、そもそも彼はベースキャンプを動かなかっただろう。

 そうしなかったのは彼にその気が無いということ。このままここで彼を捜しに行ったところ
で、出会える確立は限りなく低い。
 大まかなエリアが決まっていると言っても、道は無限にあるのだ。その中から偶然彼と合流
出来る確立は極めて低い。
 ならばこちらはベースキャンプで待機する方がルインに出会う可能性は高い。双方が動き回
るよりも片方が一箇所に留まっている方がいいだろう。その場所が目につきやすい場所ならな
おさらである。
 いくらルインといえども不慣れな火山地帯を歩けば著しく体力を消耗するだろう。そうすれ
ばきっとルインはこのキャンプに帰ってくる。
 そう彼等は思っているに違いない。
 ━━━だが。
 彼に合流する気がないわけではない。そこがそもそもの思い違いだ。
 ルインは“仲間と合流する気がある”からこそこのキャンプを飛び出したのだ。
 その仲間はフィールやハイドではない。彼はリシェスを捜すために危険を冒している。
 彼には持ち前の俊足がある。しかしリシェスには、彼女には何も無い。
 知識も経験も武器も装備も。何も無い彼女がもし“”一人で放り出された今のなら。
 この瞬間にも彼はそう考えて火山を駆け回っているかもしれない。
 そしてルインがフィールの取り逃がしたドスイーオスに出会うのは時間の問題だ。
 ドスイーオスに出会った瞬間、彼は、ルインはどうするだろうか。

 後の事を考えて戦うのだろうか。それともその場は退き、仲間と合流する事を選ぶのだろう
か。
 もし自分がルインなら、と考えてみるがどの行動も彼なら取りそうで分からない。
 その場でドスイーオスを逃がして、自分より先にリシェスと出会う可能性があると判断すれ
ば、彼は間違いなく戦いを始めるだろう。
 ルインの持っている武器では、この上位の狩場にいるモンスターには効果が無いかもしれな
い。だがそれでも彼は倒すだろう。自分が知るルインは、いや、自分が信じているルインはそ
んなハンターだ。
 けれども彼が即座に戦闘を開始するとも思えない。
 自分の持つ武器がこの狩場において効果が薄いという事くらいは把握しているだろう。
 そう考えるとひょっとして彼は戦闘を避けるかもしれない。
 彼の持ち前の俊足を活かせばモンスターを振り切る事ができるかもしれない。
 ただ、どちらにしても彼にとっては不利な状況には変わりない。
 この灼熱の地は、踏み入れる全ての者の体力を容赦なく奪うし、モンスターも彼が今まで戦
ってきたどのモンスターよりも強力だ。
 戦うにしても逃げるにしても、簡単にはいかないだろう。
 けれど、“だからこそ”。
 だからこそ彼を向かえに行かねばならないのではないか。
 見つかる可能性が無かったとしても。
 ひょっとしてもうモンスターにやられてしまっているのだとしても。
 自分はルインの仲間なのだから。
 彼も自分の事を“そう”信じて、折角戻ってきたキャンプから再び出て行ったのではないの
か。

『……行かないのか?』
『………』
 行きたい。本当は捜しに行きたい。行って彼の無事を確かめたい。
 なのに、足は動かなかった。
 目の前の男が道を塞いでいるわけでもない。後ろの男が自分の腕を捕まえているわけでもな
い。
 だというのに何故か一歩も歩き出せなかった。
『この音が聞こえるか?』
『……え?音?』
 動く事もできずに下唇を噛み俯いていると、フィールがそんな事を言い出した。
 彼の言う通り、耳を澄ましてみれば音が聞こえる。何かが動くような、鈍い音だった。
 時としてその音は振動となり、体を揺らしてくる。まるでこの火山全体が動いているかの様
であった。
 実際としてこのラティオ活火山は現在も活動中なので、こういった音が聞こえたとしてもな
んら不思議はないのだが。
『この音は火山の胎動だ。お前もさっき見ていただろう?この火山は休火山ではない。赤いマ
グマを吹き上げ、地盤を飲み込み、また吐き出す。この音は火山が活動を始めた音だ』
『活動を……始めた?』
『このラティオ火山はな、嬢ちゃん。夜になれば活発に動き出すねん、昼間には大きな地震と
かはあんまりないねんけどな』
 疑問に答えたのはフィールではなく、ハイド。面白くなさそうな顔をしながらため息をつい
ている。
『“それ”が俺が嬢ちゃんを今行かせたくない理由やねん。夜になると活動が活発になるっち
ゅーことはやで?いつマグマが溢れてくるか分からへんねん。すると今まで通れた道が急にマ
グマで塞がれてるっちゅー事もある。そのせいで進退窮まる事もあってな、そうなったら最悪
火山の真ん中に取り残されるって事にもなりかねへんねん』
 そうなればどういう事になるかは分かりきっている。

 この上位の狩場での単独行動はあまりにも危険すぎる。一歩また一歩と歩くごとに死神の手
が絡み付いてくる様なものだ。その手に足を取られたが最後、訪れる未来は死以外はない。
 彼等ならばモンスターに囲まれても何とかはできるかもしれない。
 しかしこの火山での最大の敵は“熱”なのである。生き物である以上は耐えられる温度には
限界があるし、また燃え盛る溶岩の中には入れない。
 クーラードリンクがあるとは言え、あくまで一時の間身体に篭る熱を緩和してくれるだけな
のである。その効果はあくまで緩和であり、無効化ではない。
 また発汗による体力の消耗も著しい。適度に水分を補給しなければ、熱中症で瞬く間にあの
世逝きだ。
 話をしている今この間にも地鳴りは続き、火山は噴煙を巻き上げている。
 きっと恐らく火口からは恐ろしい勢いで溶岩が流れ出しているのだろう。その速度は恐らく
考えているよりも速い。
 人が想像する溶岩の動きは緩慢だが、少し目を離せばあっという間に目の前という事もある
。モンスターを戦っている間に退路を塞がれ、気が付けば回りは溶岩の海という事も十分に有
り得るのだ。
 そうなればただ座して死を待つのみ、である。
『ひとまず火山の活動が緩やかになるのを待つしかないな』
 そう言ったフィールの表情は、この火山の空模様を映したかの様に重かった。
クエスト☆☆☆☆☆<Side Eleanor>
 蒼穹に響く銃声。それを追いかけるように大気を震わす怒号が響いた。
 小さな少女の目の前には赤き空の王。その瞳に怒りの色が灯ったのは気のせい等ではないだ
ろう。
『……うっ!』
 思わず耳を塞ぎたくなる。
 この赤き王の姿を見る度に、咆哮を聞く度に身体が震えてくる。
 その原因は少女が負った小さな傷。ほんの小さな傷ではあったが、それは抗いがたいもので
もあった。
 距離を取らなければ。
 ━━━逃げろ。
 体勢を立て直さなければ。
 ━━━逃げろ。
 次に撃ち込む弾の準備をしなければ。
 ━━━逃げろ。
 赤き王を倒す為の手段を頭で考えながらも、その心は逃げ出すことだけを考えている。
 このままではいけない。そう思っても震えは止まらなかったし、心の声が止まる事も無かっ
た。

(震える手を何とかしなければ……いえ、それよりもこの足を……)
 ボウガンに弾を込める手が震えている、もういくつ弾を取りこぼしただろう。狙いも上手く
定まらない。落ち着いて撃てば当たるはずだ。当たるはずなのである。
 しかし震える手は止まらず、足は竦んで動かない。
 頭では分かっている、後は勇気を以って恐怖を払拭するだけだ。
 脅えることははない。どうせ飛竜の前ではこの命など塵にすぎないのだから。
 空の王の翼の羽ばたき一つで人の命など簡単に吹き飛んでしまう。 
 人の命などその程度のモノなのである。
 ならば━━━
『む?まずいな』
 エレノアの目に今までとは違う光が灯る。薄暗い、或いは無色の光が。
 ここに来てようやくガラフが動きを見せた。
 ポーチから素早く薬莢を取り出し、ボウガンに装填していく。
 手馴れているのであろう、流れるような動作でそのスピードはエレノアのモノを遥かに凌ぐ
。ボウガン自体の機構の差もあるのかもしれなかったが、それでもガラフの動きは目を見張る
ものがあった。
『何がだ?』
 いきなりの事にウォーレンは正直戸惑っていた。
 これまで静観を決めておきながら、急に取る行動だからである。 
 危うい戦いを繰り広げているが、エレノアが特に窮地に立たされているというわけでもない

 いつでも飛び出せるように、ハンマーの柄を握り締めながらウォーレンはガラフに問う。
『分からんのか、このままだとあいつ死ぬぞ』
『なッ……!?』
 背筋が凍るような感覚に囚われる。
 目の前の男が言っているのはただの予想に過ぎない。
 この男がどれほどのガンナーとしての才を有していようと、未来を覗くということはできな
いはずだ。
 恐らくは自分のガンナーとしての経験を以って、エレノアの危機を感じ取っているのだろう
とウォーレンは思ったが、それでは払拭できない不安を覚えていた。
『次にリオレウスが振り返ったら“恐らく吼える”。その瞬間に飛び出せ、何も考えずに飛び
出すだけでいい。後の調整はわしに任せろ』
 ガラフの言葉を聞き、理解するまでの間にリオレウスを視界に収める。その瞬間、空の王の
瞳に明らかな怒りの火が映る。
 タイミングを間違えば飛び出した自分もリオレウスの咆哮に捕まってしまう。
 幾度の死線を潜り抜けたウォーレンですら、本能が感じる恐怖には抗えない。王者の咆哮は
それだけで人の動きを封じる鎖と成り得る。
 己が胆力で弾き返せるほどの声量になった瞬間を見計らわねばならなかった。
『行け!!』
 ガラフが叫んだのと、リオレウスが吼えたのはほぼ同時だった。
 エレノアの顔が凍りつくのが見える。それは痛いほどの絶望感を漂わせていた。

 リオレウスの下に辿り着くのが早ければ、自分も王者の咆哮に捕らわれてしまう。遅ければ
、リオレウスが先にエレノアの命を奪うだろう。
 このタイミングでいいのだろうか。ウォーレンは自身に問い掛けながら、ハンマーを握る手
に一層の力を込めて走る。
 後ろではガラフがボウガンを鳴らす音が聞こえた。
(まさかこのタイミングでボウガンを仕舞うだと!?)
 先程弾を込めていた時にすでにボウガンは組み立てられていた。ならば今の音は━━━言う
までもない。
 ガラフはボウガンを折りたたんだのだろう。
 何のためなのかは分からないが、実際“そう”なのかを確認している暇もない。馬鹿な、援
護するのではないのかと文句を言っている暇は無いのだ。今はただエレノアを援護する為に一
歩でも早く進まなければ。
 リオレウスの咆哮に鼓膜を激しく痛めつけられたエレノアは、顔面を蒼白にして呆然として
いる。大気を震わすほどの声量だ、至近距離ではなかったにしろ、多少は聴力に影響が出てい
るかもしれない。

『エレノア!!』
 彼女の名を叫ぶ。リオレウスの注意は未だ彼女を向いたまま。
 一歩、また一歩の足を踏み出すたびに上昇していく体温とは裏腹に、背中では嫌な汗が流れ
ている。
 彼女を救うのが先か、それともリオレウスが彼女を殺す方が先か。それは微妙なタイミング
であった。生か死か、彼女の置かれている立ち位置は非常に曖昧な場所だが、まだ彼女を助け
る事ができる。
 ほんの数秒。彼女が生きるのにせよ死ぬにせよ、結末が訪れるのは僅かな刹那の後。その先
に待っている未来は希望か絶望か。ウォーレンは一瞬の間に様々な事を考えていた。
 狙うは一点、火竜の頭部のみ。空の王と称されし火竜の顔に、全力でハンマーを叩き降ろす
。生物である以上弱点は頭部、活動の中枢を担う脳が破壊されて生きていける生物等存在しな
い。
 そこに超重量である鉄の塊がぶつかるのだから殴られた方もたまったものではないだろう。
 一撃で命を奪う事は不可能であったとしても、与えられるダメージは計り知れない。また強
列な衝撃は脳を揺さぶり、瞬間的に意識を途絶えさせる。
 それはハンマーにしか成し得ない事であり、ハンマー使いが狙うのは頭部のみとされるほど
ある。ウォーレンも例外ではなく、効果的に頭部へのダメージを与えられるのは、自分達ハン
マー使いだと自負していた。

 心の臓が激しく脈打つ。自分の鼓動以外は何も聞こえなかった。
 煩わしく辺りを飛び回るランゴスタの羽音も、空の王者の唸り声さえも。ウォーレンの耳に
は届いてはいなかった。
 だが彼はそんな事に構いはしない。一撃、そうただこの渾身の一撃を火竜に叩き込む事だけ
を思っていた。
 故に辿り着く集中の境地。それがウォーレンを包む静寂の正体である。
 一秒、或いはそれより細かな刹那。その断片毎に景色が動いていく。一瞬一瞬の連続。緩や
かに映し出されていく現実。その時間はとても長く感じられた。
『ふんッ!!!』
 彼の掛け声と共に裂帛の風切り音を立て、激鎚が振り下ろされる。空気を切り裂く音はまさ
に轟音であった。ハンマーによって“抉り取られた”空間が、真空となってハンマーを追いか
ける。
 間に合った。
 彼はそう確信した。この一撃で火竜は確実に怯む。そして次の瞬間にはエレノアを連れて逃
げる事もできるであろう。ガラフに期待するわけではなかったが、ここにきてあの男が何もし
ないという事もないだろうと、ウォーレンは胸の中で安堵の息をついた。

しかし、振り下ろされたハンマーから腕に伝わる衝撃はなかった。
『後ろに……ッ?!』
 自身が予想していたのより僅かに遅れて、衝撃が柄を介して伝わってくる。それは飛竜の頭
ではなく、ウォーレンのハンマーが地面を打ち据えたからだ。
 予想とは違う衝撃に思わずハンマーを取り落としそうになる。こんな事で武器を手放す事は
ないが、それでも手首に受けた衝撃は完全に想定外であった。ひょっとしたらどこかの筋を痛
めているかもしれない。 
 だが、今はそんな事を言っている場合ではない。
 火竜の頭部を確実に捕らえたと思っていたハンマーは空を切った。
 その理由は簡単なものであったが、ウォーレンがその事態き気が付くのに一瞬の遅れがあっ
た。それは油断であったとも言える。
 “確実に”火竜の頭を叩き伏せれるという自信、その慢心がこの状況を作りだしたのだ。
 ウォーレンがハンマーを振り上げた瞬間、火竜は“後ろに下がった”のだ。大きな翼を持つ
火竜と言えども急には飛び上がれない。前や上であるならともかく、瞬時に後ろに下がれる程
の浮力を得ることは難しい。
 事実火竜が下がったのほんの数メートルである。だがその数メートルで十分なのだ。ウォー
レンの持つハンマーという武器は、少しでも動けば手が届かないという武器なのだから。

『くッ!!』
 振り下ろしたハンマーの勢いは完全に死んでしまっている。咄嗟に回避に移ろうにもハンマ
ーの重量がそれを遮る。完全に油断していた自分をウォーレンは呪った。
 後ろに下がりながら開かれる火竜の口には紅蓮の炎。この王者が火竜と呼ばれる理由である
炎が蓄えられていた。
 このタイミングでは逃げれない。
 攻撃を行うタイミング、避けるタイミング。その全てを外したと心で悪態をつく。だからと
言ってどうなるわけでもないのだが。
 エレノアを助けようと焦った自分が悪い、それは分かっている。高鳴る心音を聞きながら、
ウォーレンは静かに火竜の炎を見つめた。
 火竜の視線から見れば狙いは自分である、避けることは不可能だ。直撃すれば唯では済まな
い。良くて重度の火傷、悪くて━━━。
 激しい鼓動とは裏腹に、時間が過ぎるのは酷くゆっくりであった。
 自分の心音がこんなに激しいものかと疑いたくなる。まるで胸に直接耳を当てて聞いている
かのようであった。

 短い一瞬の間に様々な事を思った。今までの事、そしてこれからの事。自信の思うとおりに
生きてきたつもりではあったが、やはり後悔する事も多かったと思う。
 自分の事、仲間の事。考え出せばきりが無かった。もしも自分がこのまま火竜に焼かれてし
まったとして、あの男はエレノアを助けてくれるだろうか。
 最後の最後にして思いついたのはそんな事であった。
 そして次の瞬間、彼の視界は白に包まれた。
 辺り一面を支配する真っ白な風景。それは極寒の地にに一人放り出されたとしても、このよ
うな景色にはならないだろう。どこを見渡しても続く白い地平線。そんな中に一人だけ取り残
された感覚。瞬時に自分が死んだのだとウォーレンは思った。
『私は……死んだのか。━━━それにしても静かだ……』
 自信の感覚があってない様なそんな曖昧な世界。先程まで聞こえていた自分の心音も今は鳴
り止んでいる。本人が死んでいるのだから、心臓が動くわけが無い。そう考えると妙に納得し
てしまった。
 一瞬一瞬が連続で続いているそんな感覚に囚われる。この白い世界に時間の流れがあるのか
どうかは分からなかったが、ウォーレンはこれが一瞬の出来事の様な気がしていた。
 そしてどれくらいの時間が経ったのか分からなかったが、彼の耳に一つの音が届く。
 小さな音だった。何がが割れる様な音。小さなガラスの玉を割ればこんな音がするのかもし
れない。

 続けてやってくる破裂音。そして━━━火竜の絶叫。
 一瞬のうちに様々な音が耳の中へと飛び込んできては、駆け抜けていく。その恐ろしい勢い
に気が狂いそうになりそうだった。
 白面の世界から現世へ。駆け巡る爆音と共に感覚が戻ってくる。それは失った視力が戻って
きているのだと気付いたのは転倒し、もがいている王者の姿を見てからだった。
『これは……』
 再び大きくなる心音を聞きながら状況を把握しようと辺りを見回す。
 逃げられないはずだった火竜の炎は自分を焼いておらず、かの王者は地に臥し足掻いている
。判断は一瞬だった。やるべき事は身体が覚えている。この火竜は間違いなく“目を回して”
いる。
 いつの間にか、或いは最初から手放していなかったのか、巨大な鉄塊から延びる柄に力を込
める。
 気が付けば走っていた。
 つい先程まで自分が死んでいた、などと考えていたのが馬鹿らしくなる。自分の身体はまだ
動くどころか、傷ついてさえいない。
 死を覚悟した瞬間には走馬灯というものが見えるらしいが、自分が視たものがそうであった
のだろうか。
 臥した火竜までは後三歩。
 一歩目でハンマーを構える。今なら文句無しに最高の打撃を行える自信があった。力を込め
膨らんだ筋肉で手甲がぎちり、と音を立てた。
 続く二歩目。後ろから音が追いかけてきてはウォーレンを追い越していく。恐るべきスピー
ドで放たれた“それ”は火竜に当たるたびにその硬い鱗を弾き飛ばしていく。
 そして三歩目。
 王者の瞳に未だ光は戻らない。渾身の力を込めたハンマーがその頭目掛けて振り下ろされる

 手に伝わる鈍い感触。これが気持ち良いという人間もいるがそうで無い者もいる。ウォーレ
ンは後者の人間だった。いくら命をかけて戦っているといっても、相手が憎いわけではない。
頑強な鱗を弾き飛ばし、肉を押し潰し、命を奪う。そんな行為が気持ち良いわけがない。
 だが、そんな思いと裏腹に自らの感情が昂っているというのもまた事実だった。
 自らの考えが矛盾しているのは分かってはいるが、認めたくはなかった。他者の命を嬉々と
して奪うような者にはなりたくなかったのだ。
 自分達はハンターである。その武器で強大な飛竜に挑み、己の力だけで打ち倒す。それがハ
ンターとしての誇りであった。命を奪うのが嬉しいわけではないのだ。
 ウォーレンの持つハンマーが大地を割った瞬間、火竜が一瞬動きを止める。だがそれは僅か
に一瞬だけの事であった。
 それを見越しているかの様に、彼の後ろから飛んでくる音は止む事無く飛来している。時折
大きく間を空けながら、規則正しく撃ち込まれている。
 火竜の前に立つ人一人を避けながら、それでも外す事無く火竜に弾を撃ち込んでいる。
 飛竜は巨大ではあるが、その前に人が立てばもちろん狙い難い。まして遥か後方から狙うと
なれば尚の事である。エレノアにそんな技術があるとは思えない。今この狙撃を行っているの
はあの男だ。
 一歩間違えば自分の命に関わることではあるが、ウォーレンは微塵も恐怖を感じなかった。
彼の直ぐ横を音が駆けていく。もしも腕にでも当たれば千切れるかもしれない。もし胴に当た
ば鎧を貫き、臓腑を抉るだろう。
 しかしそんな恐怖は一切湧いてこなかった。先程の感覚からまだ全てが復活したわけではな
いのかもしれなかったが、どこかであの男を信じているのかもしれない。

 初めて会ったばかりの人間を信じているというのは我ながら情けないとは思うが、ガラフに
はすでに命を一度救われている。
 一度でも命を救われたのなら、その恩義に対して信頼を返すのは当然である。そしてあの男
はその信頼を受けるに十分な技量がある。
 ガラフの考えの全てを知ったわけではない。話していない事も多々あるだろう。
 この男の事を信用しているわけではない。だが信頼はできるとウォーレンは思った。
 頭部に幾度も重い衝撃を受けながらも火竜が立ち上がる。その瞳の色を見えれば火竜が受け
たダメージは容易に想像できる。
 脳の損傷はそのまま生命の危機に直結する。それは人であろうと飛竜であろうと同じ事だ。
どんな生き物でも脳を失っては生きてはいけない。
 堅い甲殻を纏った王者の頭はウォーレンのハンマーによって見るも無残な姿になっている。
 夥しい量の血を吹き、鱗は剥がれ落ち、肉が見えている。後一歩でこの王者の命に到達でき
る。リオレウスの命はまさに風前の灯であった。
『ぬぅんッ!』
 振り下ろしたハンマーの勢いをそのままに、ウォーレンが鉄塊を下から上へと振り上げる。
それは何十キロとあろうと言う塊の鈍重なスピードではなく、恐ろしいほどの速度であった。
 この一撃で火竜は墜ちる。ウォーレンはそう確信した。

 しかし火竜は身を捩りウォーレンの渾身の一撃を躱す。
 ━━━空振り。それは予想していなかった出来事。
 そうなれば今度は空を切ったハンマーに振り回されるのはウォーレンである。
 一度速度が付いた重量物を止めるには生半可な力では不可能である。
 ウォーレンは何とか転倒はしなかったものの、踏みとどまる事で精一杯であった。背中に冷
たいモノが流れるのを感じる。今のウォーレンにリオレウスの攻撃を避ける事はできない。
 だが予想を反して飛竜は飛び上がった。
 それを逃すまいとガラフは尚も弾を撃ち続けるが、リオレウスが飛び上がる方が早く弾は当
らない。
 追い詰められたのはこちらも火竜も同じ。ウォーレンとしてはここで一度距離を置きたかっ
た。ガラフがもしもリオレウスの翼でも打ち抜けば、その痛みにリオレウスが耐えれなければ
この場での戦いが続く。
 気弱になっているわけではなかったが、それでも消耗しているのは確かであったので一度仕
切り直したかったのだ。
 火竜にとってもそれは同じであったのかもしれない。
 ウォーレンがハンマーでの一撃を外した時、火竜は攻撃する事よりも自らの身の安全を優先
した。
 一度流れを失ってしまえば済し崩し的に敗北する事もある。王者はそれを本能で悟ったので
あろう。

『ふぅ……』
 飛び去るリオレウスを視界の端に収めながら被っていたヘルムを脱ぎ捨てる。大量の汗が吹
き出すほどに体温が上昇していたので、常温の風ですら心地良かった。
 リオレウスの飛び去った方角を確認する。森ではない、丘陵がある地帯へと向かっている様
子であった。恐らく巣に戻るのであろう、最後の一撃が余程効いていたのかもしれない。
 後は巣に戻って休眠しているところを一気に畳み込むだけだ。狩りの中で一番緊張する瞬間
である。
 勝つか負けるか。
 それは最後まで分からない。ハンターか飛竜か、そのどちらかが地に倒れるまでどちらの勝
ちなのかは分からない。例え飛竜を打ち倒したとしても、戦いの最中に受けた傷が原因で帰り
の道中で息を引き取るハンターも少なくは無い。
 飛竜を倒し、無事に街に戻るまでは安心はできないのだ。
 巣に戻り、傷を癒そうと眠っている飛竜を見て安心するハンターは多い。
「もう倒せる」
「これで俺の勝ちだ」
 そう言うハンターは非常に多い。
 そしてそう言って飛竜に攻撃を仕掛けたハンターがどうなるかをウォーレンは知っていた。
 眠っている姿は飛竜であっても可愛いものだ。何せ無防備のまま眠っているのだから。
 しかしその姿に油断すれば、形勢は一気に逆転する。
 どれだけ愛らしかろうと、どれほど無防備だろうと。
 その瞬間で倒しきれなければ、今度はこちらが追い込まれる番になるかもしれない。
 死の淵まで追い込まれた飛竜は、文字通り死力を尽くして襲い掛かってくる。その猛攻を抗
えなければ命は無い。
 故に油断してはいけない。
 ここが。この瞬間こそが正念場であるのだ。

 手に持つハンマーに視線を向ける。飛竜のの体液や血、鱗の破片などが付いてはいたが、砥
石を使ってこそぎ落とすほどでもない。
 しかし念の為にも砥石を使っておいた方が良いかもしれないと、ウォーレンはポーチから砥
石を取り出した。
 ハンマーの場合、他の大剣や片手剣などとは違い刃こぼれする事は無い。しかしその代わり
モンスターの体液や鱗がハンマーに付着する。それを時折砥石を使って落としておかないと打
撃の瞬間、“滑る”のだ。
 そうすれば威力は半減するし、余計な力を使うことになりかねない。
 どんな武器であれ、状態は万全にしておくに限る。
『後一歩だったな』
 背後からかけられた声に振り向くことはせずに意識だけを向ける。この男と向き合って話し
をしたところで━━━
『後一歩でお前とエリーは死んでたのにな』
 この様にこちらの感情を逆撫でする様な事を言うだけだ。
『…………』
 だがガラフの言うとおりであった為、反論はできなかった。火竜が後ろに下がった瞬間、こ
の男が閃光玉を投げてくれなければ自分は間違いなく重症を負っていた。
 あの瞬間、あのタイミングで飛んできた閃光玉のお陰で自分は無傷だったのは言われずとも
分かっていた。
 組み立てたボウガンに弾をリロードしておきながら、一度畳んだのは恐らく閃光玉を用意し
ていたのだろう。それを確かめずに飛び出した自分が悪い事は明らかだった。

 とは言え、あの状況ではそんな事を打ち合わせている時間等なかった。自分がもし閃光玉を
持っていたとしたら間違いなく使用していただろうが。
『ウォーレン……』
 息も絶え絶えに自分の名を呼ぶ声。余程消耗したのだろう、その声にいつもの力強さはなか
った。もっともあの火竜相手に一人で立ち回ったのだから当然と言えば当然かもしれない。
『エレノア、怪我は無いか?』
『私は……大丈夫です。それよりウォーレンは?』
 こんな時くらい少しは弱音を吐けば少しは可愛らしく見えるのに、とは思うが決して声には
出さない。そんな事をすれば彼女の気持ちを踏み躙るだけである。彼女が気丈に振舞うにも理
由があるのだろう。それを無視したくはなかった。
『私も問題は無━━━』
『嘘をつくな、死に掛けてたくせに』
 言いかけた言葉をガラフに遮られる。
 確かに火竜が火球を吐き出そうとした瞬間、あの瞬間には死を覚悟した。だが死に掛ける様
な怪我を負っていているわけではない。この男に救われたのは事実ではあったが、死に掛けた
と言われるには抵抗があった。
『…………』
『そう怒るな、死に掛けたのは事実であろう?』

 そう言うとガラフはにやりと笑ってみせる。まるでウォーレンが飛び出したのも、自分が閃
光玉を使ってリオレウスの動きを封じたのも計算どおりだという様に。
『さて次はわしも戦うぞ。とは言ってももうレウスは虫の息だが』
 今度はエレノアを一人で戦わせる気は無い様であった為、彼女は大きく息をついた。さすが
何度も自らの手に余る相手た戦わされれば身が持たない。
 今でさえ足は悲鳴をあげ、身体はまだ震えている。よく命があったものだと自分でも思う程
であった。
『その前にエリー。お前に言っておきたいことがある━━━ん?なんだ?』
『あ、いえ……エリーというのは?』
 エレノアの質問にガラフはきょとんとして見返してくる。簡単な質問に答えが分からない子供を見るような目だ。
『エレノアだからエリーだ』 それでもガラフは答える。その目は「なぜそんな質問をするのか分からない」といった風で
あったが。
『そ、そうですか……』
『む?不満か。わしは別に“えれのあん”でもいいんだぞ?』
『エリーでいいです……』
 愛称で呼ばれる事に不満はなかったが、さすがに二つ目の名だけは遠慮したかった。天才的なガンナーの腕と物事を予知するセンスはあっても名付けのセンスはないのかと、エレノアは心の中で笑う。いくら天に愛されようと二つも三つも才能を与えてはくれないのかもしれない。
 そして愛称で呼ばれる事が妙に気恥ずかしかった。今まで友人にもその様な名で呼ばれた事はない。それが“エリー”などと言う可愛らしい名前であれば尚更の事である。
 そんな動揺を男にばれない様にとエレノアは必死に照れ笑いを堪えた。

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最終更新:2013年02月28日 10:39
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