(年越せば春隣)宿主の指示

モノローグ 夜、宿屋のある部屋。
鬼灯(男) あのヤクめ……こんな時間まで引きずり回して……疲れて死にそうだ。
鬼灯(男) 姉貴のやつ、いったいどこに行ったんだ。書き置きもありゃしない。
鬼灯(男) しかも僕の部屋を倉庫にしてるときた!もう帰ってこないとでも思ったのか?
鬼灯(男) ……まぁ、ここを離れた時は、確かに帰るつもりなんてなかったけどさ……。
鬼灯(男) やめだ、こんな面倒なこと考えてもしょうがない……寝るぞ寝るぞ!明日はあの頑固なヤクがまとわりついてこないといいなあ。
モノローグ 鬼灯はふらふらと寝床に潜り込み、目を閉じた。しかし意識が落ちかけたその時、奇妙な気配を感じて目を覚ます。
鬼灯(男) あああ!あのヤク、なんて大きいいびきなんだ!
鬼灯(男) ……いや違う。なんだ……?テーブルと椅子がぶつかる音か……?なんでこんな音がするんだ?
モノローグ 不審に思っていると、焦った風にドアを叩く音が響く。次いで、ヤクの押し殺したような声が部屋の外から聞こえてきた。
ヤク 鬼灯、起きてる?
鬼灯(男) なんだよ?眠れないからって、物語でも聞きに来たのか?
ヤク オイラは物語なんて聞かなくても寝られるよ――じゃなくて……変な気配を感じなかった?
鬼灯(男) 泥棒じゃないだろうな?コソ泥なんかだったら、そのまま追い払ってしまえ。そんなこと、君には朝飯前だろう。僕が何かしなくたっていいだろ。
ヤク いや、コソ泥じゃないと思うぞ……。それに、お前の家の宿屋なんだから、やっぱりお前が見に行く方がいいに決まってる。
鬼灯(男) ……。
鬼灯(男) 相手にしたくなかったが、ドアを開けなければ一晩中ドアをノックし続けるだろう――このヤクならやりかねない。
モノローグ 悩んだ末、鬼灯はついに折れ、仏頂面をしてドアを開けた。
鬼灯(男) なにをそんなに慌ててるんだ?おばけが出たわけでもあるまい……に……。
モノローグ 鬼灯は、喉まで出かけた文句を飲み込んだ。視界に、あまりにも奇妙な光景が飛び込んできたからだ。
モノローグ こわばった表情で見つめてくるヤクの後ろに、半透明なぼんやりとした影が揺らめいていた。それは、ゆっくりと廊下の向こうへと歩いていく。
ヤク 一階にも二階にもこんな奴らが出てきたんだ。妖精の形のも、人間の形のもある。一階の食堂で席についてるやつもいるし、これみたいに上の階にあがったり、下に降りたりしてるのもいるんだ。何がしたいのか、さっぱり分からない。
ヤク 試してみたけど、触ろうとしてもダメなんだ。会話もできないけど、物音は出せるみたい。だからテーブルと椅子がぶつかるような音がしてたんだよ。あと、何を言っているのかは分からないけど、おしゃべりみたいな声がする……。
ヤク これはいったい、なんなんだ?
鬼灯(男) なんなんだ?って、僕にだってさっぱりわからない。
鬼灯(男) 宿屋にいた頃にも、こんなものは見たことがない……こんなのどう考えても姉貴が――
???*1 「姉貴がいたずらしているとしか思えない」って言うつもりだろ。
??? アタシはそんな品のないことはしないよ。刺激も足りないし、趣味にも合わないからね。
??? ふーん……なるほど、これが願いかい?
鬼灯(男) 姉貴!?
ヤク 宿主さん!よかった、無事だったんだね!
鬼灯(男) 姉貴。ずっと宿屋の中にいたのか?なんで出て来なかったんだ?僕がこの頑固なヤクに振り回されているのを見て笑ってた……ん?
モノローグ 鬼灯が伸ばした手が、宿主の身体をすり抜ける。
宿主*1 やれやれ。やっぱり、そんな簡単には戻れないわけかい……。
宿主 見ての通り、アタシは今、幻としてしか出て来られないのさ。時は待ってくれない。いいかいクソガキ、よく聞きな――
鬼灯(男) やだ。
ヤク 宿主さんの話も終わってないのに、なんでいやだなんて言うんだ。
鬼灯(男) 火を見るよりも明らかだ。面倒なことをやらされるに決まってる。僕はやらないからな。
ヤク まだ何も言ってないのに、なんで断言できるんだ?少なくとも、まずは最後まで聞くべきだろ。
鬼灯(男) ……あーもう。
宿主 あんたの予想通り、面倒なことには違いないね。でも最後まで聞いたら、承知せざるを得ないはずさ。
宿主 もうすぐ春節が来る。これまでだったらこの時期は、宿屋で一番の書き入れ時だった。
宿主 普通ならたくさんの商い屋や配達屋が行き来したり、よそに行っていた妖精がロンユエの街に戻ってきたりした。それがみんなこの宿屋に来て、しばらく休み、一息ついてから出発する。
宿主 でも、予想外のことが起きたのさ。こうなったらあんたに宿屋を経営してもらうしかないんだよ。
鬼灯(男) 勘弁してくれよ!
宿主 やらないっていうなら、これからは毎月の小遣いもなくなるねぇ~。
鬼灯(男) ちっ――ずるい!裏切り者!卑怯者!
宿主 ヤク君、遠くからここまで、弟を連れてきてくれてご苦労さま。悪いけど、これからもうしばらく弟の面倒をみてやっておくれ。
ヤク 安心して!依頼がきっちり完了するまで、荷物の無事を保証するのが配達屋の責務だから。
宿主 おしゃべりはここまで。長くは居られないんだ。もう帰らないと収拾がつかなくなる……あいつらが本当に約束を守るとは思えないけどね。
宿主 そうだ、もう一つ。明日、アタシのお客さんがここに来るから、しっかりもてなすんだよ。
宿主 もちろん、容赦なく搾ってやって。ちゃんとお金は払っているんだからねぇ。
宿主 それじゃ、またね。
モノローグ 別れの言葉とともに、宿主の影がすうっと薄くなる。もう一秒とて留まれない様子だった。
ヤク 宿主さん、どうしたら戻ってこられるんだ?
宿主 んん……何よりもまず、もっとお金が必要かねぇ……。
モノローグ 宿主の体が完全に消え去り、言葉だけがひらひらと残った。
ヤク お金が必要……。
ヤク いったい何があったんだろう?宿主さん、何かに閉じ込められてしまったのかな?急いでお金が必要って?この宿屋、どうしてこんなことに?
鬼灯(男) ……僕に聞くなよ。はぁ、頭が痛い。
ヤク 逃げるのか?みっともないぞ。まさか、堕落した妖精になりたいわけじゃないだろ?
鬼灯(男) いいや。なりたい!
鬼灯(男) とりあえず頼むから、まずはゆっくり寝かせてくれよ。
ヤク 寝たら、ちゃんと問題と向き合うのか?
鬼灯(男) 向き合う向き合う。だから、今は勘弁してくれ、おやすみ。
最終更新:2022年01月13日 02:19

*1 姉鬼灯